たったひとりでオスマン帝国へ
当時はテレビどころかラジオもありませんでしたので、メディアの中心は新聞でした。
1890年(明治23)9月19日、東京の『東京日日新聞』(号外)を先頭に神戸では『神戸又新日報』など、新聞各社はこれを大きく報じると共に、義捐金(ぎえんきん)の募集にも乗り出しました。
そうした支援の輪は国内の民間団体、はては一般個人にも広まっていきました。
その中で、ひときわ個性的…というか大変目立っていたのが、
山田寅次郎、という名の若者でした。
ここからは彼の生い立ち、そして自らが引き寄せた数奇な運命に導かれていった、非凡な人生の足あとを辿っていきましょう。
茶道家・山田寅次郎、イスタンブールに移住
山田寅次郎は、1866年(慶応2)、沼田藩(現在の群馬県)用人(ようにん=伝達や雑事の処理を任される)・中村雄左衛門の次男として、江戸に生まれました。
この年は、ちょうど江戸時代の末期に当たっていたので、間もなく時代は明治を迎えることに。
彼の幼少期は、まさに江戸から東京に生まれ変わっていく激動の時代の幕明けに接してきたと言えるでしょう。
寅次郎は、小学校卒業後は外国語の学校で英語・フランス語を学び、15歳で茶道・宗徧流山田家の養子となりました。
そのまま茶道家へまっしぐらかと思いきや、18歳で東京薬学校(現在の東京薬科大)を卒業すると、今度は新聞記者や出版社の経営をはじめます。
ここまでの遍歴を知っただけで、もはや付いて行けないものを感じる筆者でした。
1890年、寅次郎が24歳の時、オスマン帝国軍艦・エルトゥールル号の遭難事故を知ることになります。
明治天皇への親書を携えて、海路はるばる日本にやってきたオスマン帝国の使節団が帰る途中、紀伊大島沖で遭難してしまったこの事件、その被害の余りある甚大(じんだい)さ、587名もの人命をうばった悲劇に寅次郎も相当なショックを受けました。
普通の人ならそこで義捐金(ぎえんきん)を納めるなど、志を示すことで気がすむのでしょうが、彼は違いました。
なんと、寅次郎はみずから義捐金集めに乗り出したのです!
しかもそれは、街頭で募金箱を抱えて道行く人に呼びかける、というような一般人のやり方ではありません。
寅次郎は新聞記者や出版社などの職歴もあって、著名な文学者(幸田露伴、尾崎紅葉)や新聞社のジャーナリストなどと親交がありました。
その幅広い人脈をフルに生かし、人々が自分の意志で義捐金を納めたくなる作戦に打って出たのです。
寅次郎はまず新聞社に働きかけて、新聞に広告を載せてもらいます。
その内容は、国内の各地で「土国⦅トルコのこと⦆遭難者弔慰⦅ちょうい⦆金募集大演説会」と題した無料の演説会や演芸会を開催する、という告知記事でした。
もちろん寅次郎自身も演説をして聴衆の善意に訴え、行動へと動かしていきます。
集まった義捐金は、全部で5000円、現在の貨幣価値(お米)に置き換えると、なんと3000万円にのぼったのです!
善意のつまった義捐金を手に、寅次郎はまず外務省に直行。
当時の外務大臣・青木周蔵を訪ねてオスマン帝国への送金方法を訊いたところ、何と青木はその答えとして、意外なことばを口にしたのでした。
「この義捐金は、君の義心によって集まったものであるから、君が自ら携えて、トルコに行ってはどうだろうか」
言う方もいう方なら、聞く方も聞く方…と、言いたいところですが。
ともかく寅次郎は、外相・青木周蔵のアドバイスと後押しを受けて、自分でも海軍当局に交渉します。
タイミングにも恵まれ、新しく出来た艦船の回航のためにフランスへいく予定であった海軍のチャーター船「パサン号」に便乗することを許されました。
1892年(明治25)1月30日、山田寅次郎はオスマン帝国・イスタンブールに向けて日本を旅立ちます。
マルチな日本人ー貿易商にして、学校の先生
寅次郎が日本国民の温かい志を手に、海路を越えてイスタンブールに到着したのは4月4日の朝でした。
彼はさっそく外務省にサーイト・パシャを訪ね、海軍省が管轄する「エルトゥールル号の遺族救済委員会」に持参した義捐金を送る形で、目的を果たす事ができました。
それだけでもスゴイ事ですが、寅次郎には実業家としてのさらなる野望?がありました。
この時、一足先にオスマン帝国に住んでいた日本人で、時事新報の特派員記者・野田正太郎が寅次郎の話として記事に載せています。
それによると、寅次郎がオスマン帝国にやってきた目的は、義捐金を届けることと、もう1つは日本とトルコの貿易のきっかけをつくるため」であると言ったのだとか。
彼はその言葉どおり、イスタンブールに日本とトルコをつなぐ貿易商の店、「中村商店」を開きます。
まぎらわしい事を言うようですが、この店名は寅次郎の姓から取ったものではありません。
実は、寅次郎が電車のなかで出会って親しくなった人物・中村為三郎の兄弟が営む繊維関係のお店、中村商店からとったものです。
また、寅次郎は時の皇帝アブデュル=ハミト2世に謁見し、もともと日本好きだった皇帝より宮廷の出入りを許されます。
寅次郎は持ち前のセンスと実業家の営業力を活かして、皇帝のなかばやりたい放題?な、あらゆるニーズに柔軟に対応。
日本製の家具や工具に絹織物、はては陶磁器などのオシャレな調度品に至るまで、大阪の本店を通じてオスマン帝国に輸入したのです。
皇帝は、ゆくゆくは日本と国交を結ぶことも視野に入れていました。
そこで目を付けたのが、日本から単身で乗り込んできた山田寅次郎であることは言うまでもありません。
謁見のあとで、外務省を通じて彼にトルコ語を学ばせると共に、陸軍士官らに日本語を教えるようにと依頼しました。
お互いの国を理解するためには、言葉の理解が必要不可欠であることを、痛感していたのです。
また、寅次郎はイスタンブールにお店を構えるかたわら、日本から訪れた要人があれば、その宿泊するホテルに出向いて接待をしたりと、忙しい日々を送っていたようです。
あるときは貿易商、またある時は語学の先生、さらにはオスマン帝国駐在の民間外交官。
彼は天性ともいうべきマルチな才能を、異教の地で開花させていったのです。
オスマン帝国と日本をつなぐ、文化のコーディネイターであったと言えますね。
顔つなぎも買って出たけれどー国レベルには、ほど遠い
日本とオスマン帝国の国交に向けた動きは、もちろん日本側にもありました。
数多くの日本の要人が、それこそ両手の指では足りないほどにオスマン帝国を訪れましたが、彼らの接待およびオスマン帝国側の要人たちとの会見をセッティングしたのは、他ならぬ寅次郎でした。
そんなわけで、オスマン帝国を訪問した日本の要人は、イスタンブールに着いたらまず、寅次郎の世話になるというのがおきまりでした。
しかし、当然のことながら現地には日本の出先機関もなく、両国の交流が正式な国交に至るまでには、さらに長い年月を必要としました。
そんな中で、民間の一個人である山田寅次郎は、日土(日本とトルコ)国交の過程を支えた重要なキーパーソンの1人であったと言えるでしょう。
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