東ヨーロッパに移動したロマ人
ロマ人は、北インドからペルシャ、東ヨーロッパ、ヨーロッパ全土に広がりました。
多くのロマ人は、南ヨーロッパから東ヨーロッパに暮らし、バチカン半島からスペインやフランスにまで広がっています。
中でも多くのロマはルーマニアに移動して多くのロマ人が暮らしています。
ロマ人は、移動型民族という特徴ゆえに、国境で定められたひとつの国に集まって暮らしているわけではありません。
またロマ人という国籍もないため、住むところ住むところでは常に余所者扱いされたのです。
15世紀初頭、ロマ人は、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントにより巡礼者として、帝国全土の自由な通行を許されます。
いわゆる皇帝ジギスムントの特許状を保証とし各地を放浪しました。
ロマ人達は、最初の頃は聖なる人として親切に迎え入れられましたが、ヨーロッパを立ち去ろうとしない彼らに徐々に不信の目が向けられ、トルコやタタールのスパイであるとの風説が飛び交うようになりました。
また、同じく国を持たずにユダヤ教という信仰によって結ばれているユダヤ人と、ロマ人を同類とする風説も、流れるようになります。
次々と迫害されてロマ人

16世紀には、神聖ローマ帝国マクシミリアン一世によって皇帝ジギスムントの特許状は無効とされ、ロマを殺しても基本的には罪に問われないことになりました。
1499年には、スペインがロマの入国を禁止し、国内のロマは4日以内に退去するようにとの勅令が出されました。
16世紀半ばには、イギリスの各地の地方自治体が、ロマの退去命令を、1561年には、フランスが2ヶ月以内に領土からロマを追放する命令を出しました。
1596年には、イギリスで放浪中のロマ196人が捕縛され、106人が死刑宣告を受けました。
実際に死刑になったのは6人ですが、その他の人々は国外退去するように命じられたのです。
さらに1714年には、ドイツでロマに対する裁判抜きに、処刑、追放、重労働を命令してよいという法律まで施行されました。
ドイツにおいては、1935年にロマを劣等民族と見なす法律が施行され、その後ロマ人は、強制移住や強制労働政策の対象となりました。
このことが、ナチス政権下でのロマ人迫害に繋がっていきます。
ロマは放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市部ではロマ人が現れたら協会の鐘を鳴らして合図し彼らを排擊したと言われています。
ロマ人がヨーロッパ文化に与えた影響
迫害を受けてきたロマ人ですが、実はヨーロッパ全土を移動生活することによってヨーロッパの文化に大きな影響を与えてきました。
ロマ人の多くは、放牧をしながら占い師や魔女として生活をしていました。
その他鍛冶屋をしたり、行商をしたり、音楽やダンスを披露したりと独自の文化をもっていたのです。
ロマ人達は、祭りや結婚式などに呼ばれて、その芸を披露してお金や食べ物をもらったりして生活の糧を得ていました。
スペインで有名なフラメンコ、フランスやイタリアのストレートパフォーマンスの起源は、ロマ人だと言われています。
ロマ人達は、自分たちの生活様式にあった芸と、移住先の地域文化が混ざった文化を伝えていったのです。
またロマの多くは、ヒンドゥー教を信仰していましたが、キリスト教圏に住めばキリスト教を、イスラム教圏に住めばイスラム教を、自分たちがもともと信仰しているヒンドゥー教の儀式や信仰に混ぜて独特の形の信仰としたのです。
彼らなりに適応しようとしていたと考えられますが、結局はその異質さゆえに、それぞれの土地から追われることになりました。
迫害を受け続けるロマ人達
国を持たない、移動し続けるロマ人は、家族や同族に関する考え方や、結婚観が独特です。
例えば、結婚する時はお見合い結婚で、自由恋愛は禁止されています。
結婚相手を親が選んだり、まだ児童にあたる年齢で嫁いだりするのでヨーロッパ先進国からは様々な懸念が寄せられています。
児童の結婚に至っては、人身売買と受け取られています。
また、独特の言語を使いロマ同士でも地域が違えば言葉が伝わらなかったりすることもあります。
移動型生活を続けたり、ヨーロッパの慣習とは違う習慣を持つロマ人達は、常に迫害を受け続けで行くことになるのでした。
またヨーロッパでは古くから、病気や災害が起こると、ロマ人が魔術を使ったからと言い広められることもしばしばあったようです。
ヨーロッパの人々はロマ人が貧困をもたらし犯罪が増加するといった風聞を広めさらにロマ人の評判を落とします。
そういう意味では、ロマ人の移動型生活は、必ずしも自由意思によるものだけでなく、迫害から逃げ、生き残るための手段だったとも考えられます。
14世紀頃には、ヨーロッパで奴隷として搾取された歴史もあります。
17世紀には、オーストリア・ハンガリー帝国で、ロマ人の同化政策が進められ、ロマ人の子供達を親から引き離して非ロマの家庭で養育したり施設で育てたりしました。
その理由としては、ロマを国家の一員として遇するための一面もありますが、一方でロマ人としてのアイデンティティーや文化を捨てさせようとする意味もあったそうです。
ヨーロッパのすべての国が、同化政策を行った訳ではありませんが、ルーマニアでは、身分証明書には民族記入欄がないためロマであることを隠してルーマニア人として申告した人も多くいます。
しかしロマ人は身分証明書を持っていない人も多くいました。
ルーマニアでは、14世紀から19世紀にかけて、ロマ人は物々交換や売買の対象とされ、人間以下の存在と見なされていました。
ドイツでは、ヒトラーによりアーリア人優良民族説が唱えられアーリア人種以外への徹底的な迫害が行われました。
ヒトラーによるユダヤ人迫害は、有名な話ですが、ロマ人も劣等民族として迫害の対象とされたのです。
迫害の結果大勢のロマ人が捕らえられ、強制労働を強いられたり、ホロコーストに送られて殺されました。
ロマ人は放浪民族であるため、その人口がどのくらいなのかわかりません。
ロマ人の迫害は、ヒトラーによるユダヤ人への迫害の陰に隠れ、忘れ去られた歴史となっています。
第二次世界大戦後には社会主義体制になった旧ソ連や東ヨーロッパにおいて、ロマの移動禁止令を出し、労働者として使われていました。
この頃にも、ロマへの迫害は続いていたため、コソボ紛争時に虐殺されたり、死体処理をさせられたりと悲劇は現在まで続いています。
チャウシェスク独裁政権下のロマ人達

さて、ここでルーマニアのチャウシェスク大統領について少し解説します。
チャウシェスク大統領は、1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨しました。
チャウシェスク大統領が打ち出したのは国力増強政策です。
そのためには人口を増やすことが不可欠と考え、人工的な避妊や望まない子供の堕胎を禁止しました。
ルーマニア政権下の悲惨な子供たち
ただでさえ貧困にあえいでいたルーマニアの国民にとっては、大勢の子供を育てることができませんでした。
そのため、捨て子が異常に多くなり、子供達の多くは、国の養護施設で育てられることになりました。
しかしその養護施設では、ひとつのベビーベットに六人もの子供が詰め込まれ、満足な世話が行き届かないものでした。
現在で言うところのネグレクト(育児放棄)状態が、常時行われていたと言われています。
こういった状態で育てられた子供達は、心理学で言うところの愛着障害に陥り、社会適応がしにくい人間に育ちました。
また家出をしたり施設から逃げ出したりして、路上生活者となった子供達もたくさんいます。
こういった社会背景の中で、ロマ人も例外ではありませんでした。
チャウシェスクは、ヒトラーのアーリア人優良民族説に習ってルーマニア人民族主義を打ち出し、ロマ人を劣等民族として集合住宅に隔離したり強制労働を課したりして徹底的な弾圧を行ったのです。
ロマの子供達は、親と引き離され、施設に入れられました。
しかしその施設も、子供達にとって安心できる場ではなく、ロマ人ゆえに身体的精神的虐待をされることになります。
チャウシェスク政権崩壊後も続く差別

チャウシェスク大統領が失脚した後も、差別観は残り、ロマ人は苦しい生活を強いられました。
ルーマニア-マンホール生活者たちの記録という書籍があります。
チャウシェスク独裁政権下で生まれたいわゆるチャウシェスクベビーと呼ばれる少年たち、青年たちが取材を受けています。
彼らの中には、多くのロマ人が混ざっており、その証言によるとロマ人の子供たちは施設の中でも差別され、いじめられたり食事を与えてもらえなかったと言っています。
施設にいても、生命の危険を感じるので施設を逃げ出して路上生活者になっているのです。
こういった子供達は、家庭で愛されて育つこともできず教育を受ける機会もないため、社会の一員として生活することができません。
したがって、生き延びるために犯罪を犯したり、薬物依存症になったりしながら、路上生活を送っています。
その中で生まれてくる子供達も、安定した生活環境を与えられることなく育っています。
この問題は、ヨーロッパにおいても大きな問題となっており、様々な支援団体が活動しています。
ロマの子供達を引き取り、安定した生活を送れるようにしたり、路上生活者に教育の機会を与え、職につけるように支援したり、支援をしています。
しかし、しかし長年放置されてきたこの問題は根が深く解決するには時間がかかるようです。
ルーマニアの悲劇!チャウシェスクによるロマの迫害!まとめ
ここまで、ロマの歴史と、ルーマニアにおける迫害の歴史を見てきました。
一般的に、人種差別による迫害といえば、ヒトラーによるユダヤ人の迫害が思い浮かびますが、歴史の影にはロマ人も含めて様々な少数民族への迫害も行われていたのです。
日本は単一民族ですし、第二次世界大戦後は、大きな戦争に巻き込まれることなく、一見平和なように見えます。
しかし日本の中でも、アイヌ民族を日本に同化させようとする政策が行われたり、在日民族への差別が行われたりしてきました。
建国が新しいアメリカにしても、ネイティブアメリカンに対する迫害や有色人種に対する差別が、今も根深く残っています。
こうしている今も、ウクライナとロシアの間に戦争が起こっています。その陰には、また知られざる悲劇があるでしょう。
一見平和に見える社会の影には、私たちが知らない様々な悲劇が起きていることを、知ることも大切だと筆者は考えます。
意外に知られていないロマの悲劇は、これからも語り継がれることが必要ですね。
【参考文献】
「ルーマニア-マンホール生活者たちの記録」早坂隆著(中公文庫)
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