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【実在】朝鮮の名医・許浚(ホジュン)その生涯をわかりやすく解説!

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皆さん、こんにちは!

連日、ニュースではコロナ禍の話題が報道されていますね。

こんな時は医療のありがたみを普段以上に感じるものです。

優秀な医師は、名医とか神の手なんて呼ばれたりしますが、こうした医師は、色んな時代、色んな場所で存在します。

例えば、李氏朝鮮時代には許浚(ほじゅん)(ほじゅん)という名医がいました。

許浚(ほじゅん)は、「東医宝鑑」という医学書の著者として有名ですが、実はとてもドラマチックな人生を歩んだのです。

今回は、許浚(ほじゅん)について解説していきたいと思います!

目次

許浚(ほじゅん)の生涯

許浚(ほじゅん)は、貴族の家に生まれながら、母の身分が低いために官僚の道を目指すことができませんでした。

そこで医師を志した許浚(ほじゅん)は、努力の末に医術の腕を認められ国王の主治医となります。

そして、国王の深い信頼を得て、朝廷で高い位を得るのです。

一見、順風満帆のように見えますが、戦乱や朝廷の臣下たちの妬みなど様々な困難が許浚(ほじゅん)に立ちはだかりました。

許浚(ほじゅん)の功績は、そういった困難にあいながらも、歴史に残る医学書を生み出したことにあります。

その医学書は、当時の朝鮮の風土に合わせた薬剤を使いながら、知識のない民衆でも利用できることをめざした画期的なものでした。

朝鮮はもちろん、中国や日本でも出版され、高い評価を得たのです。

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宮廷医師への道のり

許浚(ほじゅん)は、1530年代の李氏朝鮮時代に、両班(やんばん)の家で誕生しました。

両班というのは、文官、武官といった官僚になることができた最上級の支配階級のことです。簡単に言うと貴族階級といったところでしょうか。

ちなみに、この頃の日本は戦国時代の前半です。

後から話に出てくる豊臣秀吉はまだ生まれたばかりの赤ん坊ですよ。

さて、この時代の朝鮮では、両班の子であっても、母が妾であれば、両班になれませんでした。

身分は低く、もちろん官僚になることもできません。

そして、許浚(ほじゅん)は妾の子だったのです!

聡明でありながらも身分制度のために、許浚(ほじゅん)は官僚になれません。

そこで許浚(ほじゅん)は、医学を学びました。

許浚(ほじゅん)の師匠は世俗にとらわれることを嫌い、山で仙人のような生活をしていたと言われていますが、医師としての技術は一流だったそうです。

許浚(ほじゅん)という優秀な弟子を迎えて、その技術や知識をすべて伝えようとしたのでしょうね。

国王の主治医に!

許浚(ほじゅん)は、20代後半に医科試験に首席で合格し、朝廷で医師として勤務するようになりました。

実力を認められ、1年後には、国王や王太子の主治医に抜擢されたそうです!

国王や王太子の病気治療や健康維持に貢献して、国王から絶大な信頼を得た許浚(ほじゅん)ですが、それにおごることなく、朝鮮や中国の医学書を研究し、医学知識を深めていきました。

多くの中国の医学書の翻訳もしたそうですよ。

豊臣秀吉の侵略

そんな頃、朝鮮にとって一大事件が勃発しました。

日本では「文禄の役」、朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮侵略です!

豊臣秀吉の目的は中国の征服にあったと言われています。

そのために朝鮮を通過しようとしましたが、朝鮮としては黙って通すわけにはいきません。

戦争になりました。

進攻する日本軍は戦国時代を生き抜いた猛者たち、一方、朝鮮は平和な時代だったので、朝鮮軍は鍛錬や軍備など不十分だったのかもしれません。

朝鮮軍は敗戦に次ぐ敗戦で、またたく間に日本軍の進軍を許してしまいました。

そして、開戦からわずか3週間後には首都ソウルが陥落してしまったのです!

無政府状態となったソウルから、国王は北方に避難しました。

臣下たちは自分のことで精いっぱい。国王の逃避行にはわずかの人数が従ったのみだったそうです。

許浚(ほじゅん)も国王と行動を共にした一人です。

民衆は朝廷の無策と国王の無気力な態度を非難し、一行に食料も提供しなかったそうです。

国王にとっては、とても厳しい旅路だったでしょう!

しかし、許浚(ほじゅん)はどんな困難に直面しても、決して国王のそばを離れず、主治医として仕えたそうです。

このことで国王の許浚(ほじゅん)に対する信頼はますます厚くなったのでした。

その後、朝鮮水軍の巻き返し、民衆の義兵としての決起、中国軍の参戦もあって、情勢は朝鮮に有利になってきました。

そして、和平交渉が開始され、いったん日本軍の侵略は収まったのです。

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戦争終結と「東医宝鑑」編纂のはじまり

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

日本軍の侵略は収まったものの、戦禍で国土は荒廃し、民衆は飢え、病気で死者も多くでました。

このような状況を見て、国王は医師たちに、こんな命令を下しました。

「我が国の薬剤を細かく分類し、知識のない農民でも利用できるような医学書を作るように」

国王の命令を受け、許浚(ほじゅん)は仲間の医師たちと医学書の編纂を開始しました。

ですが、この作業はすぐに中断せざるを得なくなってしまいます。

和平交渉が失敗し、日本軍が再び攻めてきたのです。仲間の医師たちは、ばらばらになってしまいました。。。

日本軍の再侵攻の翌年に、秀吉が死去しました。ここでようやく、日本軍は朝鮮から撤退したのです。

戦争が終結し、朝廷では功労者に対する表彰が行われました。

許浚(ほじゅん)も国王を最後まで守った忠義者として、高い位を与えられたのです!

朝廷の臣下たちは、許浚(ほじゅん)の昇進に嫉妬し、両班でもない彼にそのような位を与えることは不当であると非難しました。

ですが、国王はそれを無視したそうです。

国王の厚遇に報いようと、許浚(ほじゅん)はさらに懸命に医学書編纂の作業を進めたことでしょう。

国王の死去、そして流罪に。。。

許浚(ほじゅん)は医学書全般に目を通して研究を進め、独創的な医療方法を開拓する努力を重ねましたが、ある大きな事件が起きてしまいます。

気管支の病で国王が死去してしまったのです!

許浚(ほじゅん)は主治医としてあらゆる手を尽くしたことでしょう。

ですが、寿命からは誰も逃れることはできません。

とはいえ、かねてから許浚(ほじゅん)を妬んでいた朝廷の臣下たちには、絶好のチャンスだったのかもしれません。

国王の死が許浚(ほじゅん)の怠慢によるものと言いがかりをつけ、責め立てたのです。

後を継いだ新国王は、前王と同じく許浚(ほじゅん)を深く信頼していました。

許浚(ほじゅん)を主治医の地位から外すことで状況をおさめようとしましたが、臣下たちは納得せず厳罰を要求しました。

結果として、やむを得ず許浚(ほじゅん)を流刑としたのです。。。

誠心誠意、国のために尽くしてきた許浚(ほじゅん)に対してこの仕打ち。

許浚(ほじゅん)はどんなにか悔しかったことでしょう!

ですが、多忙であった許浚(ほじゅん)にとっては流刑になることで、医学書執筆のための時間をとることができた、なんていう説もあるのですよ。

「東医宝鑑」の完成!  

孤独と闘いながら、流刑地で許浚(ほじゅん)は医学書編纂を続けました。

罪人に落とされ、仲間の医師もおらず、一人で作業を続けるとは、とても意思が強いですよね!

そんな彼の努力が実を結ぶ時がきます。

流刑となって約1年後に、国王がその処分を解除し、許浚(ほじゅん)を朝廷に呼び戻したのです!

反対する臣下たちに、国王はこう語ったそうです。

「許浚(ほじゅん)は善良な功臣である。私はちかごろ病気がちだが、まわりには熟達した医師が少ない。彼は名医であり、1年も流刑に処されたことで罪は十分に償ったといえる」

病気がちな国王としては、切実に許浚(ほじゅん)を必要としたのかもしれません。

流刑地から釈放された時、許浚(ほじゅん)は64才でした。

ですが、休むことなく再び国王の主治医に復帰し、医学書の編纂にまい進するのでした。

そして、ついに医学書「東医宝鑑」全25巻を完成させたのです!

前王の命令で着手してから、実に14年もの月日が流れていました。戦乱や流刑などの困難にあいながらも、実直に仕事を貫いた成果です!

「東医宝鑑」は全国の医学関係者に配布されました。

許浚(ほじゅん)はその後も、伝染病の治療などに関する研究にまい進し、多くの著書を発表したそうです。

そして、「東医宝鑑」完成の5年後に、許浚(ほじゅん)は70才でこの世を去りました。。。

さて、許浚(ほじゅん)に後継ぎがいたかどうか気になりませんか?

実は、許浚(ほじゅん)には息子が一人いました。

ですが、息子は医師ではなく文官になったそうです。

許浚(ほじゅん)が高い位を得たことで、息子は官僚の道を歩むことができたのです。

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「東医宝鑑」はどこがすごい?

「東医宝鑑」は全25巻からなり、内容は内科、外科、その他の科(伝染病、急性疾患、婦人病、小児病)、薬剤・処方、鍼灸治療の5編で構成されています。

この医学書は、朝鮮や中国の医学書を整理分類して治療方法を説明しているだけでなく、病気の原因について深く考察し、病気に対する日ごろからの心構えと摂生を強調していることに、他の医学書とは異なった特色をもっています。

また、それまでの朝鮮では中国の医学書を拠り所としていたため、朝鮮では入手しにくい生薬が使われていましたが、「東医宝鑑」では、朝鮮の薬剤を使ったことに大きな価値があります。

さらに、臨床を重視して、治療法と投薬の基準をさだめており、ここに許浚(ほじゅん)の経験と創意工夫が存分に活かされているのです!

「東医宝鑑」は朝鮮だけでなく、中国や日本でも出版され、高い評価を得ました。

近年では2009年にユネスコが主催する世界記録遺産にも登録されています。

現代に生きる許浚(ほじゅん)

さて、波乱万丈な許浚(ほじゅん)の生涯は、ソウルにある「許浚(ほじゅん)博物館」でかいまみることができます。

許浚(ほじゅん)の生い立ちから医師としての業績、「東医宝鑑」の執筆過程まで幅広く知ることができるようになっており、パネルや模型で当時を再現しているそうですよ!

許浚(ほじゅん)のドラマチックな生涯は何度も小説化・ドラマ化されています。

今も人々に尊敬され、愛されている偉人の一人なのです。

朝鮮の名医「許浚(ほじゅん)」その生涯をわかりやすく解説 まとめ

許浚(ほじゅん)は、両班の家に生まれました。

ですが、母の身分が低いために両班として生きることが許されず、官僚の道を目指すことができませんでした。

そこで医学を志し、努力の末に国王の主治医となりましたが、戦乱や朝廷の臣下たちの迫害が彼に立ちはだかったのです。

許浚(ほじゅん)は、そういった様々な試練を乗り越えて、医学書「東医宝鑑」を生み出し、朝鮮医学に金字塔を打ち立てました。

人に対する深い愛情と医学への情熱が、その原動力だったのではないでしょうか。 

博物館が作られたり、ドラマや小説の題材にたびたび取り上げられるほど、今でも許浚(ほじゅん)は人々から愛されています。

【参考文献・参考サイト】
『人物 朝鮮の歴史』 著:李離和 明石書店
『「東医宝鑑」と韓国の韓医学』 https://www.koreascience.or.kr/article/JAKO200424578160531.pdf
『執念の人、許浚(ほじゅん)(ホ・ジュン)』
https://plus.chunichi.co.jp/blog/yun/article/194/167/

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