14世紀、ヨーロッパを感染症の危機が襲いました。
それは感染した死者の皮膚が黒ずむことから英語ではBlack deathと呼ばれることとなった「黒死病」です。
14世紀ヨーロッパの黒死病感染はどのようなものだったのか。黒死病が中世ヨーロッパにもたらした影響はどのようなものだったのか。
現在感染症と人間はどのように付き合っていく必要があるのか。これらについて説明していきます。
14世紀ヨーロッパにおける黒死病の実態
14世紀ヨーロッパにおいて、黒死病は感染爆発を起こしました。
その様相はどんなものだったのか。また、当時の医師たちには解明できなかった原因と治療法はどんなものなのでしょうか。
14世紀、何が起こったのか
14世紀において「黒死病」として恐れられた病気は決して、この時代に急に現れたものではありません。
実は歴史の中では、何度か黒死病が流行した兆しを読むことができます。
歴史の中で最初に現れた大きなものは541年、「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれる病気です。
これは、世界初のパンデミック(世界的大流行)で、黒死病の感染であったと研究者はみています。
ユスティニアヌスとは、東ローマ帝国の皇帝です。
東ローマ帝国はコンスタンティノープルを首都としていましたが、ユスティニアヌス帝の時代、この地においてだけでも人口の40%が死亡しました。
当時を生きる人々にとっては衝撃的だったでしょうね。
ユスティニアヌスの疫病はその後2世紀にわたって猛威をふるいますが、750年以降には消滅したと見られます。
そしてこの病気の次の大きな流行が、14世紀のヨーロッパにおけるものです。
死者の数は1347年から1351年の間だけで当時のヨーロッパ人口の3分の1と言われます。
イギリスのロンドン、フランスのパリ、イタリアのフィレンツェなど人口が多く集まる都市においては、50〜80%が亡くなったと見られます。
歴史家の仮説によると、その当時中国の一部で流行していた黒死病がシルクロード沿いに東から西、つまりアジアからヨーロッパに移動。
1347年にはクリミア半島に伝播したのではないかと推測されています。
その後、ヨーロッパ全土を活躍の場としていた商人たちによってまずはイタリアに。
そこからは急速にヨーロッパ全土へと感染拡大していったのです。
当時の年代記作者は、当時の様子を次のように記しています。
「父は子供を棄て、妻は夫を、兄弟は互いを。というのはこの疫病は呼気と視覚をとおして移るようだったから。そのようにして彼らは死んだ。そして、金銭や友情では死者を埋葬する人が見つけられなかった。一家の人間ができるだけ死体を溝に持っていったが、司祭もいなければ祈りを捧げる者もいなかった。」
治療法も見つけられない。予防法もわからない。けれど罹患したら最後、なすすべもなく死んでしまう。
さらに埋葬さえも丁寧に行えないという現実がそこにはありました。
また、イタリア・フィレンツェに生まれたジョバンニ・ボッカッチョは黒死病の症状についてこう記しました。
病気の初期の段階でまず男女ともに鼠蹊部(そけいぶ・太ももの付け根)や腋の下に一種の腫瘍を生じ、これがりんご大に腫れ上がるものもあれば鶏卵大のものもあって、一般にはこれがペストのコブと呼び習わされた。
死のペストのコブはたちまち全身にひろがって吹き出してきた。その後の症状については黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の他の部分にも、それらがさまざまに現れて、患者によっては大きくて数の少ない場合もあれば、小さくて数の多い場合もあった。斑点が現れれば、それはもう死そのものを意味した。
患者の肌が黒くなり死んでいくだけでも怖いのに、いつの間にか他者にも移ってしまう。
いつ自分がかかるか分からない。
目に見える症状が現れた時にはすでに死が迫っていることを意味する。
ヨーロッパ各地でそんな状況が少なくとも1347年から1451年までの約4年間にわたり続いたのでした。
黒死病の原因
当時の人々は黒死病の正しい原因を理解していませんでした。では当時一体何が黒死病の原因とされたのでしょうか?
中世の医師は黒死病は「瘴気(しょうき)」によるものだと考えました。
そして、この疫病が襲ってきたのは、人々が犯した罪に対する神の処罰である。としたのです。
瘴気とは、古代から19世紀ごろまでの間、病気を引き起こす元であると考えられていた「悪い空気」のことです。
沼地などの汚い場所から発生する瘴気は、人間が吸い込むことで病気を引き起こさせると考えました。
黒死病は瘴気によるもの。
瘴気とは悪い空気のことであり、つまり空気によって伝染していくのだから、移らないようにするためには生活スタイルを変える必要がある。
と医師たちは説いたのです。
悪い空気が家の中に入り込まないように、窓は閉め切る。さらに締め切った窓には覆いをかける。
衣服を脱ぐと毛穴を空気に晒してしまい感染する可能性が高まるため、頻繁な入浴は危険。
これらの医師たちの進言に、裕福な人々は壁にかけるための分厚いタペストリーを買い求め、入浴する習慣をやめました。
お互いの頻繁な交流をも制限。都市の一部の人々は感染があまり広がっていなかった田舎へと疎開していったとも伝わっています。
もちろんこんなことでは病気の感染は防げないと現代の私たちにしてみればわかりますよね。
けれどこの時代の人々は本気でした。
実際、黒死病の原因はというと、微生物の一種「ペスト菌」によるものです。
ペスト菌はマーモットといったげっ歯類、つまりネズミに宿っています。そのペスト菌を持ったげっ歯類を「ノミ」が噛み、ノミの体内でペスト菌が増殖。
ペスト菌を体内で増殖させてたノミが次に動物を噛むと、その動物がペストに感染してしまいます。
ペスト菌が血流に入るとみるみるうちに増殖、リンパ節に定着してしまい、発熱、頭痛、嘔吐といった症状が出現。
目に見えるコブや黒い斑点が出て死に至ります。
ネズミ、ノミがいるところには黒死病の危険が増すわけですから、空気の入れ替えをしない。入浴をしない状況で瞬く間に黒死病が広がっていった理由がよくわかりますね。
黒死病の治療法
中世社会において、効果的とされる病気の治療法といえば「瀉血(しゃけつ)」でした。
これは体に流れる「悪い血」を外に流すことによって健康を取り戻すという治療法です。
黒死病を記したジョバンニ・ボッカッチの著書『デカメロン』の中にも、医師がヒルを用いて瀉血をする場面が描かれています。
ただ、黒死病の原因は「ペスト菌」であって、悪い血のせいではありません。
血液を多少(時に2リットルから3リットルの血液を抜かれたことにより失血死した例もなくはなかったようです)抜かれたところで、症状が改善することはありません。
つまり、この時代において正しい治療法は存在しなかったわけです。
黒死病の正しい予防法も治療法も持ち合わせていなかったこの時代。
膨大な死者を出しながら、数年で黒死病が治まったように見えたのは、感染する人間の数が減ったせいということが一番なのではないでしょうか。
現代におけるペスト
「ペスト菌」という微生物による感染が黒死病の原因です。このペスト菌を発見したのは、なんと日本人。
北里柴三郎です。
1894年、北里は14世紀の大流行後も何度も人間を襲った黒死病の原因菌を発見しました。
この発見により、人間を苦しめ続けた黒死病の正体がやっと分かったのです。
なお、黒死病は現在も根絶されていません。
中央アジア、アフリカ、アメリカ大陸、特にアメリカ合衆国のロッキー山脈周囲にペスト菌の分布が確認されています。
感染経路は、ノミに噛まれることによる感染。ペスト菌に感染した動物の体液、血液に触れることによる感染。
また、ペスト菌感染者、特に肺炎を発症したペスト菌感染者の咳や痰による飛沫を吸い込むことによる感染です。
一時期ワクチン接種がされた時期があるそうですが、効果がないということで現在では接種されていません。
治療法としては抗菌薬の投与が効果的です。治療を早期に開始することで致死率は下がります。
しかし現代においても適切な治療が行われなかった場合、30%が死に至る病気として残っています。
黒死病が与えた影響
黒死病の感染爆発が中世ヨーロッパで起きたことで、中世社会は変容へと向かいます。
黒死病感染により引き起こされた何が、人々や社会を変えていったのでしょうか。
ペストによる極端な人口減少
黒死病が14世紀のヨーロッパに与えた最大の影響は人口減少です。
1347年から1351年の間に当時の人口の3分の1が死亡したことは先述した通りです。
11世紀から14世紀にかけてヨーロッパの人口は2倍から3倍に増えていました。
森ばかりであったヨーロッパにおいて、人々が定住できる場所が増え都市が新たに建設されたこと。
放棄されていた土地に人が住み着き、耕作地を拡大させていったことがその要因として挙げられます。
急激に増えた人口のため、黒死病直前の都市は過密状態。感染が広まるために十分な環境が整っていました。
また先天的にペスト菌の免疫を人間は保つことができません。
奇跡的に生き残った黒死病患者もいないわけではないのですが、そんな人も短期的な免疫しか獲得できません。
長期的な免疫獲得にはならず、また次の世代に免疫を渡せるわけではありません。
おそらく様々な不可解な要因が重なって、14世紀における黒死病はフェードアウトしていったのですが、確実に人口は減少しました。
多数が罹患、死亡したことにより結婚数の減少、出生数の減少も起きたからです。
1300年当時、現在のイギリス、イングランドとウェールズの人口はほぼ600万人だったそうです。
その後、黒死病の時代を経て同水準まで人口が回復したのは18世紀に入ってからだと伝わっています。
宗教観の変化
ヨーロッパと言えばキリスト教です。
特にこの時代広く信じられていたのはキリスト教の中でも、いわゆるカトリック。
カトリックとは「普遍」を意味し、ローマ教皇を中心として世界各地に広がる教会のことです。
黒死病に対して明確な予防法、治療法を持ち合わせていなかった当時の人々にとって、感染の恐怖から逃れるためには「神に祈る」しかありませんでした。
そして人々が頼る先というと「キリスト教の聖職者」が挙げられます。
社会を管理・運営し、結婚や死に向かう人々に対して宗教的な祭祀を司るなど、さまざまな役割と権威を社会の中で担っていました。
教会に頼れば、聖職者に頼ればなんとかしてくれる、聖職者の存在も神や信仰と同じように絶対的なものだったのでしょう。
そんな宗教感を持っていた当時の人々が、黒死病の到来によってどんなことを目の当たりにしたでしょうか。
それは、聖職者も人間だということがわかってしまったということです。
神を司る聖職者は黒死病を克服できると信じられていたのだが現実はそうではなかった。
いくら神の言葉を伝え、地域社会において絶対的な権力を持っていた聖職者であれ、黒死病での死亡率は普通の人と変わりません。
ひょっとすると、信心深く献身的な聖職者であればあるほど、病人、死者に触れる機会が多く、死亡率が高かったかもしれません。
そしてその「聖職者の死亡」が2世紀後に現れる「宗教革命」へとつながります。
この時代に失われた聖職者の数を埋めるべく新たな人材が教会に入ります。
しかし、その新たな人材は必ずしも信心深く、献身的な者ばかりではありませんでした。
社会を機能させるためには聖職者の存在は絶対。ありあわせの人材であったとしても椅子を空けておくわけにはいかなかったからです。
そうして地位を金銭によって得るものが現れ金銭によって得た地位や権力を濫用する。
そんな聖職者も少なく無く、教会の腐敗を生み出すきっかけとなりました。
そうした黒死病から始まった小さな綻びの積み重なりが、200年の時を経て「現存の教会からの離脱」を目指す運動、「プロテスタント」運動へとつながっていく要因となったのです。
社会構造の変容
黒死病がもたらした一番大きな影響は人口の減少だとお伝えしました。
それは都市部のみに起こったことではなく、程度の差はあれど、農村部でも起こったのです。
人口が減ってしまったため労働力に対して土地が余ってしまい、それを解消したい土地の持ち主は、賃金水準を上げて労働力を募るということが起きました。
黒死病以前、土地を持たない労働者である小作人は、地主や地主の土地に縛られ、不平不満さえ言えない関係性がありました。
しかし、黒死病による人口減少は、生き残った小作人たちに金銭的な自由と、地主にもの言う力を与えたのです。
また、それまでは「神によって定められた」と考えられていた階級制度も、変化も見せ始めます。
家柄、血筋が大事。と考えられていましたが、この考えも人口減少により、平等と功績に基づいて生活できる社会へと徐々に変化していきます。
どんなに偉い人間も、卑しい人間も、病の前では、「死」の前では同じ。
そんな現実を人々が受け入れ、変容していったというわけなのです。
そうした社会構造の変化が起きた一方で、スケープゴート的に虐殺が起きた事実も一部ではあったと言います。
ユダヤ人、物乞い、よそ者、皮膚病患者などは疫病の原因を持っているとされ非難、殺害されたという事実を忘れるべきではないのでしょう。
現在の感染症と人類
黒死病の感染爆発は過去のことですが、現代社会においても感染症は私たちを悩ませています。
人類は、感染症とどうやって付き合っていけばいいのでしょうか。
人類と感染症
人類の歴史に感染症はつきものです。
現在人類を困らせているCovid-19、通称コロナウイルスですが、その原因のウイルス自体は数百万〜数千年前から地球上に存在しています。
他にも天然痘、インフルエンザ、結核、HIVなど歴史には多くの感染症がもたらした事象が記録されています。
それぞれが死者を出し、社会の流れを多少なりとも変えてきました。
先述してきた黒死病についてだけでいうと、ローマ時代の文献に初めて黒死病が出てきた時から今に至るまで根絶には至っていません。
中世ヨーロッパの社会のあり方を変えるきっかけとなった黒死病は、予防法の発見、治療法の確立があって、今、上手に付き合っていけているといった状況なのです。
私たちを悩ませるコロナウイルスについて言えば、明確な治療法、予防法はまだ開発段階にあり上手に付き合っていける段階にはありません。
しかし、世界中のどこでも、いつでもパンデミック、感染爆発をおこす可能性がある感染症がまだ存在しているということを教訓として教えてくれています。
小さくなった世界
1900年、地球上の人口は約16億人でした。
それが現在、80億人へと急速に人口を増やし続けています。
地球上で人が住むことができる場所はそこまで変化がないのに、人口だけが増え続けどんどん混み合っていく状況です。
人口の過密状態は、黒死病の感染を見てわかるように、疫病の蔓延を助長します。
また、中世とは異なり、今や世界中のどこへでもいくことが可能です。
さまざまな輸送手段を使って人が動くこと、ものが動くことは当たり前のように行われています。
このことは、世界中のどこかで発生した感染症が、簡単に世界各地に飛び火できるという状況を示しています。
現に、海を隔てた中国という国で発見されたコロナウイルスは、いつの間にか日本にも入り込み、今なお感染が続く状態です。
世界が小さくなって、お互いが簡単に関わり合える現在において、地球のどこかで起きた感染症は、決して他人事では済まない時代に来てしまっているのです。
生物全てが関わり合う世界
考えるべきは人間のみではありません。
毎年日本のどこかで発生する「鳥インフルエンザ」は、大陸から飛来する鳥によってもたらされる鳥類の感染症です。
人間がいくら国境を意識したところで、動物に国境は関わりありません。
また地球上には私たち人間だけでなく、動物、植物、カビといった真菌、アメーバなどの原生生物、細菌、メタン菌などの古細菌、そして目に見えないようなサイズのウイルスなどが存在します。
これらは決して単体で存在できるものではありません。
お互いに何かしらの影響を受け、そして与えながら存在しているのです。
この地球で長く自らの種を存続させるためには、色々なものと関わりあって存在していることを忘れず、共存することが必要なのではないでしょうか。
ある研究者の言葉によると、コロナウイルスの感染爆発に対する私たち人間の教訓は、
「自然の支配者にして所有者になるのではなく、コントロールできない波を乗りこなすサーファーになる方がいい」
ということだそうです。
つまり色々なものが複雑に、相互に関わりあっている以上、それを押さえつけるのではなく、うまく順応していくことが大事だということ。
人間が独りよがりで様々な対策を打つのではなく、うまく付き合っていくやり方を見つけることが必要なのかもしれませんね。
黒死病(こくしびょう)とは?簡単にわかりやすくペストを解説・まとめ
14世紀の黒死病は急激な人口減少を招き、社会の方向性を変えさせました。
社会を変えてしまうほどの影響力を持った感染症は過去のものではなく、現在もそしておそらく未来も存在し続けます。
恐怖や死をもたらす感染症ですが、恐れてはいけない。とは決して言えません。
けれど、少なくとも、いつでも、どこでも起こり得るものとしてうまく付き合う術を模索することが必要だと思います。
『感染症の世界 黒死病からコロナまで』リチャード・ガンダーマン、原書房
『危機の世界史』ダン・カーリン、文藝春秋
『黒死病 疫病の社会史』ノーマン・F・カンター、青土社
『人口の世界史』マッシモ・リヴィーバッチ、東洋経済新報社
『人類と感染症、共存の世紀 疫学者が語るペスト、狂犬病から鳥インフル、コロナまで』デイビット・ウォルトナー=テーブス、築地書館
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