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【第二次世界大戦】ビスマルク海海戦をわかりやすく解説!

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ビスマルク海海戦は、日本においては「ダンピール海峡の悲劇」としてよく知られている太平洋戦争中の戦いです。

戦争である以上決して楽しいものではないのですが、特にこの戦いは「悲劇」とつくように、ダンピール海峡で非常に多くの犠牲を生みました。

ビスマルク海海戦について、どういった戦いだったのか。

使用された艦隊についてや、日本軍がなぜ敗北したのかをわかりやすく解説していきます。

目次

ダンピール海峡の悲劇のあらまし

まず何よりもビスマルク海海戦、ダンピール海峡の悲劇はいつ、どこで、どのようにして起こってしまったのでしょうか。

なぜ「ダンピール海峡の悲劇」と呼ばれる戦いが起こっていったのかについて順を追って説明します。

ビスマルク海、ダンピール海峡が戦地となった理由

ビスマルク海海戦は1943年(昭和18年)3月2日から3日にかけて、ビスマルク海からダンピール海峡において起きた海戦です。

ビスマルク海とは、太平洋の南西部、パプアニューギニア近隣の海域の名称です。

また、ダンピール海峡(ダンピア海峡)は、パプアニューギニアのウンボイ島とニューブリテン島の間にある海峡で、北のビスマルク海と南のソロモン海を結ぶ場所に位置します。

この一帯、パプアニューギニアを含むニューギニア島の周辺は、日本軍にとって戦略的に非常に重要な地点であるとみなされていました。

ニューギニア島の西半分はインドネシア、つまりアジアであり、東半分はパプアニューギニア、つまりオセアニアに所属します。

オセアニアで一番大きな面積を持つ国、オーストラリアは日本軍と敵対する連合国の一つでした。

このオーストラリアへの海上交通路を断つことができれば、オーストラリアをアメリカから孤立させられる。

その目的があり、日本軍はニューギニア島周辺で太平洋戦争開戦後3カ月目からニューギニア作戦に踏み切っていた、というわけなのです。

しかし、日本軍がアメリカ軍の拠点ハワイとオーストラリアを結ぶ戦場に位置するガダルカナル島の制空権(一定の空域で空中を支配・管制する能力のことで、敵の航空戦力を上回る大きな戦闘効力を持った状態を航空優勢の確保という。)をめぐって、アメリカ軍とガダルカナル島で熾烈な戦いを始めてしまったことでニューギニア作戦がストップしてしまいます。

ニューギニアに一部の戦力を残した状態でガダルカナル島の戦いに兵力を注入したものの、守りが手薄になりニューギニアが陥落してしまう、といった危機を日本軍が感じたのが1943年1月のこと。

この一帯の救援のため、1943年1月7日に陸軍部隊を輸送船と駆逐艦(魚雷をメインの装備として、敵の対艦を襲撃することを任務とした高速水上艦艇で、軍艦の一種を指す)各5隻が派遣されました。

しかし、それでも勢いを増す連合国側の勢いに押される一方であった日本軍は、2カ月後の3月。増援部隊をニューギニア東岸のラエに送ることを決定しました。

この作戦が第八十一号作戦であり、ビスマルク海海戦の始まりです。

「全滅も辞さず」の戦い

1943年2月28日、日本軍の増援部隊はニューブリテン島ラバウルからラエに向けて出発しました。

駆逐艦8隻に護衛された輸送船8隻の船団は、歩兵を主力とする戦力約7400人と、武器弾薬、食料、各種装備品をラエまで運ぶべく出発したのです。

合わせて船団の護衛として、約70機の海軍戦闘機が上空から援護する計画となっていました。

この直前、1943年2月9日にはガダルカナル島での戦闘は連合国側の勝利で決しており、連合国も次なる戦いの要所としてニューギニア周辺をみていました。

当時ニューギニア東部にはアメリカ陸軍航空隊の戦闘機と爆撃機が330機配置されていたことに加え、オーストラリア空軍の双発雷撃機(水上艦攻撃が目的の航空機)が30機集結しています。

この事実を日本陸海軍は偵察機の情報から第八十一号作戦決行の前には分かっていました。

つまり、この第八十一号作戦を実行するにおいて、敵からの激しい攻撃があることを事前に認識していたということです。

しかし事前に空から攻撃があることが容易く予想されていながらも、日本軍の駆逐艦に備わった対空に使える装備は機銃(口径20mm未満の連続発射機構を持つ火器のこと。旧日本海軍においては口径20mmを超える機関砲サイズの火器も機銃と呼んだ)のみ。

また戦闘機も70機しかないことから、その無謀さに作戦の中止を願い出る声も少なくはなかったそうです。

それでも

「全滅を辞さず」

この覚悟で戦うようにと命令がくだり、作戦は決行されることとなってしまったのでした。

輸送船の撃沈

第八十一号作戦の運行計画によれば、3月3日午後5時には目的地であるラエに到着。日没後に陸に上がる作戦となっていました。

船団は2000メートルの間隔をおいて2列縦隊。

各船の距離は800メートルで、その前後左右に護衛部隊が2000メートルの距離をおいて警戒配備についていました。

日本軍の偵察部隊が連合軍の装備を事前に知り得たように、連合軍にも日本軍の作戦は筒抜けでした。

第八十一号作戦は実行する前から連合軍に知られていたのです。

南西大西洋方面連合軍航空部隊は、日本の船団がビスマルク海に南下し、ダンピール海峡を通過したところを見計らって大規模な航空攻撃を加える用意を整えていました。

1943年3月1日午後3時15分。

哨戒(しょうかい・敵の侵入や襲撃に備えて警戒すること)中の連合国側爆撃機が日本船団を発見します。

この日は悪天候のため、幸か不幸か、哨戒機から報告を受けた爆撃機は日本船団を発見することができず戦闘にはなりませんでした。

翌日3月2日午前8時15分日本船団が発見され、その2時間後には戦闘が開始されました。

上空で警戒にあたっていた日本軍の爆撃機は迎撃体制に入りますが、その迎撃の間を縫うように連合軍の爆撃機からは1千ポンド爆弾(1トン爆弾とも呼ばれる)が28個投下されます。

この日の戦闘では輸送船1隻が沈没。

乗船していた1500人のうち、救助されたのは918人でした。

また翌3月3日には連合軍のうちオランダ空軍、アメリカ軍が襲来。

日本軍の爆撃機も応戦しましたが、午前中の連合軍からの攻撃だけで200発以上の爆弾が船団に投下され輸送船が相次いで沈没していきます。

さらに同日午後3時にはこの日2回目の連合軍による攻撃が開始され、輸送船8隻は全て沈没。

護衛艦8隻のうち4隻も一連の攻撃により撃沈されました。

この時、船の沈没によって海に投げ出された日本軍兵士に対しても航空機やPTボート(魚雷艇)によって3月5日まで攻撃が続けらたといいます。

結果として、ビスマルク海海戦、日本軍側の呼称、ダンピール海峡の悲劇から帰還できたのは2427人。

そして当初の目的地であるラエになんとか輸送できたのは800人余りに過ぎませんでした。

2使用された艦艇

ビスマルク海海戦では、先述のとおり、輸送船は全て沈没し、護衛艦も半分は沈没しています。

そこでどのような船が使われたのかを知ることで、この海戦の様相がわかってくるかと思います。

ビスマルク海海戦の編成

引用元:Wikipedia

まずビスマルク海海戦に投入された戦力はどのようなものだったのでしょうか。ここでは日本軍の軍編成を見ていきます。

日本軍兵力

指揮官第三水雷戦隊司令官・木村昌福少将

・護衛水上部隊

駆逐艦白雪(旗艦・司令部が設置された船のこと)、敷波、浦波、時津風、雪風、朝潮、荒潮、朝雲

・護衛航空部隊

二五三空零戦約30機

二〇四空零戦25〜30機

二五二空派遣部隊零戦11機

「瑞風」派遣隊零戦19機

五八二空爆撃機艦爆9機

七一五空空陸攻20〜25機

・輸送船隊

第一分隊帝洋丸、愛洋丸、神愛丸

第二分隊旭盛丸、大井川丸、太明丸、野島、建武丸

(零戦:零式艦上戦闘機。昭和15年(1940年)から日本軍に採用された爆撃機。機体を極限まで軽くすることで強力な重武装も搭載可能でしたが、敵の攻撃に対する防弾設備は全くなく、耐久性は脆弱なものだったといいます。)

連合国兵力

陸軍第五空軍前進部隊(ポートモレスビー)

・戦闘機(P38、P40、ボーファイター)154機

・重爆撃機(B17フライング・フォートレス)39機

・中爆撃機(B25ミッチェル)41機

・軽爆撃機(A20ハボック)34機

・雷爆撃機(ボーフォート)数機

この海戦のきっかけになった第八十一号作戦の主目的は、敵艦隊を駆逐することではなく増援部隊をニューギニア東岸のラエに運ぶことでした。

そのため、駆逐艦が護衛部隊として8隻入ってはいますが、輸送船体がメインの船団となります。攻撃力が連合国部隊と比べ劣るということは、この編成を見ただけでわかってしまいますね。

内部から反対が出た作戦であったということを容易に想像できるかと思います。

ビスマルク海戦の結果、輸送船建武丸は3月3日6時8分に沈没。そのほかの7隻も建武丸の沈没に前後して炎上し、3日の夜1時過ぎには全ての輸送船が沈没することとなりました。

撃沈された駆逐艦

また駆逐艦は旗艦であった白雪に加え、朝潮、荒潮、時津風が撃沈されました。ここから撃沈された駆逐艦について1隻ずつ見ていきます。

白雪

この作戦における旗艦であり、指揮官である第三水雷戦隊司令官木村昌福少将を乗せた白雪は、大日本海軍連合艦隊のうち、「吹雪型駆逐艦」に分類される2番艦でした。

艦名の白雪は文字の通り、真っ白な雪を意味します。

全長は118.5m、全幅は10.36m。

最大乗員数は219人、排水量1980トンで50口径社12.7cm連装砲3基、7.7mm機銃2基、61cm三連装魚雷発射管3基9門を備えていました。

1937年以降中国戦線で活躍していた船だったそうです。

木村昌福少将を乗せ、船団の先頭に立ち対空戦闘を行なっていましたが、右前方から爆撃機が突入し、この時の機銃掃射により木村少将は重傷を負います。

その後艦尾右斜め後方からの反跳爆撃(爆弾を水面低く跳ねさせて目標に激突させる爆撃砲のこと。攻撃機側の危険は伴うが、命中率が高かったと言われます。)の命中弾が爆薬庫内で爆発。

艦尾3番砲以降の艦尾を失ったことで沈没しました。

木村少将以下白雪の生存者は、駆逐艦敷波に救助されたそうです。

朝潮

朝潮は、「朝潮型駆逐艦」の1番艦です。

全長118m、全幅10.386m。

最大乗員数は230名で、排水量は2635トンです。

50口径12.7cm連装砲3基6門、25mm連装または13mm連装機銃2基、61cm四連装魚雷発射管2基8門、90式魚雷16本、91式爆雷36個を備えていました。

ビスマルク海海戦では、朝潮を中心に被弾を免れた船が他の艦艇の救助に奔走していました。

戦闘が勢いを増す中、救助作戦は中止となりますが、朝潮乗艦中であった第八駆逐隊司令佐藤康夫大佐の命令のもと独自に救助作戦を続けます。

輸送戦隊の一つ、野島の救助をしたのち、北上し戦場から離脱を図るものの、アメリカの中型爆撃機からの繰り返しの反跳爆撃により沈没します。

総員退艦令が出てからの沈没でしたが、乗組員のほとんどが犠牲になったとされています。

荒潮

荒潮は「朝潮型駆逐艦」の4番艦でした。

規模は朝潮と同じです。

全長118m、全幅10.386m。

最大乗員数は230名で、排水量は2635トンです。

50口径12.7cm連装砲3基6門、25mm連装または13mm連装機銃2基、61cm四連装魚雷発射管2基8門、90式魚雷16本、91式爆雷36個を備えていました。

中型爆撃機による繰り返しの反跳攻撃で艦尾2番砲塔と艦橋が被弾します。

艦尾が破壊されたことにより舵が故障し、航行不能状態だった野島と衝突し艦首も大破します。

駆逐艦雪風により生存者170名は救助されましたが、荒潮自体は多数の至近弾の爆発により沈没しました。

時津風

時津風は「陽炎型駆逐艦」の10番艦です。

「良いタイミングで吹く追い風」を意味する艦名です。

全長118.5m、全幅10.8m。

最大乗員数は239名で、排水量は2752トンです。

50口径12.7cm連装砲3基6門、96式25mm連装機銃2基4門、92式61cm四連装魚雷発射管2基8門、93式魚雷16本、94式爆雷投射基1基、爆雷投下台6基、爆雷16個を装備していました。

右舷側からの反跳爆撃による命中弾が機関室で爆発したため航行不能となりました。

この時機関長以下20数名が亡くなったそうです。

艦長の判断で注水弁を開き、自沈措置(意図的に船を沈没させること)がとられましたが沈没しなかったため、漂流を始めました。

3月4日に日本軍の九九式艦上爆撃機9機の爆撃により沈没を試みるも失敗に終わり、さらにs漂流を続けたのちアメリカ軍の爆撃機による爆撃で沈没することとなりました。

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