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イスラム世界の英雄・サラディン!敵からも愛された不思議な魅力とは?

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目次

イスラム世界の統一と聖地の奪還

敬愛する叔父と父の死、かつて信頼されていた主君との対立など次々と試練がサラディンを襲います。

この時、因縁のキリスト教国家イェルサレム王国だけでなく、同じイスラム教のザンギー朝シリアとも対立しており、サラディンの戦いの日々は続いていました。

この章では、サラディンがイスラム世界をまとめあげ、ムスリムの悲願であったイェルサレムを奪還するまでを見ていきます。

シリアへの侵攻、イスラム世界の王へ(ザンギー朝との戦い)

1174年2月、サラディンは兄のトゥーラーン・シャーをイエメンへ派遣して自分の領土としました。

この行動に怒ったヌールッディーンはエジプト侵攻を仕掛けようとしましたが、3か月後に急病に倒れ、ダマスクスでで死んでしまいました。

その後ザンギー朝はヌールッディーンの息子サーリフが即位します。

即位後すぐに内紛が起こり、またイェルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻してきました。

家臣の離反も相次ぎ、焦ったサーリフはサラディンに救援を求めました。

これを受けてサラディンはシリアに出征し、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たしました。

そして、サーリフから離れようとする家臣たちを説得したのです。

この時、イェルサレム王国のアモーリー王も急死して息子のボードゥアン4世が即位したため、エルサレム王国軍も撤退したことから、長く分裂していたイスラム世界はサラディンのもとで1つにまとまったのです。

ボードゥアン4世との戦い(イェルサレム王国との戦い)

混乱するイスラム世界をまとめ上げたサラディンが次に目指したのは、聖地イェルサレムの奪還でした。

こうして、1177年サラディン率いる2万6千の兵がエジプトを出発、イェルサレムを目指します。

ところが、サラディンのもとに思わぬ強敵が現れます。

それがイェルサレム王国に新たに王となったボードゥアン4世でした。

彼はわずか13歳で王位につき、また病弱でした。しかし、彼の勇猛ぶりはのちに語られることになります。

サラディンは王国西南部のアスカロン要塞という城に、エジプトから騎兵で急襲しようと考えました。

その動きを知ったボードゥアン4世は400名の兵を率いて要塞に立てこもります。

すぐに2万のエジプト軍に包囲されてしまいますが、ボードゥアン4世は神に必死に祈りを捧げます。

これを見た将兵たちは「病弱な王がここまで覚悟を決めている」と感銘しエジプト軍に突撃し、サラディンは病身の少年が率いる300の騎兵に蹴散らされてしまいます(モンジザールの戦い)。

しかし、2年後のマルジュ・アユーンの戦いやヤコブの浅瀬の戦いではボードゥアン4世率いるイェルサレム王国軍を撃破します。

両者はその後も各地で死闘を繰り広げますが、その1年後和議を結びます。

しかしその和議はイェルサレム王国によってすぐに破られ、両者は再び戦うようになります。

サラディンはこの病弱な青年王の勇敢な戦いぶりに苦戦してしまいますが、24歳の若さでボードゥアン4世がなくなったことで大きく情勢は変わります。

聖地イェルサレムの奪還 (イェルサレム王国との戦い)

勇敢な王の死後、イェルサレム王国は家臣によるクーデターが起き、混乱していました。

その隙をつき、サラディンは3万の兵を率いて、再びイェルサレムに向かいます。

それを迎え撃ったのは混乱の中でなんとかイェルサレム王国の王となったギー王でした。

両者はヒッティーンの角と呼ばれる地域でぶつかります。(ヒッティーンの戦い)。

この時サラディンの作戦により十字軍は小高い丘に登ってしまい、一気にサラディン率いるエジプト軍に包囲され、ついにギー王率いるイェルサレム王国軍は降伏してしまいます。

この時、捕らえられたギー王がサラディンの前に引き出されます。

するとサラディンはギー王の縄を解き、水を与えるように命じます。

そして「身代金を払えば解放し、自国に帰ってもよい」と言います。兵士たちは敵味方関係なくサラディンの寛大な処置に驚きます。サラディンはギー王以外にも降伏した兵士たちに寛大な処置を与えました。

一方、サラディンも激怒した敵の武将がいました。それがルノー・ド・シャティヨンというフランスの騎士です。

ルノーは両者が和平を結んでいる間にも商人や巡礼者といった非戦闘員への虐殺を繰り返し行っており、彼が殺した中にはサラディンの姉妹も含まれていました。

寛大なサラディンと言えども、民間人を狙った卑劣な行動には大いに怒り、自らの手でルノーを殺したといわれています。

こうしてイェルサレム王国は王が不在の状態となり、サラディンは快進撃を続けます。

そしてついに1187年10月2日イェルサレムを陥落させ、悲願であった聖地の奪還に成功するのです。

この時も身代金を払った捕虜はもちろん、払えなかった捕虜たちまでをも解放してしまいました。

さらに孤児や寡婦にはサラディンの私財で補償金を付けたとすらいわれています。

果てしない十字軍との戦い、そして「好敵手」との出会い

サラディンによる聖地陥落のニュースは聖地への関心の薄れていた西欧にとって青天の霹靂(へきれき)でした。

そして西欧の強国であった三大国の王たちが史上最大規模の第3回十字軍を結成することになったのです。

第3回十字軍を結成したのは、神聖ローマ(現在のドイツ)皇帝・フリードリヒ1世バルバロッサ、フランス国王フィリップ2世・イングランド(現在のイギリス)王リチャ-ド1世でした。

 このうち神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は遠征途中の川で溺死し、フランス国王フィリップ2世はイングランドとの対立により自国に帰ってしまったため、実質的にこの十字軍の指揮をとったのはイングランド王リチャ-ド1世でした。

彼は、獅子心王(ライオンハート)と呼ばれる勇敢な王として知られており、サラディンにとって生涯をかけた好敵手となりました。

この章では聖地イェルサレムを巡った「好敵手」リチャード1世との戦い、そして敵味方問わず惜しまれたその死についてみていきます。

獅子心王との激しい戦いと和平(第3回十字軍との戦い)

リチャード1世率いる十字軍はイェルサレム上陸するに必要な港町アッコンを攻撃します。

ここはイスラム軍が守備しており、サラディンも救援に駆け付けます。

しかし、ここでサラディンはリチャード1世率いる十字軍に敗れ、アッコンは制圧されてしまいます。(アッコン包囲戦)この時、身代金の支払いが遅れたという理由で十字軍はイスラム教徒3千人を殺してしまいました。

これに勢いづいた十字軍はさらにイェルサレム近くの港町ヤッファに攻め込もうとします。

これを聞いたサラディンはアルスフというヤッファの北にある場所で迎え撃とうとします。

この時リチャード1世の軍隊の隙を見て、軽騎兵(身軽装備の騎兵隊)で敵の最後尾を襲い、敵が反撃すれば素早く逃げるということの繰り返しを行うことで、敵が疲弊したところを襲うというおとり作戦に出ます。

この作戦を見抜いていたリチャード1世は反撃をしませんでしたが、ついに耐え切れなくなった部隊の一つがサラディン軍と戦いはじめます。

リチャード1世はこれに対して、「森の外にいるおとり部隊には突撃せよ。ただし敵の潜む森には絶対に後追いするな!」と命じ、森の外にいるおとり部隊だけ殲滅します。

このあざやかな戦いぶりにサラディンは「これ以上の攻撃は危険だ」と悟り、撤退することになります。その後、リチャード1世によりヤッファも占領されてしまいます。

しかし、サラディンはあきらめませんでした。イェルサレムに籠り徹底抗戦の構えを見せたのです。

両者の戦いは1年以上続きましたが、サラディンに勝つのは難しいと考えたリチャード1世は裏で和平工作を行うようになり、ついに休戦条約が結ばれることになります。

この時サラディンは「今後イェルサレムに侵攻しないこと」を条件に「非武装のキリスト教徒であれば、イェルサレムに訪れてもよい」と提案します。

リチャード1世は自身がイェルサレムに行くことは辞退しますが、敵将サラディンを「間違いなく最も強力かつ偉大なサラセンの指導者」と賞賛しました。サラディンもまた「キリスト教徒一の騎士だ」とリチャード1世を称えています。

敵からも愛されたサラディンの寛大さ

和平を結んだリチャード1世は本国イングランドに戻っていきましたが、本国イングランドでは弟ジョン王が王位を狙っており、すぐにとらえられてしまいます。

身代金を払い、解放されたのちはすぐにジョン王を破り、イングランド王位に復帰しますが、彼の人生はその後王位をめぐって親族と争うものとなりました。

そんな折、リチャード1世は病に倒れます。この時、彼のもとに見舞いをよこした人物がいます。それがサラディンでした。

サラディンの命令を受けた部下たちが見舞いの品を持ってリチャード1世のもとに参上します。

リチャード1世の部下たちは見舞いの品に毒が入っていないかと疑いますが、リチャード1世はそのような声を気にすることなく見舞いの品を受け取ります。

戦場で戦っていく中でリチャード1世もサラディンのまっすぐで寛大な性格に気づいていたのです。

しかし、この時サラディンもまた病魔に蝕まれていました。

彼自身もダマスクスにて病気に倒れ、1193年3月4日、56歳の生涯を閉じました。

普段より、財産を貧しい人々や自分の部下たちに分け与えていたサラディンの遺産は自身の葬儀代にもならなかったといわれています。

最後に

このようにイスラム世界の統一、聖地イェルサレムの奪還、十字軍との戦いにその生涯をかけたサラディンでしたが、彼の寛大な人となりは、イスラム教徒はもちろん敵のキリスト教徒にも愛されました。

サラディン死後、イスラム世界は再び分裂し混乱しますが、再び結成された十字軍は決してイェルサレムには攻撃を加えませんでした。

「イェルサレムには侵攻しないこと」というサラディンとの条件を尊重したのです。

中世ドイツでは、サラディンの気前良さは君主の目標とされ、ある詩人は「王たるものはサラディンを手本にせよ」とまで述べました。

サラディンへの敬愛は今でも続いています。

先に述べたリチャード1世が治めていたイギリスでは、開発した戦車にサラディンの名が付けられました。

そのイギリスと一時対立していたシリアの貨幣にはサラディンの騎馬姿が描かれています。

様々な勢力の跋扈(ばっこ)、分裂、一部のアラブ国家とキリスト教国家でのいがみ合い、戦争…。

昨今の中東情勢は800年前の状況と似ています。だからこそ、その解決にはお互いに寛大な気持ちで認め合い、対話の姿勢を持つことが必要なのかもしれません。

当時の混乱・両宗教の対立をしずめ、イスラム世界に一時ではありますが平穏をもたらしたサラディンがそうであったように。

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