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エルトゥールル号

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エルトゥールル号。

この名前を聞いて、どこの国の船かお分かりになりますか?

正直に言うと、筆者には分かりませんでした。

今から132年前、トルコ共和国がオスマン帝国と呼ばれていた頃、日本は明治時代でした。

そんな時代に、アジアの西の果てから、遠い海をこえて日本にやってきた船、それがエルトゥールル号。

オスマン帝国の軍艦船の名前です。

もしかして…と、思い出して下さいましたか?

それでは、お話を始めましょう。

目次

エルトゥールル号・日本とトルコを結ぶキーワード

日本と、トルコ、この2つの国は、これで同じアジアかと思うほど、東西に遠く離れています。

その距離は、なんと9000キロメートル!

今は飛行機の直行便で(成田⇔イスタンブール)12時間ほどで行くことが出来ます。

昔は、船で海を越えていくしかありませんでした。

1800年に入ると、世界では海の交通が盛んになり、便利な船をつくる技術が目ざましく発展していきます。

それまでの自然の風力をいかした帆船(はんせん)から、蒸気でエンジンを動かす蒸気船に変わっていった頃。

1890年、アジア大陸の西のかなたより、はるばる日本を訪ねてきた一隻(いっせき)の船がありました。

それが、トルコの軍艦船・エルトゥールル号なのです。

日本とトルコのつながりー始まりは、明治時代

今から135年前、ちょうど日本は明治時代。エルトゥールル号が来日するより前の話。

現在の日本とトルコは、普通に親しい関係が結ばれています。

でも、始めは知らない国だし、言葉も違うのにどうやって?と、思いますよね。

遠くはなれた日本とトルコの、今に続く長いお付き合い、先にきっかけを作ったのは…?実は、日本なんです。

日本人で最初にトルコを正式に訪れたのは、日本の皇族・小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王殿下と頼子(よりこ)妃でした。

1887年に陸軍中将(ちゅうじょう)として欧米を視察した後で、トルコ(当時はオスマン帝国)のイスタンブールに皇帝・アブデュル=ハミト2世を訪問したのです。

日本からは尊敬と親しみをこめて、菊花紋の勲章が献呈されました。

これに対してきちんとしたお返しをしたいと考えたハミトニ2世は、日本に使節を送る事に。

今もそうですが、明治時代でも日本の皇族方が外交に貢献していたのです。

トルコの長い歴史・昔はオスマン帝国だった

トルコ共和国はアジアの最西端、地中海の東の沿岸にあります。

ちょうど、地中海と黒海のあいだに突き出た半島に、ひとつの国がおさまっているイメージでしょうか。

アジアはもちろんですが、アラブやヨーロッパなど、世界のさまざまな国と隣り合っています。

トルコ共和国は1923年に誕生した国ですが、その前は違う名前で呼ばれていました。

今のトルコよりも、ずっと長い歴史と広い領土を持っていた国、トルコはオスマン帝国と呼ばれていたのです。

ちなみに、エルトゥールル、という軍艦の名前は、オスマン帝国最初の皇帝・オスマン1世の父親の名前をいただいたものです。

まさに、オスマン帝国のシンボルだったのですね。

皇帝のメッセンジャー来日

オスマン帝国は、13世紀の終わりにできた国。

1923年にトルコ共和国に変わるまで、じつに600年もの長い歴史をもつ大国でした。

時代を下って1889年、日本に使節団を送ることを決定したのは、第34代皇帝アブデュル=ハミト2世(在位期間1876〜1909)

その治世時代のトルコ国内では、どんな事が起こっていたのでしょうか?

その当時のオスマン帝国は、国の内外に大きな問題を抱えていました。

国内では憲法を制定しようとする一部の知識人たちの動きだとか、反対者を許さない専制君主制はやめるべきだ、など手厳しい政治批判にさらされていました。

一方の国外では、ヨーロッパ諸国やロシアから圧力をかけられて財政も厳しく、戦争に負けるたびに領土がせまくなってしまったりと、周辺の国々になかば支配されつつありました。

もともとオスマン帝国は、イスラム教を根っこにして成り立った宗教国家です。

オスマン帝国は、一時は地中海の南北にまで領土を広げましたが、しだいに国としての勢力が衰えつつありました。

そんな状況を変えたいと、皇帝は考えました。

「我が国には、世界各地のイスラム教徒の中心的な存在、宗教大国としてのプライドというものがある」

そこで、日本に使節団を送る軍艦船・エルトゥールル号に国のメンツを賭けたのです。

表向きは日本との国交に向けて、軍事協定や貿易にかかわる通商条約を結ぶことが目的でした。

しかし、わざわざ軍艦船を仕立てて日本に行くのには、実はこんな理由がありました。

海路の旅の途中、インド洋で寄港(きこう=港に寄る)するのは、イスラム教徒の多いボンベイ(インド)やシンガポール(インドネシア)。

「美しいイスラム・カリフ(最高指導者)の船、エルトゥールル号がそれらの港を訪れたなら、彼らはこぞって出迎えてくれるはず、そして、イスラム教徒としてオスマン帝国に率いられている事を意識するだろう。植民地支配している英国だって、オスマン帝国はスゴイんだと思うにちがいない」

言ってみればー他国に大勢いるイスラム教徒をはじめ、ヨーロッパのライバル国に対して大見得(おおみえ)を張ろうとしたのです。

皇帝は日本へおくる使節団代表・オスマン・エミン司令官に、明治天皇に献上する親書と国交樹立(じゅりつ)に向けた日本政府との交渉役をまかせます。

1889年7月14日、オスマン帝国海軍・軍艦船、エルトゥールル号は、いよいよ日本を目指してイスタンブール港を出発しました。

痛ましい海の事故・そのいきさつは?

さて、ここからはエルトゥールル号、またはオスマン帝国の意地とプライドをかけた長い旅が始まります。

とはいっても、出発前の段階から問題が発生します。

皇帝から、日本に派遣する使節団・オスマン海軍の人事を任されたのは、海軍大臣ハサン・ヒュスヌ・パシャでした。

彼はまず、国の外交特使でもあるエルトゥールル号の司令官に、自分の娘むこである海軍士官、オスマン・エミンを任命したのです。

これを皮切りに自分の特権を使いまくり、重要ポストのほとんどが、自身が目をかけていた人材で固められました。

人材やその経験値もさることながら、ただでさえオスマン帝国海軍は海からの攻撃に対して守りが主体だったので、長い航海を危ぶむ声もありました。

それだけでも、大いに不安ですよね。

さらにもうひとつ、オスマン帝国初の日本行きには決定的な問題があったのです。

国を背負った軍艦船・実は、かなり古かった

オスマン帝国・使節団を派遣するために選ばれた軍艦・エルトゥールル号

この軍艦船は1864年、国内で造られた木造の蒸気機関船です。

全長79m、三本のマスト(帆柱)が立ち、大砲は21門、何度か軍事目的にも使われました。

しかし、1877年の露土(ろと)戦争(=ロシア・トルコ戦争)に従軍した時、オスマン帝国はロシアに敗戦。

その後はロシアと英国に黒海や地中海の制海権をとられたこともあって、軍事活動も限られました。

つまり、遠洋航海に出る軍艦船としては10年以上のブランクがあったのです。

日本へと派遣されるエルトゥールル号は建造されてから25年も経っている、言わば老朽艦だったのです。

明治政府の心配ーそんなに急いで帰らなくても…

オスマン帝国の使節団を乗せて出発したエルトゥールル号。

果たして、無事に日本へたどり着けるのでしょうか?誰もがその先行きを不安に思っていました。

その心配は、ズバリ的中します。

最初のトラブルは、イスタンブール港から地中海をわたってスエズ運河を南下する途中で起こりました。

なんと船尾の部分が運河の底にぶつかって、舵が壊れてしまったのです。

故障は深刻なもので、エルトゥールル号は修理ドック行きに。修理を終えてスエズ港を出発するまでに、2か月もかかりました。

災難はまだまだ続きます。

インドのボンベイに寄港して、イスラム教徒の大歓待をうけた後、シンガポールに向かっていた時のこと。

乗組員が軍艦の下甲板(げかんぱん=下の階)に海水がもれているのを発見しました。

調べてみると、こんどは船首(せんしゅ=船体の前部分)の壁に小さな穴があいていたのです!

穴をふさぐ事でなんとか浸水は止まりましたが、これはほんの一時しのぎに過ぎません。

1889年11月28日にシンガポールに到着するも、またもや修理ドック行きとなったエルトゥールル号。

本格的な修理に加えて、燃料をケチる…いえ、節約するために春まで南西風を待つ必要がありました。

本当は、エルトゥールル号を修理に出して別の船に乗りかえても良かったのです。

でも、皇帝はそれを絶対に許しませんでした。

「エルトゥールル号は、ボンベイやシンガポールでイスラム教徒の大歓待を受けたのだ。にもかかわらず、今さら自国の船を置いて他国の船で日本に行くと言う。そんな恥ずかしい事があろうか」

と、こういう訳

可哀想なエルトゥールル号はシンガポールで年を越し、何とかにムチを打つようにして再び出発したのが1890年3月22日。

トラブル続きの航海のはてに、ようやく日本にたどり着いたのは6月7日(横浜港到着)でした。

実に10か月と22日におよぶ、困難でロスタイムを重ねた長い旅だったのです。

明治23年、オスマン帝国・使節団を迎えた当時の日本は、江戸時代の長い鎖国を解き、開国したばかりでした。

単に髷(まげ)を切ってザン切り頭にしただけではありません。

西洋の技術・文化を積極的に学びながら取り入れて、劇的な進化を遂げていく真っ最中でした。

建築物や鉄道など、いたる所で西洋化がみられ、使節団は東京までの道中、英国製の蒸気機関車に乗りながら、和と洋が調和した日本の美しさに目をみはったことでしょう。

日本は、オスマン帝国から海路はるばるやってきた使節団を大いに歓迎し、丁重(ていちょう)にもてなしました。

使節団を代表する外交特使・オスマン司令官は、さっそく明治天皇に皇帝からの親書と贈り物を献上し、政府との交渉の席に着いたのですが…。

日本政府は、オスマン帝国との軍事協定に積極的ではありませんでしたので、後の文書で回答すると述べるにとどめました。

一方の通商条約についても両国が対等、ではなく西欧の英国やフランスが受けている特権を日本にも与えることが条件だと言われます。

オスマン司令官は他国との交渉のむずかしさを思い知るのでした。

毎日のように歓迎の式典や訪問を受けるなど、ひと通りの任務を終え、いよいよ帰りの日程も決まりました。

使節団は、日本出発の日を9月15日と決定しましたが、これを聞いた日本政府は、帰る時期が台風シーズン真っただ中であることを心配しました。

ちょうどそのころ、日本には台風が接近しつつあったのです。

運命の日ー1890年、9月16日

9月15日。

オスマン帝国・使節団が、日本を離れる日がやってきました。

軍艦エルトゥールル号は停泊していた長浦港(千葉県)から横浜港に移動、21発の祝砲を鳴らしました。

港湾に停泊する船舶(せんぱく)にむけて、そして日本への、お別れのあいさつをこめて。

ここでお話は出発前に戻ります。

日本政府としてオスマン帝国・使節団の接待を担当してきた丹波式部官は、オスマン司令官に忠告をしました。

帰国のタイミングに加え、エルトゥールル号が古い木造の軍艦であることも不安要素でしたので、充分な修理をしておくこともあわせて出発を延期するようにと。

しかし、使節団側にはどうしても外せないお国事情というしがらみがありました。

来日までの段階ですでに11か月も費やしており、予定もだいぶずれているのでその分予算も厳しい。

しかも本国からは、早々に帰ってくるようにと命令されていたのです。

オスマン司令官はさっそく会議を開きますが、台風がエルトゥールル号の航路に到達する前に大阪湾に入ることが可能だと計算します。

日本政府の親切な忠告にも背を向けて、あたかも帰ること前提で判断を下し、予定通り出発してしまいました。

そして、運命は一気に破滅へと向かって行くのです。

嵐の夜、失われた命・生き残った人々を、死なせてはならない

オスマン帝国軍艦船・エルトゥールル号はいよいよ故国にむけて出発しました。

まずは東京湾を出て、日本列島の太平洋側に沿って西へと進みましたが、しだいに雲行きが怪しくなってきます。

次の日の9月16日が明けると、天候は急変。

激しい嵐は高い波を呼び、猛烈な雨と共に襲いかかりました。

風向きが進路を邪魔して、一刻も早く大阪湾に入らなければならない軍艦を海岸線に押していこうとするのです。

夜には、暴風をまともに受けてメインマスト(帆柱)がへし折れてしまいました。

あとはエンジンだけが便り。

機関室は飲まず食わずで大忙し!

石炭をどんどん焚(た)いて艦のスピードをあげなくては、間に合わない。

しかし、こんな時にかぎって海水で機関室は水浸し。

最後の頼みの綱が、水蒸気爆発を引き起こし、必死の抵抗もむなしく、ついに軍艦は紀伊半島の熊野灘にさしかかってしまったのです。

熊野灘海岸の先ぶれ、紀伊大島の岬は海の難所、いたるところ岩礁だらけの危険な海域。もはや、コントロールのすべを失ったエルトゥールル号は、台風のなすがままでした。

もはやエルトゥールル号を、誰もどうすることも出来ません。

軍艦は紀伊大島の岬の下、ここは古くから船乗りの間で恐れられ、船甲羅(ふなごうら)の異名をもつ岩礁群です。

その歯牙(しが)に叩きつけられた軍艦は、真っ2つ!

もの凄い爆音で船体がバラバラに砕け散るなかで、破片に巻き込まれ、絶命していく乗組員たち。

オスマン帝国軍艦・エルトゥールル号は、587名もの尊い命と共に、海の底へと沈んでいったのです。

海の難所ー紀伊半島の出島、大島村

本州最南端の紀伊半島は、海道のターニング・ポイント。

同時に、今も台風銀座と呼ばれるほど、台風の通り道として知られています。

エルトゥールル号が紀伊大島の東端、樫野埼灯台付近で遭難したのが9月16日21時30分ごろ。

その時大島村の人々は、台風の嵐の中で起こった海難事故のことなど、ほとんど知る由もありませんでした。

国に言われなくともーまずは、村が動いた

沈没したエルトゥールル号からのがれ、命からがら岸に泳ぎ着いた乗組員たち。

とにかく助けを呼ばなければ…と、すぐさま行動に移します。まずは動ける者たちだけで、岬の上にある灯台まで高さ40メートルもある崖をよじ登りました。

その夜、樫野崎灯台に泊まり込んでいた灯台守は、嵐の夜に突然やってきた外国人に驚きました。

しかし、彼らがズブ濡れの裸に近い状態でケガを負っているのを見て、すぐに何が起こったのか分かりました。

灯台守は、近くの樫野地区に伝令を出し、これを受けた樫野区長・斎藤半之右衛門が、村民を動員して救助活動にのりだします。

当時は車や電話もない時代ですから、島内での移動や伝達は船のほかは全部人力のフットワーク、そして判断力がものを言ったのです。

樫野区長は、島の西側の大島地区(村役場がある)にいる村長・沖周(おき あまね)に使いを出して、救助活動の支援を要請しました。

翌朝、樫野区長は岬の下の事故現場に駆けつけましたが…。

そこには、目を疑うような地獄の光景が広がっていました。

嵐の去りやらぬ、波立つ海面には何人もの遺体が浮かんでいたのです。

遭難した船は形も残らぬほどに崩壊し、破片が辺りを埋めるように散乱していました。

そんな中、岬の崖下でも奇跡的に乗組員が生存していましたが、ほとんどの人が負傷している有り様でした。

そこで、若者が負傷者を背負って陸に上がったのですが、オスマン人は日本人よりも体が大きかったので、一人ではとても無理でした。

オスマンの人々を、故郷へ

熊野灘の海難事故としても過去に類を見ない、500人もの死者・行方不明者を出したエルトゥールル号の遭難事故。

この事態の初動にあたったのは、事故現場の紀伊大島(大島村)・樫野地区の村民でした。

そして、樫野区長より通報を受けた大島村の村長・沖周(おきあまね)も、即座に行動を開始します。

沖村長は樫野地区に収容していた乗組員を、村の中心である大島地区に移しました。

そこなら食料などの物資を調達しやすく、ゆとりある治療や看護を行えるだけの広さをもつお寺もあったからです。

お寺(蓮生寺)では乗組員一人ひとりを番号札で把握できるようにして、それをもとに常時詰めている村民が受け持ちを決め、生活の世話や看護を行ったのです。

また、ケガの程度に応じて負傷者をトリアージしておくことで、まんべんなく必要な処置ができるしくみを作りました。

さらに遭難事故現場の捜索とあわせて、遺体の収容と身元の確認・埋葬を行うなど、仕事は山ほどありました。

大島村民からのバトンーもはや、国をあげての問題

エルトゥールル号遭難事故の救助活動は、村内の他地区(大島・須江)にも支援の輪が広まっていきましたが、人口わずか2078人(1889年/明治22)の大島村としては、大変な負担であったことでしょう。

大島村の村長・沖周は、遭難事故の翌朝(9月17日10:30)に知らせを受けて以降、村としての救助活動を指揮してきました。

その一方で、国や和歌山県、大島村が属する東牟婁郡など関係部署への報告義務も怠りませんでした。

ちょうどその時、大島港には防長丸という汽船が、台風を避けて寄港していました。

沖周はこのチャンスを生かそうと、防長丸の渋谷船長に乗組員2名と村役場の職員、警察巡査を神戸まで同乗させることを依頼します。

各国の領事館がある神戸で、兵庫県知事を通じオスマン帝国の出先機関に連絡できる可能性を模索しますが、その当時は日本との国交が無かったため、同国の領事館はありませんでした。

しかし、9月18日に神戸に到着した防長丸は、兵庫県庁と神戸警察の聴取を受けるかたちで通報の義務をはたします。

こうしてエルトゥールル号遭難事故は、兵庫県知事・林董(はやし ただす)の知るところとなり、電報で宮内省に通報されたのでした(9月19日2時05分)。

一方の沖村長も東牟婁(ひがしむろ)郡長、和歌山県知事に

電報にて通報。これを受けた同知事が国の関係省(内務省と海軍省)に電報で通知(9月19日1時30分)しました。

神戸と共に、東京もこの事故を知ることになり、そこからの国の対応たるや、あっという間の早さだったのです。

明治天皇の指揮ーすばやいご対応と細やかなお心配り

9月19日が明け、宮内省よりエルトゥールル号遭難の報告を受けた明治天皇は、すぐさま関係機関に指示を発せられました。

宮内省からは、丹波式部官(オスマン帝国・使節団を接待)と侍医に日本赤十字社の医師と看護師を合わせた10名と外務省職員1名を神戸経由で現地に派遣しました。

一行はすぐさま必要な物品を用意して当日16時45分・新橋発の東海道本線急行で東京を出発、神戸に向かったのです。

海軍省も天皇陛下の命をうけて、軍艦・八重山(やえやま)を紀伊大島に派遣しました。

八重山は、生存者を東京の病院に搬送するという使命を担っての出発となります。

そして、いずれの省庁からも、オスマン帝国政府や領事館に電報を送り、弔意を表しました。

日本の力ー国の船で、故郷に送り届けよう。

日本海軍船艦が、エルトゥールル号遭難事故により奇跡的に生還した乗組員69名を乗せて、故国・オスマン帝国に送り届けることになりました。 

当初、日本はオスマン帝国と国交を結んでいなかったため、「そこまでしなくてもいいのでは」という雰囲気もありました。

でもライバル国・ロシアが軍船を出そうと申し出てきており、そんなのに、おいそれと乗っかるわけにもいきません。

そもそもの話、国が海軍軍艦・八重山を派遣して紀伊大島にいる生存者を東京の病院に搬送しようとしたら、たまたま神戸港に停泊していたドイツの軍艦・ウオルフ号に先を越されてしまったんです。

「今度もまた、よその国に”助け船”を出させるのか」

日本が自国軍の艦船で生存者を故国・オスマン帝国に送り届けるべきだとする世論が、新聞を通じて国内でも高まっていきました。

そんな世論の後押しは、ついに国をも動かします。

結果的には9月26日、政府は海軍艦船・金剛と比叡でのエルトゥールル号遭難事故の生存者・送還を正式に決定したのです。

1890年10月11日、生存者69名はいよいよ本国に向けて、療養で滞在していた神戸を出発しました。

日本の船艦は、オスマン帝国・使節団が来日までに11ヵ月もかかったのがウソみたいな速さで海を越え、なんと神戸を出港して3ヵ月後の1891年1月2日(明治24)にオスマン帝国・イスタンブールに到着したのです。

日本とトルコを遠ざけるもの 

紀伊大島沖でオスマン帝国・使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が遭難した1890年以降、大島村の人々は、異郷の地で帰らぬ人となった殉難者を慰霊してきました。

翌年(1891)の2月には墓地の敷地内に「土国軍艦遭難之碑」と刻まれた墓碑が建てられます。

村民たちはお参りをするたびに事故の悲惨さを、その救護に尽くした先人の功績をも想い起こして、胸がいっぱいになったと言います。

そして、彼らが永久に眠る、海を前にした墓所を掃き清め、大切に守ってきたのです。

オスマン帝国の600年が終わるートルコ共和国の誕生

オスマン帝国は、建国以降はずっと専制君主制の帝国主義を通してきており、イスラム教をもとに身分階級が決められていました。

さらに国の領土を広げるための戦争が、税金収入を軍事費に充ててしまうことになり、国内の経済事情を圧迫していきます。

現に同国が日本に使節団を派遣したときも、予算は非常に苦しい状態でしたし、すでに国自体が衰退に向かっていました。

また、東隣りのロシア帝国には戦争で敗北しており、始終その脅威にさらされていました。

なので、日本が日露戦争でロシアに勝った時も「日本が我が国を救ってくれた」という、感謝の思いを抱いたと言われます。

しかし、脅威はそれだけではありません。

西欧の英国やフランスなどの連合国も、インド洋などの海路はもとより、第一次世界大戦後はドイツ側について敗戦したオスマン帝国内の主要都市を武力で占領していきます。

このまま領地を取られては国が分解してしまう、という危機感のもと、ムスタファ・ケマル・パシャは祖国解放戦争をおこし、これに勝利して連合国を撤退させました。

これがもとになって、国内に2つあるイスタンブールとアンカラの両政府がローザンヌ講和会議に招集されます。

1922年11月、アンカラ側のケマル・パシャ政府がスルタン(王)制の廃止を宣言したことで皇帝メフメト6世は国外に逃亡。

623年にわたって続いてきたイスラムの国・オスマン帝国は、その歴史に名を残して消滅したのでした。

ケマル・パシャはローザンヌ条約を結び、翌1923年10月にトルコ共和国の建国を宣言します。

そして初代大統領に指名され、オスマン帝国時代の古い階級制度などを次々に廃止、新たな国づくりに着手していきました。

第一次世界大戦では、敵にまわったトルコ

日本とトルコは、両国の間だけなら国民レベルで友好的な関係ができていたと思うのですが…。

しかし、第一次世界大戦(1914-18)は日本が連合国側(ロシア・イギリス・フランス)につき、オスマン帝国は同盟国側(ドイツ・オーストリア)についたため、あろうことか敵同士になってしまいました。

イスタンブールに移住した山田寅次郎は既に拠点を日本に戻しつつ、両国の行き来を繰り返していましたが、戦争のために退避せざるを得なかったのです。

初来日は明治時代。足かけ35年の結着

1890年ーオスマン帝国・使節団が軍艦エルトゥールル号で来日してから、35年が経過した1925年(大正14)。

日本と新生・トルコ共和国は正式に国交を結びました。

オスマン帝国が600年の歴史に終止符を打ち、トルコ共和国に生まれ変わったのが1923年。

政治と宗教を切り離して、新たに名を変えた国のはじまりが、日本とトルコの国交成立に至る過程において大きな転換モードになったと言えるでしょう。

ムスタファ・ケマル・パシャは、トルコ共和国初代大統領に指名され、名前をケマル・アタテュルクと改めました。

アタテュルク、とは「父なるトルコ人」を意味する称号。

国会より贈られたその名こそ、トルコ共和国・建国の父にふさわしいものでした。

後の1931年(昭和6)、山田寅次郎が日土貿易協会理事長としてトルコ共和国を20年ぶりに訪れた際、友人やエルトゥールル号遭難者の家族らの歓迎を受けるとともに10月29日、首都・アンカラで開かれた共和国記念式典に出席しました。

この時面会したアタテュルク統領は、かつてのオスマン帝国時代、寅次郎が士官学校で日本語教師をしていた頃の教え子であったことを明かしたのです。

エルトゥールル号遭難事故をきっかけに、日本とは国交のないオスマン帝国に単身移住することになった山田寅次郎。

その稀有(けう)な人生において最後のトルコ訪問は、彼にとって特別に感慨深いものであったことでしょう。

彼が居住していた頃のオスマン帝国とは打って変わり、ずいぶんと近代化されたのでしたがー。

別の見方をすれば、寅次郎がイスタンブール在住時にまいた種が芽吹いて花開き、実を結んだ姿であったとは言えないでしょうか?

日本とトルコの国交は結ばれ、しかも寅次郎が異国の地で築いた人脈は変わることはありませんでした。

古き良き友人たちは、20年来の再会に感激し、彼を温かく迎えました。

時代は移っても、常に根底にあって変わらないものがあります。

人と人のつながりー。

それは、変わらないだけではなくて、次の時代に伝えられて行くものだという事を、後の時代の人々は知ることになるのです。

95年前の恩を忘れない

~日本の危機を救ったトルコのDNA~

明治から、大正・昭和。

激動の時代をこえて太平洋戦争が終結し、日本は平和な国家となりました。

でも、まだ世界から争いが無くなったわけではありません。

1985年、にわかに激しさを増してきたイラン・イラク戦争は、周辺各国のみならず、やがては日本にも大事件となって降りかかって来ました。

イラン・イラク戦争ーフセインの恐ろしい警告

1980年に勃発(ぼっぱつ)した、イラン・イラク戦争。

すでに昔から、よく似た国名の両国は仲が悪く、常に争いが絶えませんでした。

民族の違い(イランはペルシャ人、イラクはアラブ人)がもとで紛争がたびたび起こっていたところへ、土地の領有権(チグリス・ユーフラテス川の合流域)をめぐっての対立が激化。

イラク空軍の先制攻撃が口火を切り、ついに戦争がはじまったのでした。

イラクのフセイン大統領は、早い段階でイランを抑える必要がありました。

なぜなら、1979年のイラン革命で亡命先から戻ってきたホメイニ師が最高指導者の座に就き、イスラーム法をかかげての宗教国家づくりに着手したからです。

イスラム教の宗派ではシーア派に属するホメイニ師。

シーア派がイランの実権をにぎると、イラク国内のシーア派(住民の60%)を刺激することになる。

それはスンニ派のフセイン政権を揺るがしかねない、大問題だったのです。

イラン・イラク戦争は、先にイラクが攻撃を仕掛けたものの、イランの抵抗もあってなかなか決着がつきません。

1985年3月、しびれを切らしたフセイン大統領は一時の合意を破り捨てて、イランの5都市を空爆しました。

これにはイランもたまりかねて報復せざるを得ません。

攻撃に報復が繰り返されるなか、ついには両国の首都にまで攻撃が及びます。

当時、イランの首都テヘランには大使館を含む商社や銀行などのビジネス関係者やその家族など、約800人が在留していました。

とくにテヘラン北部は国営テレビもあり、ホメイニ師の居住している区域でもあるため、イラクの攻撃のターゲットにされてしまいます。

つまり、住民の居住する区域にまでミサイルが飛んで来る、非常事態となったのです!

3月16日、イランの日本大使館は在住日本人に同国の出国を勧告します。

1985年の時点で、日本の航空会社はテヘラン発着の国際定期便を持っていませんでした。

したがって、日本人がイランを出国するには外国の航空便をつかうことになります。

ところが、前もって航空券を取ってあったにもかかわらず、戦争のために運航中止になってしまうケースが続出。

外国の航空便が自国民を優先することもあって、他に帰国手段を持たない在留日本人は、圧倒的に不利な状況に立たされました。

さらに追い打ちをかけるように、イラク大統領・フセインの口から恐ろしい警告が出されるのです。

3月17日、イラク政府が出した声明は、次のようなものでした。

「今から48時間後の3月19日20時30分をもって、イラン領空を航行禁止とする。禁を犯した飛行機はすべて攻撃対象とする」

命の危険が迫ってくるーイランを出られない!

フセインの最後通告は、イラン在住の外国人に大パニックを引き起こしました。

事態はタイムリミットに向かって、その秒針を刻み始めたのです。

もはや、一刻の猶予(ゆうよ)もありません。

テヘランに駐在していた日本の大使館はすぐに行動を開始しましたが、思うようには事が運ばず、次第に手詰まりになっていきます。

本国の外務省は、当初日本航空のジャンボジェット機を救援機として手配しようと準備にかかりました。

しかし、安全な航行の確約を(イランには確約を取れたが)イラクから取り付ける事がかなわず、外務省の後手の判断もあって時機を逃してしまいます。

結局日航機の派遣は断念せざるを得ませんでした。

もはや、現地対応で何とかするしかない。

野村豊駐イラン大使ら大使館職員は、テヘランに航空便を持っている国の大使館と航空会社すべてに交渉し、航空券の確保に努めますが、確保できたのは数十人分。

どこの国も、自国民以外を飛行機に乗せるだけのゆとりは持ち合わせていなかったのです。

3月18日夜の時点で希望者を全員出国させるには、あと215座席足りない状況でした。

出来ることはすべて、やり尽くしたが…あとひとつだけ、手段がある。

野村大使は、最後の望みに一か八かの命運をかけたのでした。

今こそ、日本のためにートルコの心に、宿るもの

3月19日。

ついに運命の分かれ目ーイランの領空を航行できる最後の日が訪れました。

テヘランのメヘラーバード国際空港は、出国最終便に乗るべくやってきた1000人もの外国人乗客であふれかえっていました。

その混雑のなかには、外国の航空便での帰国可能者をのぞく215名の日本人の姿があります。

そして、日本の大使館員も彼らの出国を見届けるべく、空港に出そろいました。

お話はここで3月18日ーすなわち、イラン領空の航行リミットの前夜に戻ります。

もはや打つ手も使い果たし、困り果てた野村大使は、ある人物に相談を持ち掛けました。

その人物とは、野村が日頃親しくしていたイラン駐在トルコ大使・イスメット・ビルセル。

そのビルセルに対して彼は、在住日本人を乗せるための飛行機をもう1機、トルコ本国にお願いできないかーなんとか日本人を救いたいのだと、必死に訴えたのです。

このような、人脈を活かした対話の交渉は国の出先機関だけではありません。

ちょうどその頃、トルコのイスタンブールに伊藤忠商事の社員・森永堯(もりなが たかし)が在住していました。

こちらは東京の本社からの指示ですが、なんとトルコのオザル首相に直接連絡をとり、トルコの航空会社から救援機を出してもらえるようにお願いしたのです。

これは会社がムチャ振りをしたのではありません。

オザル首相と森永は親友であり、オザルが政界入りする以前、トルコで農業機械を生産するために、森永が日本のメーカーの技術協力を仲介したことがきっかけでした。

野村豊駐イラン大使と伊藤忠商事の森永堯。

この2人がそれぞれの人脈を通じて、最終的にはトルコのオザル首相を動かします。

トルコは、日本人を出国させるために、19日に予定されていたトルコ航空の定期便にプラスして救援機を追加することを決定。

こうして2機のトルコ機は3月19日の午後、イスタンブール空港を出発しました。

安全策をとって飛行ルートを回り道したり、イランの運航・着陸許可がなかなか下りなかったりでタイムロスするも、前後してメヘラバード空港に到着。

燃料補給をすませて17時10分、第1便(日本人198名)が離陸、続く第2便は着陸許可の遅れが響きました。

第2便(日本人17名)がようやく着陸して再び離陸したのは19時30分。

20時30分のタイムリミット1時間前のことでした。

イランートルコ国境にそびえるアララット山(標高5165m)を越え、トルコ航空最終便がイスタンブール空港に到着した時にはすでに設定時刻を過ぎていました。

まさに命がけの脱・イラン大作戦だったのです。

こうしてイラン在住日本人215名は無事にイランを出国し、帰国を果たしました。

日本人の絶体絶命のピンチ。

これを救うべく立ち上がったトルコ人の心には、何が宿るのでしょうかー。

国籍や立場をこえて互いを信頼・尊敬しあう、人と人との対等な友人関係。

もちろん、これも大切ですが、彼らの心の奥底には常に存在し続け、いつかは果たされるべきものとして常に秘めていたものがありました。

エルトゥールル号の遭難事故・まとめ

それは、95年前のトルコ人が日本人から受けた恩を、日本人に返礼するという事だったのです。

1890年9月16日のエルトゥールル号遭難事故。

最初にこの記憶を語り伝えた先人たちがいて、親から子、そして孫というようにーあるいは人から人へ。

世代も時代も越えて、未来に生まれるであろう次世代へと受け継がれていったのでしょう。

そして今を生きる心の大切な要素ー遺伝子(DNA)として織り込まれていったとは言えないでしょうか?

【参考文献・参考サイト】

『東の太陽、西の新月 ー日本・トルコ友好秘話 エルトゥールル号事件ー 』著:山田邦紀 坂本俊夫 現代書館

『トルコ軍艦 エルトゥールル号の海難』著:オメル・エルトゥール 彩流社

『明治の男子は、星の数ほど夢を見た。ーオスマン帝国皇帝のアートディレクター山田寅次郎ー』編著:和多利月子 産学社

『海難の世界史 交通ブックス213』 著:大内健二 成山堂書店

『一冊でわかるトルコ史』 著:関 眞侯 河出書房新社

『エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ心の物語』著:寮 美千子

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