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朝鮮王朝10代国王・燕山君(ヨンサングン)の暴君ぶり!そして味方は誰もいなくなった・・・

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燕山君(生年月日1476年〜没年月日1506年)

10代目の王様となった人物で朝鮮王朝27人の中で李氏朝鮮の最悪な暴君として知られています。

彼はいったい何をしてそう呼ばれるようになったのでしょうか。

母親は王妃でしたが、廃妃になり死亡と言う辛い生い立ちの中で育った燕山君。彼を取り囲む環境から見ても人を信じられない偏屈な人間になってしまったのかもしれませんね・・・・・

特に燕山君は儒学者との激しい対立で数多くの犠牲者を出しています。それでは早速、燕山君とはどんな人物でどのように生きていったのか紹介しましょう!!

ちなみに日本では室町時代から応仁の乱が起こった頃です。

目次

暴君・燕山君の誕生

燕山君(ヨンサングン)は、1476年11月23日に9代朝鮮王朝の国王。

成宗(ソンジョン)王朝国王・成宗と第二王妃、斎献王后(チェホアンワンフ)との間に長男として、景福宮・交泰殿で生まれました。

長男と言うこともあり、生まれたときから将来の跡継ぎ候補とされてきました。

燕山君だけに隠された実母の死

第二王妃、斎献王后は嫉妬深く、たびたび成宗を困らせました。そんな事があり成宗の心もさすがに第二王妃から離れていきました。

この第二王妃である斎献王后は他の側室達とも仲が悪かったようですね・・・よっぽど性格の悪い女性だったのでしょうね。

3年後の1479年、燕山君が4歳の時に斎献王后は王妃から嬪の位に降格させられます。

というのも、斎献王后が成宗の顔を傷つけてしまう事件が起きてしまい姑のインス大妃の怒りをかったからなんです。

斎献王后は廃位にされ、王宮を追放されてしまいます。

1482年、燕山君が7歳の時、廃妃(第二王妃、斎献王后)は28歳の時に、王命により、毒を飲み亡くなりました。

そして、母親の死から一年後、燕山君8歳の時に世子になります。
 
燕山君は、第三王妃の貞顕王后(チョンヒョンワンフ)の息子として育てられました。
 
世子は、形式上では王妃の子供です。
 
しかし、燕山君はお母さんとされている貞顕王后には全くなつかず、貞顕王后も廃妃が生んだ子に愛情をかけることが出来ませんでした。
 

また、祖母のインス大妃も燕山君には、とても厳しく接して、嫌っていたようです。

王妃にも嫌われた燕山君

インス大妃は、燕山君の母親のことを「育ちと性格が悪い」と言う理由でとても嫌っていました。その影響で燕山君の事も憎く思っていたんでしょうね。

その一方で、異母兄弟の普城君(チンソングン)の事をとても可愛いがっていました。

このような境遇から推測すると、誰にも愛されずに育ったせいか、燕山君は偏屈で勉強も好まず、自分以外の者は信じられずに頑固な人間になってしまったのでしょう。

諸説ありますが、燕山君は3番目の王妃のことを本当の母親と思っていたと言われています。

しかし王様として即位する前には本当の母親がすでに亡くなっていることは知っていたのです。

実の母親の死は、燕山君にとってはとても衝撃的な事で、母親の死が受け入れられなかったのでしょう。

母親の愛情をもらえないままだったので燕山君は大変わがままになります。きっと母親がいない寂しさを、わがままを言うことで発散させていたんでしょうね。

子供時代の燕山君にまつわる逸話

成宗

ある日父親の成宗に庭に呼ばれた燕山君。すると成宗が可愛がっている鹿が寄ってきて燕山君の手の甲や衣服を舐めてきました。

なぜかそれを怒った燕山君。

成宗の目の前で鹿を思い切り蹴飛ばしたのです。それを見た成宗は驚いて「なんて事をするんだ」と、燕山君を叱りました。

そんな燕山君の性格から父親の成宗も燕山君を嫌っていたのです。

その後、王様となった燕山君はなんと、その鹿を殺してしまったのです。もう自分勝手極まりないですよね!

 燕山君の恩師の話し

子供の頃から燕山君には優秀な先生が2人、勉強を教えていました。

しかし、勉強が嫌いな燕山君。勉強もしないで遊びに夢中だった彼に対して、先生の1人は、燕山君の気持ちを分かっていたのか優しく接してくれました。

しかし、もう1人の先生は厳しく叱って無理矢理勉強をさせました。

燕山君が王様となった後、この厳しかった先生は彼に処刑されてしまったのです!恩知らずもいいとこですよね。

このような事から燕山君は、とても執念深い性格であったと言われています。

大きくなるにつれ燕山君の行動は悪くなる一方で最高学府である成均館を酒宴場所にして毎日のように宴会を催していたそうです。

幼い頃から王様になってからも数々の悪行に手を出していた燕山君。

どうしてそのようになってしまったのでしょうか?

戊午士禍(ムオサファ)事件

そして成宗が1494年に亡くなり、燕山君は18歳で10代目の朝鮮王朝国王として即位しました。こんな男が国王とは国民もかわいそうですが・・・

18歳で即位したばかりの燕山君は、成宗の意思を継いで比較的真面目に政務をこなしていました。

成宗が起用した若い知識人達の『士林派官僚』が、燕山君に先代の教えをこれでもかと言うほど燕山君に説き、道義だ勉学だと、しつこく言うようになり嫌気がさしてきます。

そこに便乗してきたのが、士林派と対立する勲旧派

彼らは燕山君に取りいって士林派を断罪し政治的迫害を行ったのです。

燕山君の時代に最初に起こった士禍で、燕山君の即位した干支を取って

『戊午士禍(ムオサファ)』と呼ばれるようになりました。

燕山君は、この事件で煩わしい「士林派」一掃し自分の追従者ばかりをそばに置いて、権力者の欲望のままに背徳的で反社会的な行為を繰り返して行いました。

『甲子士禍』(カプチャサファ)事件

実母の死に関しては、父親の成宗が燕山君の将来を心配して廃妃(母親)のことを話題に出すことは100年間、禁止するように皆に命令していました。

周りの人達は誰も燕山君には話すことはありませんでした。

母親の死の真相を知るきっかけになったのは、出世願望の強い下級層の官僚が燕山君になんとか取り入ろうと「実は母上は追放されて死罪にされました」と細かく真実を話したことにあります。

実母の死の真実を聞かされた燕山君でしたが、真実を聞いたその夜は、悲惨な最後を遂げた実母を思って一晩中泣き明かしたのだそう…。

そして実母の復讐を誓った燕山君は1504年3月から7ヶ月間に渡り、勲旧派と士林派関係なく、実母に関わった全ての者達を一人残らず処刑しました。

すでに死んでる者達には兵士に墓を掘り返させ、首を切り落とすと言う残酷な行為もしました。

燕山君は実母の事を死んでも尚、心から慕っていた事がこの出来事で分かります。

当然、恨みの矛先はインス大妃にも。しかし、甲子士禍の間に亡くなり、復讐する事は出来ませんでした。

この事件を『甲子士禍』(カプチャサファ)と言います。

その後も燕山君は、実母の仇を打ち、その他にも様々な残虐行為(ざんぎゃくこうい)を繰り返して、文字通りの暴君となっていくのです。

最悪な暴君・燕山君

もう誰も燕山君に歯向かうものはいなくなりました。暴君ぶりはさらにエスカレート。高度な文学を学ぶ成均館でさえ飲み屋のようにしてしまう始末。

この行為は歴代でもありえない事です。

次に、燕山君の狩りをするだけの為に、都城から三十里内に住む民を追い出したりと自分の楽しみの為に民にもひどい行為をしたのです。

そして、女性関係においても不道徳な行いをしてしまいます。燕山君は月山大君の奥さんに手を出してしまうのです。月山大君の奥さんはとても美人で真面目な女性でした。

彼女は燕山君から受けた屈辱的な行為に耐え切れず、自らその命を断ちました。

その奥さんの実の弟が平城君(朴元宗:パク・ウォンジョン)です。この事で燕山君の事をとても恨むようになりました。

そんな燕山君を更に悪い方向に導いたのが、張緑水(チャン・ノクス)でした。

張緑水は、燕山君の側室として宮廷入り。

政務もそっちのけで燕山君と一緒に毎日享楽にふけり、国庫を使い果たします。燕山君をそそのかしたと、民衆からも恨まれ、悪女と言われるようになったのです。

散々贅沢を尽くして国のお金を使い果たした負担のしわよせは国民にくることに…。

燕山君と張緑水の責任なのですが、財政不足の責任を立場の弱い国民に丸投げして更に多くの税を徴収される事になりました。

しかし、これだけでは国庫が元通りになるはずはありません。挙げ句、大臣達の田畑まで没収しようとしました。

大臣達もさすがにひどいと、燕山君に反発しました。

実際に没収されたかは分かりませんが、結局燕山君は、大臣、民衆の恨みを

買う事になります。でもこれは当然の結果ですよね。

そこに、この出来事を利用して朝廷を自分の物にしようと任士洪(イムサホン)が登場します。。

そうです!『甲子士禍』(カプチャサファ)が起こるきっかけ(実母の死を知らせた者)を作ったのは、任士洪(イムサホン)の仕業だったのです。

燕山君怒りのハングル使用禁止令

散々民衆を苦しめた燕山君のもとには、全国の民衆からハングルで書かれた投書が続々と届けられました。

燕山君は民がハングルで王を愚弄したと民衆達に激怒しました。この事により燕山君はハングルの使用禁止令を下しました。

クーデター中宗反正・燕山君の末路とは?

1506年、国王になってからも数々の問題を繰り返して来た燕山君でしたが、それも終わりの時が来ました。

燕山君は、クーデター『中宗反正』(チュンジョンパンジョン)が起き、廃位させられました。

本来、側近や兵士達が王様を守るために命懸けで戦うのですが、暴君として罪なき人々の命を奪った事や国事そっちのけにして好き勝手してきた王様を守る者は誰一人としていませんでした。

燕山君が廃位される事により、燕山君を操り、国のお金を湯水のように使い果たした張緑水(チャンノクス)は斬首になりました。王妃の慎氏は廃妃となります。

その後、即位されたのが11代国王、中宗です。

このクーデターの中心人物が平成君(朴元宗)だったこともあり、朴元宗の乱とも呼ばれています。

廃位された燕山君は、直ぐに殺されることはありませんでしたが、流刑されました。

それからわずか2ヶ月後に亡くなりました。まだ30歳と言う若さで亡くなりました。

燕山君の死に関しては諸説あります。

燕山君は持病を持っており、流刑された場所でなんの治療もされなかったと言う説。もう一つは毒殺されたと言う説です。

今となっては、死因は謎のままですが毒殺されてもおかしくないほども恨みはいたるとこからかっていたでしょうね…。

王様になって亡くなった名前には『祖』(大きな功績がある王)『宗』(徳のあった王)の名前が与えられます。

朝鮮王朝系図では王様の死後、本名ではなく廟号(びょうごう)と言う名前が付けられます。

もうお分かりかと思いますが燕山君には死後、あまりに暴君過ぎた罰により、正式な廟号を付けて貰えず系図には、燕山君のまま残る事になったのです。

朝鮮王朝10代国王・燕山君(ヨンサングン)の暴君ぶり!そして味方は誰もいなくなった・・まとめ

燕山君の生涯は、いかがでしたか?運命のイタズラなのか?9代国王の長男としてこの世に生を受けた燕山君。

本来の気質であるのか?幼い頃に実母を亡くし、誰にも構って貰えなかったせいかなのか…彼をここまでの暴君に仕上げた原因は何なのか。

燕山君がいない今、永遠に謎のままですね。筆者的な解釈ですが、幼い頃から誰にも構って貰えず、愛してくれる人のいない中で、どうして人を愛することが出来るのでしょうか?

一人でも良いから、燕山君を愛してくれる人がいれば、彼の人生も変わっていたのではないでしょうか?

皆さんは、どうお考えになりますか?暴君と呼ばれた燕山君。誰にも愛されなかった燕山君。最後まで哀れな王様の話しでした。

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