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金大中とはどんな人物?日本との関わりやその功績ついてわかりやすく解説!

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みなさん、こんにちは!韓国の政治に興味はありますか??あまり良い印象はないかと思いますが今日取り上げるのは韓国の政治家であり日本でも有名な金大中氏。

読み方はキムデジュン。韓国の大統領だった人です。

そして彼はとても稀有な人生を送っています。彼がなくなってから年数もたっているため、今の若い方たちはあまり知る方も少なくなっているかもしれません。

もう一度、政治家・金大中の人生を振り返って現在の韓国政治を理解してみましょう!

目次

金大中の生い立ちとは?

まず、金大中の生い立ちから見ていきましょう。彼は、1925年12月3日、韓国の全羅南道(チョルラナムド)の務安群という地域で生まれました。

全羅南道の荷衣島に位置する現在の荷衣小学校に通っていましたが、1936年に木浦府(現、木浦市)に引っ越し、木浦第一普通学校(現、木浦北橋小学校)に転校しました。

その後、1939年に木浦公立商業学校(現、木商高校)に入学しました。まあ、金大中の学生時代はいたって普通の学生だったと言われています。

1943年に卒業後、海運会社を経営し、1954年の総選挙で国会議員に初挑戦しましたがあえなく落選。

その後は民主党のスポークスマンとして活動していましたが、何度も選挙には落選しています。政治への関心はあったもののなかなか政治の世界に踏み入ることができなかったんですね。

1961年に補欠選挙でやっと国会議員としての初当選を迎えましたが、不幸にもその後の朴正煕による軍事クーデターによりその当選は無効となってしまったのです

かなり運がない金大中・・・・同情してしまいます。

金大中の政治活動

国会議員として当選した後は、野党内で頭角を現していき、1970年9月に新民党の大統領候補に指名され、翌1971年の大統領選では当時の大統領現職である朴正煕に僅差で敗れるところまでいきました。

彼と朴正煕の因縁は、この頃から始まったと言えるかもしれません。

今の韓国からはあまり想像できませんが、当時の朴正煕政権は独裁色の強い軍事政権であり、政敵である金大中に対しての暗殺工作をしたりしていました。

1972年、金大中が日本に滞在していた時に、朴正煕は、「大統領特別宣言」なるものを発表し韓国に非常事態戒厳令を敷きました。帰国が出来なくなり亡命状態となった、金大中は日本や米国などの国外からの政治活動を余儀なくされていたのです・・・。

ほんとどこまでも不運な政治家ですね。。

このような、独裁政権と言える朴正煕政権に対して強く反発し、打倒朴政権をめざした、韓国での民主化活動を主導していくこととなります。

金大中事件勃発!

上記のような、朴正煕と金大中との対立構造の中で、発生したのが金大中事件です。

一国の政治家が拉致されるという衝撃的な事件として語られるとともに、その舞台の一つが日本であったことで、日本人の記憶にも深く残ることとなりました。

 事件の経緯

事件は、金大中が日本に滞在中に起こりました。

日本で民主活動を行っていた金大中が、1973年8月8日、東京のホテルグランドパレスで何者かによって拉致され、行方不明となったのです。

後に判明するのですが、この犯人は韓国中央情報部 (KCIA) の工作員であり、拉致された後、神戸から出港した工作船の上で金大中は殺害される寸前であったとのことでした。

しかし、日本の海上保安庁のヘリコプターが船の上から照明弾などで威嚇したため、殺害には至りませんでした。

日本政府のこの対応により、犯人らは計画を変更し、金大中を暗殺せずに釜山を経由してソウル市内まで連行しました。その5日後にソウル市内のガソリンスタンドで解放をされた彼は、自力で自宅に戻ったとされています。

いやはや、映画顔負けの展開ですよね!

事件の背景 当時の韓国情勢

一国の大物政治家が国外で、白昼堂々と拉致され、暗殺寸前まで追い込まれ、そしてその祖国である韓国で解放される、という現在では考えられないようなショッキングな出来事ですよね。

実はこの事件をちゃんと理解するには当時の韓国情勢を把握しておく必要があります。

上述したとおり、当時、政権についていた朴正煕は1961年5月、将校を率いてクーデターを起こした人物です。

その後、1962年3月に大統領権限代行の座につき、翌年10月の選挙で勝利し第5代大統領に就任しました。

漢江の奇跡と軍事政権

この朴正煕の政権下において、『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が続き韓国は世界最貧国の層から脱したとされています。

一方、軍事独裁色の強い朴正煕政権が長期化する中で、韓国では反政府・民主化運動が、国民の間で高まっていたのです。

このような政治情勢のもと、1971年の大統領選挙では、朴正煕大統領と、野党のスポークスマンとして活躍していた金大中の2人が争いました。

結果、朴正煕は僅差で勝利しますが、金大中の民主化活動はこれを機にますます勢いを増していき、朴正煕は金大中を危険視していくようになります。

大統領選の直後、大型トラックが金大中に向かって突っ込み重傷を負うという事故が起こりました。

これは、金大中を抹殺するため、朴正煕が当時のKCIA(韓国中央情報部)日韓のヤクザなどを使った暗殺事件であったという説もあります。

金大中は自身の危険を悟り、またケガの治療という名目で、韓国外に飛び米国や日本などの国外からの反政府・民主化運動を続けるようになっていたのでした。

その中で朴正煕は反政府運動を抑圧するため、「非常戒厳令」を発令し韓国国内は極度の緊張状態となっていた中で、この拉致事件は起こりました。

金大中事件のその後はどうなった?

引用元:https://www.nippon.com/ja/news/yjj2018062300328/

この事件が発覚した後に、日本政府は韓国に対して重大な主権侵害であるということを主張し謝罪を要求しました。

同時に日本国内でも反韓感情が高まり、国際問題にまで発展します。

しかし、当時の韓国の首相であった金鍾泌が日本へ突如訪問し、当時の首相であった田中角栄との面談を果たし、そこで政治的な決着を図りました。

そこでは秘密裏に、韓国側から4億円もの現金が田中角栄に贈られたということも後の証言から明らかになっています。

こうして、韓国は今回の事件に対して謝罪をする一方で、金大中の過去の言動についてはあくまで責任を問わないとし、彼の身柄を保証することとしました。

また、その後1975年には当時の外相であった宮澤喜一と韓国の外相であった金東祚の間での会談が実施され、韓国側でKCIAの関与や政権からの指示の有無などは否定されたまま、捜査は打ち切られました。

2006年になりようやく韓国はKCIAの組織的犯行であり、国家的な関与を認め、日本に対する主権侵害を陳謝することとなりました。

また、この事件により高まった反韓感情のすえに文世光事件が発生し、責任を取らされた当時の警護室長が解任されたことが遺恨を残し、1979年ついに朴正煕は暗殺されることとなり、朴正煕政権の崩壊を迎えたのです。

金大中事件後に大統領へと返り咲き!

このような拉致事件に巻き込まれた金大中ですが、その後の政治活動の末にとうとう大統領にまで上り詰めることとなります。

金大中大統領就任まで

拉致事件の後も、金大中は民主活動を引き続き先導したことで逮捕され、1976年~1978年まで刑務所に入れられます。

その後、政治活動を再開した後に再び逮捕されたことをきっかけとして、光州事件が発生します。

当時、朴正煕の後に軍事政権を敷いていた全斗煥(チョン・ドゥファン)氏らを中心とする新軍部勢力が戒厳令を全国に拡大し、18日に金大中氏らの支持基盤である光州でデモを軍事的な弾圧を行ったのです!

見かねた市民が蜂起し、200人以上が死亡・行方不明になったという事件。

金大中はこの民主運動の首謀者として、軍事政権により、死刑判決を受けることになります。しかし、この死刑判決に対する日本や世界各国からの国際的な批判により、無期懲役に減刑されることとなります。

その後も全斗煥により政治活動を解禁され、1987年には公民権を回復し、平和民主党を結成し、大統領選にも何度か望みますがあえなく敗北します。

一時は政界を引退しますが、イギリスに遊学し論文を書いたり研究生活を送り、アジア太平洋平和財団を結成します。

その後、1995年政界に復帰して新政治国民会議を結成し、政治に復帰します。

1997年の大統領選挙において、地元である全羅道地域での支持票を集めたことや、朴正煕の後継である金鍾泌とも手を組み保守派の票を取り込んだこと、またアジア通貨危機への対応も評価されたことで、当選にいたりました。

大統領としての功績がすごかった!

しかし金大中が大統領に就任した後もアジア通貨危機の影響は残っており、前途多難な政権の船出となりました。IMFの介入を受け入れ、IT産業の振興や財閥の統廃合により、韓国はIT先進国に生まれ変わりサムスン電子などの世界的な大企業を生み出しました。

また、医療保険などの福祉政策も拡充していき、彼の行った経済政策はDJノミクスと呼ばれています。

外交分野においては、1998年当時の日本首相であった小渕恵三と日韓共同宣言を発表し、日韓での協調路線を打ち出しました。

それまで韓国内で禁じていた日本大衆文化を段階的にて開放し、歌謡公演や日本語の音楽CD、ゲームなどが韓国でも楽しめるようになりました。

また、北朝鮮に対しては「太陽政策」と呼ばれる融和政策を推し進めていきました。

2000年には北朝鮮の首都平壌で、実に朝鮮半島が分断されて以来である、南北首脳会談を当時の北朝鮮のトップであった金正日と実現します。

この成果からノーベル平和賞を受賞するにまで至りました。

一方この政策は、北朝鮮の独裁政権を延命させたとして批判的な立場を取る人もいますが、どんな国に対しても歩み寄りの姿勢であった金大中は平和的に外交を進めていったといえるでしょうね。

 政界引退後

2003年には大統領任期満了を迎えて退任。そのまま政界からも引退します。引退後はまた論文執筆や研究活動を続けていきました。

2009年には肺炎を患い、同年、多機能不全により85歳にて亡くなります。民主化を求めつつ、運命に翻弄されながら生きた生涯でした。

金大中事件とはなんだったのか?わかりやすく解説 まとめ

金大中はとても波乱万丈で起伏の多い人生を歩んできました。

金大中の軌跡を追うことは、韓国の民主化から現在までの発展をなぞり、学んでいくことになります。

現在の若い人は韓国が1980年代まで軍事政権のもとで自由が制限されていたこと、また日本という隣国において政治的なライバルを拉致するという犯罪行為をも行う政権であったことはとても意外に感じるかもしれません。

また、彼が日韓共同宣言を発したことで、日本と韓国は急速に文化的にも交流を深めていくことになります。

韓流ドラマや韓国アイドルを我々が何の気なしに楽しめるのも彼の政策によるものと言えるかもしれません。一方で、北朝鮮に対する政策の成否は今でも答えは出ていないと思います。

金大中事件と言われる拉致事件の結末は紙一重でしたが、もしものことがあったら今の世界はまただいぶ違ったものであったかもしれませんね。

参考サイト
金大中ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/

時事ドットコム:https://www.jiji.com/jc/d4?p=krp131-jpp08232655&d=d4_bbb
日本記者クラブ:https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22382
プレジデントオンライン:https://president.jp/articles/-/23601

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