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李舜臣ってどんな人?評価や功績をご紹介

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皆さん、こんにちは!

「救国の英雄」と聞くとどんな人物像を想像しますか?戦争の英雄でしょうか?

もしかしたら、革新的な技術を生み出した技術者や人道的な政治家も思い浮かぶかもしれませんね。

実はお隣の国、韓国には「救国の英雄」と呼ばれ、今でも人々の尊敬を集める人物がいます。

その名は李舜臣(い・すんしん)。

豊臣秀吉の命令で、日本軍が朝鮮に侵攻したときに、国を守ることに大いに貢献した朝鮮の水軍司令官です。

「救国の英雄」と称えられる李舜臣ですが、彼の武官としての道のりは決して平坦なものではありませんでした。

日本軍を相手に大活躍したあとも、将軍から一兵卒に落とされたりもしたのです。

今回は、李舜臣の波乱万丈な人生や功績について解説していきたいと思います!

目次

水軍司令官までの道のり

歴史に名を残す李舜臣ですが、当初は文官を目指したこともあり、武官としての出発は遅いものでした。

武官となり、士官として派遣された赴任地で戦果をあげるものの上官との不仲が原因で、武官として階級を奪われ一兵卒に落とされる罰を受けてしまいます。

ですが、彼の才能を認める人たちの働きかけにより、復帰。やがて水軍司令官にまで大抜擢されたのです!

スロースタートな武官人生

李舜臣は、ソウルのさほど裕福ではない両班(貴族階級)の家に、三男として生まれました。

当時、官僚になるための試験である科挙には、文科と武科がありましたが、重んじられていたのは文科でした。

最初は、李舜臣も2人の兄と一緒に学び、文科合格をめざしました。彼の成績は兄たちをしのぐもので、そのまま文科を目指せば、文官・学者として大成できる素質はあったそうです。

しかし、22才の時、自分が武人に向いていると判断したようで、進路変更。

28才の時に、武科を受験しました。ところが、武芸の試験で落馬してしまい、不合格になります。

ようやく合格するのは、この4年後、32才の時。

20代の前半で合格して官僚の道を歩み始める者も多いなか、遅い出発だったと言えます。

最初の白衣従軍

さて、武科に合格してからの李舜臣のキャリアが順風満帆であったかといえば、そうではありません。

朝鮮の北方は、度々、女真族が国境を侵していました。

李舜臣は士官として、この地に赴任しました。

ある時、大きな戦果を挙げたのですが、不仲であった上官に、上官をないがしろにした独断とされ、罰を与えられてしまったのです!

与えられた罰とは「白衣従軍」

武官としての階級を奪われ、一兵卒の身分に落とされる屈辱的な刑罰です。

しかし、その後、彼の才能を惜しく感じた高官が働きかけ、士官として復帰することができました。

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水軍司令官に!

ある頃、日本が朝鮮に攻め入るかもしれないとの情報が朝廷にもたらされました。

真偽は不明なものの、朝廷はそれなりに備え始めたのです。特に国王は有能な将師を得ようと各方面に意見を求めました。

それに対して、李舜臣と同郷で、かねてから親交のあった高官が、李舜臣を推挙。

なんと、李舜臣は全羅左道の水軍司令官に大抜擢されたのです!全羅左道の「道」は日本でいう都道府県に相当します。

当時、朝鮮水軍は各道ごとに編成されていました。

そして、朝鮮の南海岸は全羅左水軍、西海岸は全羅右水軍、そして東海岸は慶尚右水軍が守っていたのです。

ところで、この大抜擢は、7階級特進という異例の昇進でした。日本軍による朝鮮侵攻の約1年前の出来事です。

救国の英雄

引用元:Wikipedia

李舜臣が水軍司令官に就任して、約1年後に日本軍が朝鮮に攻めてきました。

李舜臣率いる水軍は日本水軍に連戦連勝。ついには制海権を掌握します。そして、李舜臣は水軍の最高司令官となったのでした。

しかし、ライバルによる誹謗中傷や朝廷の政権争いに巻き込まれ、なんと二度目の白衣従軍の罰を受けてしまいます。

その後、再侵攻してきた日本水軍に朝鮮水軍は惨敗し、壊滅状態となります。

そんな危機的状況に際して、李舜臣は再び水軍の最高司令官となり、朝鮮水軍の反撃が始まるのです。

日本軍の朝鮮侵攻と最初の海戦

1592年、豊臣秀吉は、明征服の第一歩として朝鮮に侵攻を開始しました。4月14日、日本軍はプサンから侵攻しました。

防衛にあたった慶尚左・右水軍はあえなく壊滅。

日本軍は次々と上陸し、破竹の勢いで侵攻して、わずか半月あまりで首都ソウルをも占領してしまったのです。

隣の海域を守る李舜臣にもプサン陥落の知らせがすぐに届きましたが、朝廷からは待機との命令。

4月27日、ようやく李舜臣のもとに朝廷から命令が下ります。

「慶尚右水軍と合流し、日本水軍を攻め敗れ」と。

出撃命令をうけた李舜臣は、全羅右水軍とともに出陣。慶尚右水軍と合流しました。その陣容は、戦船28隻を含む89隻の船団です。

玉浦に停泊していた藤堂高虎率いる日本水軍と2日にわたって戦い、ついに勝利!

日本水軍の船、約50隻を焼き払うという戦果を得ました。

亀甲船の建造

さて、李舜臣が造ったとされている亀甲船に触れる必要があります。

亀のような形態をしているため、「亀甲船」と呼ばれています。

この船は上部を厚板で覆って防御を厚くし、通路以外は刀錐をさし並べ、敵兵が乗り込めないようにしています。

また、船首、船尾に銃口を設置し、さらに左右にもそれぞれ6個の銃口を備えていました。

敵が亀甲船を囲んだら、一斉に火銃を発砲できるようにしていたのです。

この船の発想自体は古くからあったようですが、それに李舜臣が工夫を加え、亀甲船として造ったそうです。

亀甲船は、次の泗川海戦から姿を現し、戦いに大きく貢献して朝鮮水軍に連勝をもたらしました。

朝鮮水軍の切り札とも言えますね!

閑山島の海戦

引用元:Wikipedia

さて、日本水軍の相次ぐ敗戦に接した秀吉は、脇坂安治に九鬼嘉隆、加藤嘉明とともに朝鮮水軍の撃破を命じました。

李舜臣は、全羅右水軍、慶尚右水軍と合流し、これを迎えうつ準備を始めました。

先発した脇坂安治が見乃梁(きょんねりやん)という細長い水路に侵入したとき、その報告を受けた慶尚右水軍司令官の元均(うぉん・ぎゅん)はただちに出撃することを主張しました。

ですが、李舜臣は地形が悪いことを理由に閑山島沖におびき寄せることが得策と説きました。

結局、朝鮮水軍は李舜臣の作戦で動きますが、ここで李舜臣と元均には確執が生まれてしまい、それから何度も対立することになります。

もともと、7階級特進により自分と同じ水軍司令官となった李舜臣のことを、元均は良く思っていなかったのです。

海戦はまず、戦船5, 6隻をもって日本水軍に攻撃をしかけ、退却を装って閑山島沖まで引きます。日本水軍は罠にかかり、これを追ってきたところを朝鮮水軍の船団に包囲され、大打撃をうけました。

日本は66隻の船を失い、脇坂安治は逃げ出しました。

九鬼嘉隆、加藤嘉明は、脇坂救援のため、40隻ほどを率いて駆け付けましたが、朝鮮水軍はこれも撃破したのです!

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最高司令官になるも二度目の白衣従軍に!

引用元:Wikipedia

その後も何度かの海戦を経て、朝鮮水軍は日本水軍を追い詰め、ついに制海権を掌握しました。

一方、朝鮮の内陸部では、義兵が立ち上がり、中国も援軍を派遣。日本軍を押し返そうとしていました。

日本軍にとっては厳しい状況となり、ようやく休戦交渉が開始されたのです。

その頃、各道の水軍司令官が並列のままではまとめられないと朝廷は判断し、慶尚・全羅・忠清を統括する水軍の最高司令官を設置しました。

この最高司令官に就任したのが李舜臣です!

これにおだやかではなかったのが、李舜臣と不仲であった元均です。それまでは同格であったのが、自分の上官となってしまったのですから。

元均は、さまざまな誹謗中傷で李舜臣を攻撃したそうです。

元均のデマと当時の朝廷の政権争いのあおりを受けて、なんと李舜臣は投獄されてしまったのです。。。

そして、再び白衣従軍の罰を受け、一兵卒に落とされてしまったのでした。失態を犯したわけでもないのに、最高司令官から一兵卒に落とされたのです。

さぞや、やりきれなかったでしょうね。

再び、最高司令官に!

李舜臣の後を引き継いで最高司令官となったのは、なんと元均です。

彼は、李舜臣が決めた運営方法をまるっきり変えてしまい、さらには李舜臣が信頼していた諸将を追放してしまいました。

「こんな状態では日本水軍に遭遇したら逃げるしかない」などと軍中ではささやかれていたそうですよ。

1597年、日本と朝鮮の休戦交渉は破綻し、秀吉は再侵攻を決めました。

元均率いる朝鮮水軍が日本水軍を迎えうちましたが、結果は惨敗。

朝鮮水軍はたった一戦で壊滅状態となり、元均も戦死してしまったのです。

こうなってしまったら頼るべきは李舜臣しかいません。

李舜臣は再び、水軍最高司令官に返り咲いたのでした。しかし、その時に彼に残されていた兵船はたったの13隻。

果たして勝負になるのでしょうか。。。

奇跡の勝利

引用元:Wikipedia

日本水軍は朝鮮水軍の再建を待ってはくれません。

藤堂高虎、来島通総らの率いる日本水軍が鳴梁(みょんりゃん)海峡に迫ってきました。

その数、133隻。朝鮮水軍の10倍以上の数です。

この戦いに際して、李舜臣は「死を覚悟して捨て身で戦えば、生き残る手立ても生じる。何とか助かりたいという了見では、むしろ敗死を招く」と檄を飛ばしたそうです。

開戦当初、潮流は朝鮮水軍にとっては逆流となっていました。李舜臣は船を連ねて碇を下ろし、必死に日本兵船を迎撃しました。

潮流が逆に変わった時が勝負です。

朝鮮水軍は逆流した潮流に乗って日本水軍に襲いかかりました。

そして、奇跡的な勝利をつかんだのです!

この戦闘で藤堂高虎は負傷し、来島通総は戦死しました。

潮流が激しいというこの海の特徴を活かした奇跡的な勝利でした。

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最後の戦い

日本軍の再侵攻の翌年に、秀吉が死去。

ここでようやく、日本軍は朝鮮から撤退を始めたのです。

この時、李舜臣は順天城にたてこもる小西行長を海から包囲していました。身動きのとれない小西軍を救うため、島津義弘らの水軍がやってきました。

これを迎えうった露梁(のりゃん)海戦が、李舜臣の最後の海戦となります。混戦のさなか、島津勢が発砲した銃弾が李舜臣の左胸に命中。

自分の死を隠すように言い残して、李舜臣は息絶えました。

7階級特進という通常ではありえないような昇進で水軍の司令官となり、朝鮮の危機を救った李舜臣は役目を終えたかのように、終戦とともにこの世から去っていったのでした。

李舜臣ってどんな人?評価や功績をご紹介・まとめ

彼の才能を認める人たちの働きかけにより、水軍司令官に大抜擢された李舜臣。李舜臣が水軍司令官に就任して約1年後、日本軍が朝鮮に攻めてきました。

李舜臣率いる朝鮮水軍は日本水軍に連戦連勝。ついには制海権を掌握します。

そして、李舜臣は水軍の最高司令官となったのでした。しかし、ライバルに陥れられ失脚。白衣従軍という罰を受けてしまいます。

その後、ライバルが最高司令官にとって代わりますが、再侵攻してきた日本水軍に朝鮮水軍は惨敗。壊滅状態となりました。

そんな危機的状況に際して、李舜臣は再び水軍の最高司令官となり、朝鮮水軍の反撃が始まりました。そして秀吉の死去にともない、日本軍は撤退を開始。

その最後の戦いで李舜臣は命を失いました。後に救国の英雄と呼ばれる李舜臣は、その役目を終えたかのように、終戦と同時にこの世から去っていったのです。

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【参考文献】
『秀吉の朝鮮侵略と民衆』 著:北島万次 岩波新書
『李舜臣覚書』 著:藤居信雄 古川書房

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