かつて朝鮮半島にはいくつもの国が興っては消えて行きました。
14世紀になると朝鮮という国が興り、その後500年余りの長い間朝鮮半島を治めてきたのですが、その朝鮮半島最後の王朝を築いたのが李成桂(イソンゲ)という人物です。
今日は李成桂がどのように朝鮮をつくったのか?何をした人物なのかを解説していきたいと思います!
李成桂が滅ぼした国とは?なぜ滅亡させたのか?

李成桂は、もともと軍人として高麗という国に仕えていました。李成桂は当時の高麗王に対し、1388年クーデターを起こし高麗王を殺害。
その後1389年に自らの意のままとなる別の王(恭譲王)を擁立し、そして1392年、恭譲王は李成桂に王位を譲る形で退位し、高麗は滅亡したのです!
高麗は当時中国大陸で勢力を振るっていた明に対抗する意思を示していましたが、李成桂はそれでは高麗はやっていけないとわかっていました。
大国を敵に回したら、力の弱い小国は侵略されたり統治されたりしてしまいます。
李成桂は軍人としてのたくさん功績を挙げていて人望もある人だったので、このまま国が傾いていってしまう危機を見過ごすことができなかったんでしょうね!
李成桂が起こしたクーデターとはどんなもの?その経緯とは
1388年、李成桂は高麗の王に命じられて明軍と戦う前線指揮を任され、その地に向かうべく進軍していました。
その裏には、本当は明への対抗だけではなく、李成桂ら有力な武人の勢力を削るという高麗王の狙いがありました。
自分の国を守ってくれる軍人たちなのに、強い明と戦わせることで彼らの勢力を弱めることを企んでいたのです。
戦いなんてどうでもよかった王様

その証拠に、王は「戦の勝ち負けはどっちでもいいんだ〜」と公言したり、戦っている武人の反乱を防止するためその家族を人質するなど、卑怯な手を使います。
そんな中、李成桂の率いる軍隊は威化島という場所に到着しましたが、悪天候でそれ以上進むことができませんた。
天候が落ち着くのを待っている間に兵士たちの士気は下がりまくりで逃亡者まででる始末。そりゃ王様があんな態度なら戦う意欲もなくなっちゃいますよね。
李成桂は撤退を高麗王に要求するも認められませんでした。
そこで李成桂は悩んだ末、独断で撤退することを決意!高麗王の意に逆らうことを決めたのです。
これを威化島回軍(いかとうかいぐん)と言います。
威化島回軍(いかとうかいぐん)
李成桂が高麗王のもとに向かうと聞くと、李成桂に援軍が駆けつけたり、民衆が李成桂を歓迎するなど、李成桂は今の世を変える希望の人として期待されていくのです。
こうなると、一般的には高麗王を殺して自分が王につく、という流れを想像しがちですが、李成桂はそうしませんでした。
まずは今回の明との戦いの責任を問い、高麗王の側近の厳罰を要求しました。
でも王はあくまでも李成桂を反逆者として殺害しようとします。
交渉は難しいと思った李成桂は、武力で側近を捕らえて流刑にし処刑しましたが、高麗王はその地位は奪われず王のままでいられました。
そこで和睦できればよかったのに、王はよっぽど李成桂が憎くて怖いと見えて、家臣を募って李成桂を襲わせますが失敗。
とうとう高麗王は追放・殺害され、王位を失うことになりました。
でもまだ李成桂は王にはなりません。次王に王族から恭譲王を据えることで、これまでとは違う新たな国を作ろうとしたのです。
李成桂は無駄な血を流すことなく改革を進めようとしたように見えますね。
王位はやはり尊いものなので、イチ軍人であった自分がいきなり王になっても周りから認められないと思っていたのかも知れません。
李成桂は王ではなかった?朝鮮と明との関係とは
李成桂は1392年、恭譲王から王位を譲られるという形で即位しました。
でも実はその時の李成桂は、高麗王の代理という意味の「権知高麗国事」という地位だったのです。実質は国の最高統治者ですが、「王」ではなかったんですね。
実は李成桂や、続く2代目の時代でも、まだ正式な「王」ではなかったのです。
これはどういうことかと言うと、当時の高麗や朝鮮は大国・明の従属国で、王の即位や跡継ぎの決定など重大なことは明の承認を得る必要があったのです。
その明から、李成桂は「王」ではなく「代理」と言う地位を認められたにすぎず、「王」と認められたのは3代目の時代の1401年でした。
国の成立もちょっと複雑なのですが、1392年に李成桂が実質の王位についた時は、「高麗王の代理」と言う通りまだ国は高麗なのです。ただ、代理の地位についた時に李成桂は明に新しい国名を決めてもらうようお伺いを立てています。
そこで明は国名を「朝鮮」と決め、1393年に李成桂は「権知朝鮮国事」と言う朝鮮王の代理となったのでした。
李成桂は1392年に即位しましたが、朝鮮という国は1393年から始まったんですね。
クーデターまで起こしたのに勝手に王とは名乗らず、さらに国名も明にお伺いを立てて決めてもらうとは、明の影響力がいかに強いかがわかりますね。
ちなみに朝鮮王となった3代目の太宗によって、李成桂は初代朝鮮国王の称号太祖が与えられました。
李成桂の新しい国とは
李成桂がクーデターを起こした後に取り組んだのは田制の改革でした。
もともと高麗では国王をはじめとする王族や有力貴族たちが広大な荘園を保有していました。荘園とはいわゆる田畑の土地のことで、農民は土地を名目上王族や貴族などのものにすれば、自分の土地だった時より税が軽くなるので、より有力な人物の庇護に入ろうとします。
税が軽くなるうえ、その土地は有力人物の名義なので略奪されたりする恐れも少なくなります。
そうして偉い人ほど荘園をたくさん持ち、そこからの収入でさらに大金持ちになっていったのです。
有力貴族たちは納税義務がないので、そのように荘園が増えていってしまうと国に入る税が減っていきます。
そうすると必要な時必要な場所にお金が使えなくなりますし、下級の官吏や軍人などは大したお給料ももらえなくなり、そのため不平不満が渦巻いていました。
そこで李成桂は、自身の方針に反対する人たちの荘園を没収し、新たに役職に応じて田畑を分配し、偏りをなくしていきます。
さらに明を習って官吏への試験である科挙制度を導入し、能力のある人物を登用しました。
そして、高麗では仏教が国教だったのですが、高麗を否定する意味で朝鮮では国教を儒教としました。
儒教の導入の動機は過去の否定ではありますが、儒教は、相手を思いやることや年上を敬うなどの人としてあるべき姿を示すもので、それはこの先続く朝鮮の基盤となりました。現代の韓国でもその影響は強く残っています。
李成桂の跡継ぎ争いが勃発!兄弟間の骨肉の争い
李成桂は、新しい国となってまだ不安定な政権ということもあり、すぐに跡継ぎを決定する必要がありました。
李成桂には8人の息子がいたのですが、跡継ぎの世子(セジャ)となったのは、なんと八男で当時まだ10歳の李芳碩(イバンソク)でした。
それまで李成桂の片腕として活躍してきて世子の最有力とされていた五男の李芳遠(イバンウォン)は大ショック!
李成桂に裏切られた気持ちで、李成桂や李芳碩への憎しみが膨れ上がります。
そしてついに1398年、李芳遠は李芳碩を殺害してしまいます(第一次王子の乱)
そこまでしたのに、李芳遠は周りの反発を考慮して次男を王に推薦・即位させ、自分は補佐として国政に携わりました。
1400年、李芳遠は四男の起こした第二次王子の乱を抑え、その後第3代王としてやっと即位するのです。
即位まで時間をかけるあたりが親子で似ていますね。それにしても、李成桂が世子を八男にした理由が、その母親を寵愛していたかららしいのです。当時60歳に近かった李成桂、無駄に兄弟間で争わせてしまいちょっと残念な最後になってしまいましたね。
李成桂は何をした人?朝鮮国をつくりあげた偉大な人物!まとめ
李成桂は1408年、74歳で亡くなりました。
最後は政治への興味をなくし念仏三昧だったそうです。李成桂は国を変えるという大事を成したその時に、人生の全エネルギーを使ってしまったのかも知れません。
それでも、李成桂の作った朝鮮という国は、500年もの長きに渡って朝鮮半島を統治し続けました。
そしてその間、李成桂の子孫たちが王として君臨し続けたのです。クーデターを起こしたあの時、全てを武力だけで強行し無理に王位についていたら、こんなにも長く続く王朝の基礎を築けなかったかも知れませんね。
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