その昔、今の韓国と北朝鮮のある朝鮮半島には朝鮮王朝という一つの国がありました。
1392年から500年余りの長い間続いた朝鮮半島最後の王朝なのですが、その歴史の中で暴君として廃位させられた王が2人います。
第10代王の燕山君(ヨンサングン)と、第15代王の光海君(クァンヘグン)という人たちで、この2人の王様のうち、光海君については本当に暴君だったのか?と疑問に思う声がおおく聞かれ、現在歴史が見直されているのです。
そんな光海君とは、一体どんな人物だったのでしょうか?
なぜ暴君と言われてしまったのか、その生涯や意外な最後を解説します!
光海君とはどんな人物なのか?王になるはずではなかったって本当?
光海君は、第14代王の宣祖(ソンジョ)の次男として1575年に生まれました。
実は宣祖は正妻である王妃からではなく、側室生まれでした。
そのことにコンプレックスを持っていた宣祖は、自分の跡継ぎは絶対正妻から!と思っていたのに残念ながら・・側室からしか子どもが生まれなかったのです。
さらに当時跡継ぎは長男がなるべきとされていたので、次男である光海君は本当なら王になれるはずではなかったのですが・・・王になってしまったのです!
ではなぜ王になれたのでしょうか?
光海君が王になれた理由
光海君の兄である長男・臨海君(イメグン)は、性格が荒く問題ばかり起こしていて、とっても評判の悪い人だったのです。
まわりからは「あの人は王にふさわしくないね!」とおもわれていたんですね。
さらに臨海君は当時起こった日本との戦で日本軍の捕虜になってしまったことで評判が悪化、それにヤケになって酒浸りの日々を送ったりで、ますます評判が悪くなってしまいました。
それに比べて光海君は、日本軍相手に果敢に戦い功績をあげ大活躍。
国内の評判も高く、臨海君を王にするわけにはいかない、ということもあって光海君が跡継ぎに決定したのです。
ところがその後、その座を脅かす出来事が起こります。
光海君の即位で身内までも殺され・・・
1606年、宣祖の2人目の正妻である仁穆(インモク)王妃から男の子、永昌大君(ヨンチャンテグン)が生まれたのです。
宣祖念願の正妻の男子。
1608年に宣祖が死去した時、本来なら正妻の子ということで永昌大君が跡継ぎとなるべきところですが、いくらなんでもまだ2歳。
さすがに王様になるのは無理だよね、ということで、光海君が王様として即位したのです。
光海君が血も涙もない暴挙に!
即位後、光海君はなんと兄である臨海君と、幼い永昌大君を遠地に流罪にして殺してしまいます!!
さらに永昌大君の母であり、立場上は義母に当たる仁穆王妃もその地位を剥奪し離宮に幽閉するなど、数々の暴挙に出たのです。
なぜそこまでするかと言うと、ゆくゆく反逆しそうな立場の人達をあらかじめ殺害しておくことで、争いの火種を残さないためです。
王室に争いが起きれば国は荒れ、民が餓える。
それまで行ってきた政策も途絶えたり、無駄になったりするので、そうならないよう争いを避けて安定した治世とするのはわかります。
でも臨海君や永昌大君にしてみれば、国の安定とはいえ王になれないだけでなく命まで奪われては、たまったもんじゃないですね!
そうして火種を潰したはずの光海君ですが、結局はそれらの行いが王にふさわしくないとして1623年にクーデターにより廃位させられてしまうのです。
結局火種はずっとくすぶっていたんですね。

光海君と日本の意外な関係!文禄・慶長の役

光海君がまだ王になる前、豊臣秀吉が海を越えて朝鮮半島にまで攻め入ってきました。
秀吉軍はぐんぐんと朝鮮半島を攻め進み、当時の王だった宣祖は首都ソウルから避難しなければならないほどでした。
光海君も戦地に赴き、各地で兵士を募ってそれをまとめ上げ、ゲリラ戦などで功績を挙げます!
日本による朝鮮出兵は、文禄・慶長の役と呼ばれ、秀吉の死により終息しますが、朝鮮はこの戦争により国がかなりの財政難になるなど国を傾きかけない深刻な問題を残しました。
日本と朝鮮の断交と和議
その後、日本と朝鮮は国交を断絶していましたが、王になった光海君は1609年、日本と和議を結び(己酉約条きゆうやくじょう)、日朝間の貿易を再開します。
海を挾んだ隣國として、それまでも長い付き合いのあった日本と朝鮮ですが、光海君はその日本と実際に戦地で戦ったことのある數少ない王の1人なのです。

光海君は巻き込まれた?家臣たちの派閥争いがひどかった
李氏朝鮮時代、家臣たちの中には、ずっとえらい役職についていた家系や、王妃や側室を生み出す家系など強い権力を持つ名門家系が存在していました。
そのため、朝鮮では権力者を取り巻く派閥同士の醜い争いがずっと繰り広げられてきたのです。
光海君の時代に光海君を支えたのはベテランの大北派でした。
しかし、光海君即位後、大北派たちは小北派や西人派らその他の派閥の人たちを政治の表舞台から一掃してしまったので、恨みをかってしまうことに・・
恨みを晴らし小北派や西人派が権力を手に入れるには、「大北派の王様ではダメだ、王を変えるしかない!」と考えたんですね。
光海君は兄弟や義母にひどい仕打ちをした血も涙もない暴君。
当然のように王様にはふさわしくない!と、クーデターを起こされ廃位させられてしまったのです。
さすがに王を倒すにはそれなりの理由が必要なので、光海君をとことん悪者にしたんですね。
光海君が悪いやつであればあるほど、それを倒した人は正しいことをした、と思われるからです。
家臣たちが醜い派閥争いなどせず安定していれば、光海君の残虐なふるまいを防ぐことができたのかも知れません。
本当は名君だった?光海君の政治手腕はどうだったのか?
暴君としての振る舞いばかり注目されてしまう光海君ですが、在任中に行った政策は優れていたようですよ。
まず、当時の朝鮮は大国である明(中国)に頭があがらず言いなり状態。
そんな明と、巧みに交渉して不利にならないよう取り計らったり、大同法という庶民の減税につながる法を整備するなど、疲弊した国を立て直すための施策を行いました。
光海君の治世はたった15年。
もっと穏やかな時代で長く治めていたら、民のための良い政策がもっと他にも行われたかも知れませんね!
クーデターで追われた光海君は意外な最後を迎えていた!
1623年、クーデター軍に王位を追われた光海君は捕らえられ、初めは光華島に、続いて済州島へ流罪となります。
流罪となると、流刑地での厳しい生活に耐えられず亡くなる人も多いようですが、光海君はなんと66歳まで生き続けました。
光海君の妻はもちろん息子夫婦も同様に流罪になりましたが、息子夫婦は逃亡しようとして見つかり死罪、それを知った妻は自殺したと言われています。
家族もいなくなり一人ぼっちになってしまった光海君。
自ら死を選ぶことはなかったものの、食事は水に混ぜたご飯2さじで着替えもろくにせず、時には壁を叩きながら号泣するほど孤独に苛まれていたようです。
生き続けることが贖罪(しょくざい)だと考えていたのかも知れませんね。
光海君とはどんな人物だったのか?まとめ
クーデターの後、綾陽君(後の仁祖)が王に即位します。残念ながら仁祖は暗愚な王と言われ、外交政策などがうまくいかず朝鮮を危機に陥らせてしまいます。
本来は王位が望めるはずのない立場から王になり、確かに残虐な仕打ちもしましたが、民のための善政も敷いていた光海君。
王であった期間よりも長い流刑地での罪人生活、自らを倒して王となった仁祖の治世を見ながら、一体何を考え過ごしていたのでしょうか。
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