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クロアチア紛争をわかりやすく解説!殺し合う理由は一体何?

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みなさん、こんにちは!

第二次世界大戦終結から現在まで、私たちは平和に生活することができています。

しかし今から約30年前、ヨーロッパ東南部のクロアチアという国で紛争が起きました。

この「クロアチア紛争」は、ある2つの民族が激しく対立し、殺し合った紛争です。

世界各国の歴史を見ると、「民族」の違いは凄惨な結末をもたらす傾向があります。

では、この紛争はどんな紛争だったのでしょうか?

今回は、このクロアチア紛争について解説します。

目次

クロアチアの歴史と情勢

クロアチアはヨーロッパ東南部にある国です。首都はザグレブという都市にあります。

クロアチアは、ネクタイ発祥の地と言われていたりします。

ここでは、そんなクロアチアで起きた紛争のお話に入る前に、当時のクロアチア情勢について整理しておきます。

色んな民族が混在していた国・ユーゴスラビア

クロアチアはかつて、ユーゴスラビアという連邦国家を構成する共和国の1つでした。

ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアの6つの共和国からなっていました。

ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」とよく言われます。

このことから分かるように、ユーゴスラビアはとても複雑な多様性がある国家でした。

国家の中にこれだけ多様性が存在するので、やがて民族間で争いが起きてきます。

中には「この国(共和国)では俺たちの民族だけが偉いんだ!」と主張する民族主義者が居ました。

チトーがユーゴスラビアの大統領を務めていた頃は、彼がこのような民族主義を徹底的に弾圧していました。

そのため、このときは民族同士の争いが起きることなく平和でした。

2つの民族~クロアチア人とセルビア人~

クロアチアには主に2つの民族が暮らしていました。クロアチア人とセルビア人です。

紛争が起こる前のクロアチアの人口は約480万人で、そのうち約75%がクロアチア人、約12%がセルビア人でした。

クロアチア人が圧倒的に多数で、セルビア人もそれなりの数を占めているのが特徴です。

今回の記事は、この2つの民族の間で起きたお話です。

クロアチアとセルビアは仲が悪かった

紛争前のクロアチアと、その隣国であるセルビアの関係は最悪なものでした。

なぜならばクロアチア人とセルビア人は第二次世界大戦のときにお互いに殺し合っていたという歴史があったからです。

そのため、第二次世界大戦後にチトーがユーゴスラビアを治めていた頃でもクロアチアとセルビアの間には緊張がありました。

相手民族のことを差別したり、自国の民族主義を掲げたりする者も居ました。

チトーはこのような考え方を絶対に許さず、こういった人たちを力ずくで弾圧しました。

なので、クロアチアやセルビアの間で対立はありながらも、チトーのおかげで大きな争いが起きることはなかったのです。

そんな中、1980年にチトーが亡くなります。

クロアチアとセルビア、および他のユーゴスラビア各国の平和だった状況は、ここから一変していくのです。

セルビアで民族主義が台頭・大セルビア主義

チトーの死去後、民族主義や民族間の対立がまた生じます。しかしこのとき、これらを抑え込める人間がいませんでした。

なので、抑えられていた民族主義がユーゴスラビアの各地でまた台頭してしまいます。

その中でもセルビアは民族主義的な考えが特別強いものでした。

セルビアにはクロアチア人も住んでいました。

そこに居たクロアチア人は、この民族主義に扇動されたセルビア人によって学校や仕事を辞めさせられるなど、不遇な扱いを受けました。

このような事情があり、セルビアに住んでいた多くのクロアチア人はクロアチアへ逃げていきました。

こうして、クロアチアとセルビアの緊張が強くなります。

そして1989年、過激なセルビア民族主義者 スロボダン・ミロシェビッチがセルビアの大統領になります。

ミロシェビッチは大セルビア主義と呼ばれる民族主義を掲げていました。

これは「ユーゴスラビアの領土は全てセルビアのもの!」「セルビアに居る民族は全員セルビア人で統一すべきだ!」という、かなり激しい民族主義です。

これにより、セルビアでは民族主義が一層強くなります。

クロアチアの大統領も民族主義者

同じ頃、クロアチアでもクロアチア民族主義が台頭していました。

1990年、クロアチア民族主義者のフラニョ・トゥジマンがクロアチアの大統領になったのです。

トゥジマンは、ミロシェビッチほどの民族主義者ではありませんでした。

しかし、トゥジマンもかなりの民族主義者でした。

トゥジマンはクロアチアに住む全ての人間に対して、クロアチア語のみを使用すること、クロアチアの宗教 ローマ・カトリックを信仰することなどを強制しました。

前述した通りクロアチアにはセルビア人も多く居ました。

セルビア人からすればこんなことを強制されるのは絶対に嫌ですし、トゥジマンはセルビア人から大きな反発を受けます。

こうしてクロアチアの中で、クロアチア人とセルビア人の間の溝が深くなっていきます。

クロアチアの中にセルビア人自治区を設立

クロアチア国内には、セルビア人が多数住んでいる地域がありました。

この地域を今は便宜的にクライナと呼ぶことにします。

紛争前、クライナでは人口の3分の2をセルビア人が占めていました。

ミロシェビッチがセルビアの大統領になった頃、そんなクライナにおいてもセルビア人の民族主義が非常に高まっていました。

そして、この地域でクロアチア人とセルビア人の対立が度々生じていました。

そんな中、トゥジマンがクロアチアの大統領になります。

トゥジマンはクロアチア民族主義者なので、クライナに住むセルビア人はトゥジマンが政権を取ることに反発の姿勢を強く示します。

そこで、クライナに住むセルビア人たちは「この地域は俺たちセルビア人が統治する自治区だ!」と言ってクライナに自治区を設立します。

こうしてクロアチアの中に、セルビア人が統治する自治区クライナ・セルビア人自治区が生まれたのです。

まだ紛争が始まっていないのに、この時点でもうドロドロとしていますよね。

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