1952年1月18日、韓国初代大統領李承晩(りしょうばん・イスンマン)により「李承晩ライン」が制定されました。
これは韓国と周辺国との海上境界線、つまり海の上における境界を韓国側が設定したものです。
そもそもこの李承晩とはどんな人物だったのか?李承晩ラインとは何なのか?
そして李承晩ラインがもたらした問題について説明していきます。
遅咲きの独裁者・李承晩
太平洋戦争後、朝鮮半島に生まれた「大韓民国」の初代大統領に選出されたのが李承晩です。
朝鮮王朝時代、日本統治下の朝鮮、そして独立国家としての大韓民国を生きた李承晩は、生涯の多くを海外で過ごした、いわば異色の大統領であったと筆者は思います。
どんな青年期を過ごし、どんな思想を持ち、そして「李承晩ライン」以外にどういったことを成した人物だったのでしょうか。
朝鮮王朝傍流の末裔として生まれて
李承晩は、朝鮮王朝末期の1875年3月26日、現在大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とを分ける「38度線」の北、黄海道開城(ファンヘドケソン)近くの平山(ピョンサン)の貧しい家に生まれました。
意外にも今でいう北朝鮮で出生していたのです。
朝鮮王家4代目国王であった世宗(セジュン)の兄、譲寧(ヤンニュン)大君から数えて16代末裔にあたるいわば名門といえる家系でした。
のちに李承晩がアメリカに渡った際には「自分は朝鮮王族だ」と言って回ったのだとか。
李承晩にはかなり高いプライドと見栄があったようですね。
李承晩は朝鮮王朝時代に実施されていた官吏登用制度「科挙(かきょ)」に14歳の時から何度も挑戦しますが落第。
1894年には科挙の制度自体が廃止されてしまったため、官吏となって出世する夢が破れてしまいます。
そこで一転、李承晩はアメリカ人宣教師が立てたミッションスクールに入学し、英語を学ぶとともに、アメリカ流の民主主義と生活様式に慣れ親しんだそうです。
そんな経緯から、朝鮮王朝末期の腐敗しきった政治に反対する運動の先頭に立ちますが投獄され、李承晩は一時は死刑まで言い渡されました。
その後、特赦を受け出獄し、英語ができるということで当時の国王高宗の密使となり1904年にアメリカに渡ります。
活動の拠点を海外に
高宗の密使として、当時の大統領セオドア・ルーズベルトに朝鮮王朝に対する支援を要請しましたが、これには失敗。
そこからは学生としてアメリカで学びを深めていきます。
1910年に一度帰国しますが、朝鮮半島は1910年8月22日に日韓併合条約によって統治権が日本に移っており、李承晩が活動する余地は全くありませんでした。
そこで1912年にアメリカへ再度赴き、日本支配からの独立運動を展開。
この活動は朝鮮半島内外で独立運動を行う人々に知られていくことになります。
1920年には日本からの独立意識を高めた朝鮮人によって引き起こされた「3・1独立運動」の結果、中国・上海に作られた「大韓民国臨時政府」において李承晩は大統領に選出され、活動の中心を上海に移します。
ただし、韓国国内における独立運動は厳しく取り締られていたこと、また海外における独立運動も内紛が絶えなかったことから、再度活動の拠点をアメリカ・ハワイに移し、ハワイを中心に独立運動を推進していくことになるのです。
日本の支配下から脱却した後の韓国大統領になる李承晩。
正式に韓国大統領に就任するまでの間韓国国内で過ごした期間というのは、生まれてから密使としてアメリカに出立するまでの少年・青年の時期だけ。
つまりアメリカからの一時帰国後の2年間だけなのです。
時代がそうさせた、とも言えるかもしれませんがその短さには驚きですね。
アメリカによって担がれた大統領
1945年8月、太平洋戦争が日本の無条件降伏によって終結、これによって朝鮮半島は日本からの実質支配から抜け出すことができました。
日本において終戦記念日と呼ばれる8月15日は、韓国では日本からの独立を祝う「光復節」と制定されています。
1945年のこの日をもって朝鮮半島の植民地支配が終了したのです。
そこでまず動き始めたのは、植民地支配下の朝鮮半島で支配と闘い、投獄されたいわゆる「共産主義者」たち。彼らは団結し、1945年9月6日に「朝鮮人民共和国」を作り上げました。
遅れること9月8日、アメリカ陸軍元帥であり、日本占領の連合軍総司令官であったマッカーサーが朝鮮半島のソウルに到着し、朝鮮人民共和国の存在を否定、「38度線より南の地域の行政権は自身の権限にある」と宣言するのです。
38度線より北については共産主義であるソ連が占領していました。
この朝鮮半島を南北に分断するやり方は、アメリカがソ連軍が中立を破って38度線を侵攻、戦争を引き起こさせ、ソ連を挫きたいという思惑があってのことだったとされます。
朝鮮半島の人にとってはとんでもないやり方ですよね。
ともあれ、アメリカは「ソ連、つまり共産主義を破る意思を持った「アメリカ人的な」朝鮮人」を38度以南地域の代表に据えて、自分たちの思惑通りに朝鮮半島を動かしたいと望んでいました。
そのためには朝鮮人民共和国は否定しなければならない。
では、一体誰がその役目を担えるのか?
それに正にピッタリだったのが李承晩だったのです。
なんとこの時李承晩はアメリカ滞在歴も30年を超え、既に70歳を超えた老人!
しかも長年海外を拠点にしていたため、朝鮮半島内に具体的な支持基盤はありませんでした。
その代わり、アメリカ軍政府の後押しと、38度線より北の共産圏から逃れてきた人々によって支持され、1948年「大韓民国」の大統領に就任することとなりました。
「外交は天才、内政は鈍才」と韓国人に言われる李承晩
李承晩政権の根本にあったものは「反日思想」と「反共思想」でした。
李承晩についての評判はさておき、彼が果たした重要な業績は「大韓民国の共産化を防いだこと」と、「米韓相互防衛条約をアメリカと締結したこと」と言われます。
韓国人から「外交は天才」と言われる理由はそこにあります。
アメリカから巨額の経済援助を引き出し、度重なる38度線以北、つまり北朝鮮やソ連からの侵攻を防ぎ、韓国の共産化を防いできました。
そして、今の韓国の発展につながる道筋を敷いたこと大きく貢献したのです。
科挙の夢に破れ、ミッションスクールで、そしてアメリカの地で長く学んだ李承晩だからこそ、より「反共思想」を持っていたのかもしれませんね。
そして「反日思想」。
こちらも若き日から、日本の支配からの独立運動を続けてきた彼にとっては自然な考えであったのかも知れません。
ただし、朝鮮半島が日本の植民地となっていた時代を李承晩はほとんど経験していません。
なぜなら、その時代のほとんどを海外、アメリカで過ごしていたからです。
思うに、この「反日感情」は確かに李承晩に存在していたものに違いないとは思うのですが、個人の感情というよりも民衆をまとめ上げるためのツールとしての感情であったのではないかと筆者は考えます。
ただこの「反日思想」は、韓国人のナショナリズムを煽り国をまとめるための道具となりました。
また、この反日思想は日韓関係に深い傷を長きにわたって残すことになるほか、アメリカが李承晩を持て余すこととなる原因ともなってしまうのでした。
こうした外交で成果を残した一方で、内政は12年の間独裁体制をとるという散々なものだったと言います。
大統領就任の際には、公式には記録されていませんが李承晩の政治は
[jin_icon_check color=”#e9546b” size=”18px”]政敵を暗殺した疑惑
[jin_icon_check color=”#e9546b” size=”18px”]国家権力を背景にした「政治暴力団」と呼ばれる組織を使い、国会を脅迫、敵対勢力を拘束
[jin_icon_check color=”#e9546b” size=”18px”]自身が権力を握るために、憲法自体の書き換え
[jin_icon_check color=”#e9546b” size=”18px”]不正選挙
そういった独裁政権色が濃い政治を行いました。
また、長く海外にいたために国内情勢には疎く、古くからの支持基盤もないため人事にも苦慮し、内政は混乱していきました。まさに「内政は鈍才」です。
最終的には、大学生や高校生が中心となった民主化デモにより李承晩は退陣、ハワイへ亡命し1965年7月に客死することとなりました。
彼の評価はその政治的立場によって異なると言われますが、良くも悪くも現在の韓国の姿の基礎を作り上げた人物であったと言えるかと思います。
李承晩ラインの制定過程
独裁色の強い大統領であった李承晩。
この李承晩はなぜ「李承晩ライン」の制定をおこなったのでしょうか。
その成立過程には、太平洋戦争と朝鮮戦争。2つの戦争の戦況、そして結果が深く関わっています。
朝鮮半島で起こった朝鮮戦争はもちろんのこと、朝鮮半島が日本の支配下に置かれた太平洋戦争も、朝鮮半島の民心に影響を与えます。
そのことが李承晩ラインを制定することにつながっていくのです。
太平洋戦争とGHQによる日本の秩序再構築
太平洋戦争、当時の日本において「大東亜戦争」と称されるこの戦争は、西洋諸国による支配からアジアの国々を救います。
そして日本が新しい秩序を作り上げることを大義として始められたものでした。
しかしアジアの国々にとっての実情は、西洋諸国の支配が日本に取って代わられただけといったもので、朝鮮半島においても、日本の実質的な支配が強まり多大な被害を被ったといいます。
特に戦争末期における日本軍による略奪、また反対勢力、独立運動に対する締め付けなどから被害を被った人たちの間に反日感情が渦巻いていったのは想像に難くありません。
1945年8月。
日本の無条件降伏、武装解除などを定めたポツダム宣言を受諾した日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれます。
そしてマッカーサーの元、秩序の再構築が行われました。
ここで、この時期に構築された海における秩序、特に日本と韓国の境界について注目します。
1946年から1952年にかけて、いわゆる「マッカーサー・ライン」と呼ばれる海上の境界が制定されました。
これは太平洋戦争終結時に日本が受諾したポツダム宣言の中に書かれた日本の主権の及ぶ範囲(本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島)以外の場所に対する暫定措置です。
最終的には「北緯24度・東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度・統計180度」を結ぶ線内については、日本は漁業及び捕鯨業を行なってもよいとしたものです。
このマッカーサー・ライン、日本側、韓国側ともに一番引っかかってくるのが北緯37度14分、東経131度52分の日本海上に位置している「竹島」でした。
日本側、韓国側ともに自国の領土であると主張する竹島が、このマッカーサー・ラインでは、日本が漁業をおこなっていい場所であると制定されたのです。
朝鮮戦争の惨禍
朝鮮半島に視点を移します。
朝鮮半島では、38度線を起点にソ連、中国を後ろ盾にした北朝鮮と、アメリカを後ろ盾にした韓国が睨み合っていました。
多少の小競り合いはずっとあったようですが、ついに1950年6月25日、北朝鮮は朝鮮半島の武力による統一が可能であると判断し、38度線を突破、南へ進撃します。
韓国首都ソウルに北朝鮮軍が迫るのを見てとった政府要人らは市民を見捨てソウルを脱出。
脱出時に無警告でソウル中心部にかかる橋を爆破したため、多くの市民が犠牲になるなど悲惨な事件も起こったといいます。(漢江人道橋爆破事件)
脱出した要人の中にはもちろん、当時大統領であった李承晩も含まれました。
李承晩は、大統領にあった軍の司令権をアメリカに移譲、韓国側には国連軍も加わり、半島各地でし烈で、終わりがないように感じられる悲惨な戦いが続いたそうです。
長い戦いは1953年7月27日に休戦が成立。人命の損失だけで数百万もの人間が死亡したと伝わっています。
長引いた戦争、荒れる国土。当然、当時の政権に対する民衆からの風当たりは強かったのではないでしょうか。
そんな朝鮮戦争中の1952年1月18日に李承晩政権が制定を主張したのが「李承晩ライン」です。
サンフランシスコ平和条約と李承晩ラインの制定
太平洋戦争の平和条約が「サンフランシスコ平和条約」です。
戦争の公式な集結を関係各国で合意するもので、連合国と日本が国際の平和と安全を維持するために結ばれました。
またこの条約は戦争の原因になった事項や決まっていなかった国際秩序について相互に解決を目指すといったものでもありました。
1951年9月に署名されたこの条約、特に朝鮮半島に関係する領域については、日本による朝鮮の独立承認を規定。
日本が権利を放棄すべき地域として「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定されました。
これに対し、韓国側は「竹島」についても朝鮮半島に属する島であり、日本の主権を放棄するように主張しましたが、アメリカ側はこれを「竹島は日本の島根県に属する島である」として棄却。
[chat face=”1961650-1.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]ってことはやっぱり竹島は日本の領土だったね。へえ。[/chat]
サンフランシスコ平和条約が効力を発揮するのは翌年、1952年からだったため、平和条約の署名から発行までの間をぬって、「李承晩ライン」の制定を一方的に宣言したというわけです。
マッカーサー・ラインはサンフランシスコ平和条約締結までの暫定的な措置でした。
李承晩ラインはこのマッカーサー・ラインよりも日本側、つまり韓国にとってはそれまでよりも、より広い範囲(といっても限定的ではありますが)を自国の海域と一方的に宣言してきました。
その範囲の中にはもちろん竹島も含まれており、認められなければ権利を主張する!という強い態度が見て取れますね。
この一方的な宣言に対し、日本やアメリカなど各国は公海の自由の権利、自国の領海以外の海は誰のものでもなく自由に利用できるという権利を犯すものだとして反抗しました。
しかし、各国の反抗も虚しく、李承晩ラインは韓国側の一方的な主張のまま1962年まで撤廃されることなく日本と韓国を隔てる大きな問題として残り続けたのです。
この李承晩ライン制定の背景には、朝鮮戦争中に起こったであろう政権に対する批判を国民の反日感情を煽る形で逸らし、国民を統一する目的があったように思います。
現に、朝鮮戦争の戦況が芳しくなく資材も不足していた1952年には、李承晩ラインの制定とほぼ同時期に韓国各地に「李舜臣(りしゅんしん・イスンシン)像」が建てられています。
李舜臣は豊臣秀吉がかつて朝鮮に攻め入ったときに日本軍を撃退した軍人で、一部では反日の象徴として掲げられます。
資材が不足していた時代にこの像を建てたということ自体が、国民に対し反日感情を煽り、不条理な条件を突きつける日本に対して徹底的に抗うという政府の強い主張を表したものだったのではないでしょうか。
[chat face=”1961650-1.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]反日感情の原点は李承晩だったとおもっていいかしら?[/chat]
ともあれ李承晩ラインはこうして反日感情を煽り、国民をまとめ上げるための政治手段として使われたのだと筆者は思います。
李承晩ラインがもたらした問題
韓国側からの一方的な宣言による海上の境界線である「李承晩ライン」。
国際社会で話し合いのもと決められたわけではないこの境界線は、国際社会、特に日本にとって重大な懸念事項となりました。
それはラインが撤廃された現代においても、日本と韓国の間で根深い問題として残っています。
制定された当時は一体どんな問題が起き、それに対して各国はどんな行動を取ったのでしょうか。
竹島問題
一方的な宣言により定められた李承晩ラインでしたが、日本、そしてアメリカも抵抗を見せます。
1952年7月、竹島をアメリカ軍の訓練地として提供するという約束を日米間で締結。
実際には竹島周辺海域で、あしかの捕獲、あわび、わかめの収穫を行いたいという地元民の強い要望から訓練地としての使用は翌年に取り消されましたが、自国の領土であるという主張を日本側も見せたわけです。
竹島をめぐる日韓間における主張は、そもそもは李承晩ラインに起因するものではなく、もっと古くからお互い「自国の領土である」と言い合ってきたものでした。
ただ、李承晩ライン制定の頃から今に至るまで、日本がロシアと戦っていた日露戦争中の1905年1月、日本が竹島を島根県の管轄とすると閣議決定しています。
加え、この決定に対し韓国を含めた国際社会から反対がなかったことを根拠として「竹島は日本の領土である」とされています。
それでも朝鮮半島側の歴史に古くから竹島の存在が出てくることから、韓国としては「独島(竹島)は韓国の領土である」と主張しているわけです。
落とし所の難しい問題ではありますが、ここを自国のものであると相互に主張することこそが、海上の境界線を決める大きな問題になっているということは、李承晩ラインが制定されていた当時も、度々竹島に関するニュースが取り上げられる現在も変わらないと言えるでしょう。
日本漁船の拿捕(だほ)
李承晩ラインについての解決を明文化した1965年の日韓基本条約締結までの間にある事件がおこります。
韓国軍は李承晩ラインを越えて漁業をおこなっていたとして、日本の漁船528隻を拿捕、44人を死傷(うち5人死亡)、3929人を抑留したのです。。
また、韓国側から日本の海上保安庁巡視船への銃撃も15回に及び、日本の韓国に対する感情も悪化していったといいます。
こういった状況ではあったのですが、漁業関係者からは早く安全な海で漁業を行いたいとの要望から韓国との関係正常化を望む声が相次ぎます。
サンフランシスコ平和条約調印の翌月、1951年10月から始まっていた日韓国交正常化交渉の早期解決を目指すことにつながったそうです。
この交渉は早期解決のために、韓国側に有利な条件を飲まざるを得なかったという部分もあります。
いわば韓国側は漁業民を人質にとって日本との交渉を有利に持っていこうと狙っていた側面も、ひょっとすると、あったのではないでしょうか。
日韓基本条約における解決
先述の通り、サンフランシスコ平和条約調印の翌月から、日韓正常化交渉が始まりました。
これは領土の問題だけではなく、太平洋戦争中における賠償金の支払いなど、検討項目は多岐に渡り交渉は難航し、日韓基本条約締結はなんと1965年。実に、10年以上の年月が必要だったのです。
ここでは、日韓基本条約の中の日韓間の境界、李承晩ラインの解決についてのみ着目します。
竹島、そしてその海域については両国とも李承晩ラインの成立以前よりも前から自国の領海であると主張を続けていました。
ですから、「どちらに帰属する」とはっきり決めてしまうことは大変難しい問題なのです。
最終的に日韓基本条約が結ばれることとなった朴正朴(パクチョンヒ)大統領の時代には
「国交正常化に反対しているのではなく、李承晩ラインについて日本に譲歩することを前提として交渉するのであれば、国交正常化自体に反対せざるを得ない」
と、後の大統領金泳三(キムヨンサム)が声明を出したほどの問題だったわけです。
長く交渉は続きましたが日本、韓国共に落とし所が見つからず「解決せざるをもって、解決したとみなす」という密約を交わし、李承晩ラインを撤廃。
諸々の国交正常化交渉の決まりごとともに、日韓基本条約として終結させたのです。
つまり李承晩ラインによって表面化した問題について「お互いに竹島やその付近の海域について自国のものであると主張することはいいが、それ以上は踏み入らない」と内々で決めて、根本的な解決を先送りしたのです。
現在李承晩ラインはありませんが、1999年に新日韓漁業協定が締結され、竹島周辺海域は暫定水域となっています。
この水域について日本、韓国とも漁業権が認められていますが、なかなかうまくいかないようです。
まとめ
日本と韓国の間に一方的に制定された李承晩ライン。
李承晩とはどういった人物だったのか。どうしてラインが制定されたのか。について知ることは、現在まで続く日本と韓国の間に立ちはだかる大きな問題の根本を知ることにつながると感じます。
戦中、戦後に起きたことだから関係ないではなく、今を生きる自分達にも十分関わってくる問題であることを改めて確認し、知っていくことが必要なのではないかと筆者は思います。
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『韓国の運命と原点 米軍政・李承晩・朝鮮戦争』金一勉、三一書房
『韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落』池東旭、中公新書
『韓国と日本がわかる最強の韓国史』八幡和郎、扶桑社新書
『韓国人が書いた 韓国の大統領はなぜ悲劇的な末路をたどるのか?』黄成京、彩図社
『シリーズ韓国現代史一九五三〜一九六五 日韓基本条約』内藤陽介、えにし書房
8.15 光復節 https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=558
平和条約署名、李承晩ライン https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/taiou/takeshima/takeshima02-05.html
竹島 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_taisengo.html竹島について https://www.town.okinoshima.shimane.jp/www/sp/contents/1001000000028/index.html
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