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国王フェリペ2世を徹底解説!「太陽の沈まぬ帝国」といわれたスペイン最盛期

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こんにちは!皆さんはフェリペ2世という人物をご存知ですか?

彼は16世紀スペイン王国の国王です。

あまり知られていないかもしれませんが、16世紀のスペインは世界中に領土を持つ覇権国家だったのです!

そんなスペイン最盛期に君臨した国王こそがフェリペ2世です。

今回は、彼がどのような国王であったのか、しっかり解説したいと思います!

目次

スペイン最盛期の国王フェリペ2世とは

引用元:Wikipedia

フェリペ2世が収めたスペイン王国とはどのような国だったのでしょうか?

この時代のスペインの領土は、今日のスペインがあるイベリア半島だけでなく、オランダやベルギーがあるフランドル地方、南イタリアやラテンアメリカの多くの植民地も含まれていました。

地図で見るといかに広大な地域を治めていたかがわかります。

これらの土地は、父親であるカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)から受け継いだものでした。

また、帝国と呼ばれたスペインの影響力は地理的なものだけではありませんでした。

16世紀のスペインは世界の覇権を握っていた⁉

まさに「帝国」とうたわれたスペインですが、正確にはスペインは帝国ではありませんでした。

先代であるカルロス1世は神聖ローマ皇帝であったのに対して、フェリペ2世は神聖ローマ皇帝の地位を継承しませんでした。

フェリペはスペインの歴代君主が獲得してきた領土の、それぞれの国王を兼任しているだけでした。

カルロス1世が死去した際に、神聖ローマ帝国の帝位はカルロス1世の弟に継承されました。

カルロス1世の時代と異なり、神聖ローマ帝国の一部に含まれなくなったスペイン。

しかし、この時代に最も豊かな土地のひとつであるフランドル地方を有し、世界最強といわれたスペイン艦隊アルマダも有していました。

そして時は大航海時代!

ラテンアメリカからは、大量の銀や産品が運ばれ、スペインの港は大西洋貿易により大いに繁栄したのです。

それに加えて、カトリック君主国としての宗教的な影響力もありました。

事実上は帝国ではありませんでしたが、それはまさに帝国と呼ばれるほどの繁栄でした。

そんな16世紀スペインの国王フェリペ2世は、どのような人物だったのでしょうか?

フェリペ2世は書類王?慎重王?南の悪魔?

彼を形容する呼び名はたくさんあります。

人生の多くの時間を領土内の移動に費やした先代カルロス1世とは異なり、フェリペ2世はスペイン国内にとどまることを好みました。

今日のスペインの首都であるマドリードは、実はフェリペ2世が帝都に定めたのです。

自身の執務室で、日々世界中の領土から送られる書簡に目を通し、国家運営を行いました。

そんな姿から彼に着いた呼び名は、書類王

他にも彼の思慮深い性格から慎重王とも呼ばれます。

そして、スペイン帝国と対立するオランダやフランス、イギリスでは人々から恐れられ「南の悪魔」といわれました。

フェリペ2世に対する見方は、今日も様々なものがあります。

16世紀スペイン史を通して、皆さんに少しでもフェリペ2世という人物について関心を持っていただけると幸いです!

国王フェリペ2世の一生

1527年5月21日にフェリペはバリャドリードという町で生まれます。

父親であるカルロス1世は領土の各地を移動し、多くの戦いに明け暮れていたので、彼を育てたのは母親や女官たちでした。

しかし、フェリペを立派な国王にすべくカルロス1世は様々な指示を出し、フェリペに帝王教育を施しました。

この時代に君主に求められたのは、敬虔なカトリック教徒になることや、騎士道精神を持つことなどでした。

そしてフェリペはカトリック的価値観を持ち、しっかりと成長していきます。

簡単に説明すると、自己を抑制し、神に対し畏敬の念を持ち、異教徒に対し厳しい姿勢で臨む、そんな国王になることを望まれていたんです!

若き国王の誕生

1556年、カルロス1世は戦争に明け暮れる日々に疲れ果て、退位を決意します。

このころのスペインは、地中海でイスラーム教の大国オスマン帝国と争い、隣国フランスとはイタリアをめぐって争い、はたまた自国の領土内では宗教改革により生まれたプロテスタントと争っていました。

広い領土を持っている分、周りは敵だらけで、管理すべき土地も膨大だったのです!

しかし戦況の悪化で、帝国内にいたプロテスタント達に部分的でありますが信仰の自由を与えることになってしまいます。

その結果から、カルロス1世は失意の中で退位したのでした。

そして、宗教改革の影響が少なく内政が安定したスペインやイタリア、貿易や商業で栄えたフランドル地方を息子であるフェリペに相続したのです。

フェリペがフェリペ2世として即位した翌年である1557年、以前からの宿敵であったフランスにサン・カンタンの戦いにて勝利をおさめます。

勝利によってフランスとの長年の敵対関係を解消することに成功し、スペイン優位な条約も締結しました。

また、フランス王家から妻も娶ります。

フェリペにとってこの結婚はすでに3度目だったのですが、それについては後でご紹介いたしますね!

そして、この勝利を記念して新たにエル・エスコレアル修道院が建設されます。

修道院の他に、図書館や王室の霊廟などもあり、今日では世界遺産にも指定された場所です!

フェリペもここで多くの時間を過ごしました。父カルロスと異なり、ひとつの場所に定住することを好んだフェリペ。

この時、帝都をマドリードという場所に定めます。

以前は小さな町に過ぎなかったマドリードは、帝都が作られることで大いに繁栄しました。

しかし、そんなフェリペに新たな問題が浮上します。

オランダ独立の危機

当時、フェリペが統治していたフランドル地方は、商業で大いに栄えていたところでした。

しかし、そんなフランドル地方で即位当時からフェリペに対する反乱の動きがみられました。

理由はたくさんあります。

まずは、プロテスタントが多く居住しているという宗教的理由。

それに加えて、父カルロスと異なりフェリペはスペイン語しか話せませんでした。

ネーデルラント語を話す現地貴族との円滑な関係を維持することが困難だったのです。

また、スペイン本土の財政難をフランドル地方への増税で解決しようとしました。

それに加えて不作も重なり、フランドル地方の貴族や民衆はフェリペに対して不満も募らせ、反乱は徐々に拡大していきました。

鎮圧を試みたフェリペでしたが、うまくいかず戦争は泥沼と化しました。

このオランダ独立戦争といわれる反乱は、1567年から80年間も続きます。

敬虔なカトリック教徒であるフェリペにとって、異教徒の王となるのは耐えがたく、弾圧する以外に選択肢はなかったように思えます…

地中海での勝利

世界各地に領土を持つということはそれだけ守る土地も多いということです。

フェリペ2世は父親のように自らが戦場を駆け回ったわけではありませんが、彼の治世もほぼ常に領土のどこかで戦いが行われていました。

1571年10月、当時地中海の覇権を争っていたオスマン帝国と、レパントの海戦と呼ばれる戦いで対決します。

有名な小説「ドン・キホーテ」の著者であるセルバンテスもこの戦いに参加していたんですよ!

結果、犠牲を出しながらもスペインの勝利に終わります。

この時、スペインの艦隊は無敵と呼ばれたオスマン艦隊を破り、世界にその名をとどろかせました。

以後、スペイン艦隊は無敵艦隊アルマダと呼ばれるようになります。

しかしこの勝利は、栄誉とは裏腹に高額な戦費がスペインを苦しめ、オスマン帝国へのダメージも想像以下でした。

地中海をオスマン帝国の支配下から完全に開放することは出来ませんでした。

ポルトガル併合

とは言っても、オスマン帝国に勝利したスペイン。更に、スペインが勢力を拡大する出来事もありました。

イベリア半島内の隣国ポルトガルで後継者問題が起きます。

そして1580年、血縁関係によりフェリペがポルトガル王を兼任することになったのです!

ポルトガルは大航海時代をけん引した海洋国家で、アジアなどに多くの植民地を持っていました。

それらの植民地もすべてフェリペの統治下になったのです。

いつ何時も世界中にある領土のどこかは太陽に照らされている、「太陽の沈まぬ帝国」スペインが誕生しました!

この時スペインは絶頂のさなかにあったと言えます。

しかし、それと同時に度重なる戦争で国庫は何度も破綻を繰り返し、スペイン国内でも重税に苦しむ民がいました。

栄光の陰で今後の課題がいくつもフェリペにのしかかっていたように思えます…

新たな強敵イギリス

1585年以降、以前から続いていたオランダ独立戦争にイギリスが公然と支援を行うようになりました。

イギリスは当時、女王エリザベス1世が統治していました。

イギリスは、大西洋の富を独占していたスペインを以前から直接的ではありませんが、攻撃していました。

またエリザベス1世は、宗教的にもプロテスタントに近いイギリス国教会であったため、カトリックであるフェリペと敵対していました。

オランダ独立戦争の泥沼を打開するにはイギリスと直接対決する必要があると考えたフェリペは、イングランドに艦隊を派遣することを決定します。

1588年、無敵といわれた大艦隊はスペインからイングランドに向けて出航しました。

しかし、アルマダの海戦と呼ばれるこの戦いでスペインはなんと敗北してしまったのです!

イギリスの機動性の高いイギリス艦隊に苦戦したことや、思うように物資や人員を補給できなかったこと、総司令官が出航直前に急死し、新たな司令官は経験不足だったことなど、様々な要因が挙げられます。

そして、長い帰路の途中の悪天候や食糧不足などにより、スペインに到着する頃には艦隊の数は大幅に減ってしまったのです。

この無敵とうたわれた艦隊の敗北は、スペインの威信を大いに傷つける出来事となりました。

この戦いの後に、艦隊はすぐに再建され、その後も他国にとってスペイン艦隊は脅威であり続けましたが、この敗北はスペイン人にとってとても大きな損失でした。

その後の歴史を考えると、イギリスはますます力をつけ勢力を拡大する一方で、スペインはその後急激に衰退していきます。

この戦いはある意味、その繁栄と衰退の始まりを表すような出来事になってしまったのではないでしょうか…

アルマダの海戦があった1588年、フェリペはすでに61歳になっていました。

彼は、1598年に71歳でこの世を去ります。

この時代では、かなりの長寿だと思いませんか?

晩年は持病の通風が悪化したため、彼のために考案された車いすに座り、書簡に目を通して公務を行っていたそうです。

死去する四年前には事細かに綴られた遺書も作成しました。

人生の最後を迎えるまで公務に励んだ国王だったのです。

ここが面白いっ スペイン史!

フェリペ2世時代のスペインの歴史をご紹介しましたが、いかがでしたか?

最後に、彼自身の人生についてもう少しご紹介しますね!

四回も結婚した男

四回も結婚というと、妻が四人も⁉と思うかもしれませんが…

フェリペは四回も妻に先立たれてしまった男だったのです。

1543年、フェリペが16歳の頃に、同い年のポルトガル王女マリア・マヌエラを妻に迎えます。

しかし2年後、彼女は男の子を出産した数日後に亡くなってしまいます。

フェリペの2度目の結婚は、ブラッディ・メアリーの名で知られるイギリスのメアリー1世です。

結婚当時、メアリーはフェリペの11歳年上の37歳。

メアリーは年下のフェリペのことをしっかりと好いていましたが、フェリペの方は政略結婚としか思っていませんでした。

あまり積極的にメアリーのもとを訪れなかったようです。

そしてメアリーは、結婚後に妊娠したかと思われましたが、それは想像妊娠であったことに加え、41歳の時に卵巣腫瘍によりこの世を去ります。

彼女にとって結婚生活はあまり幸せではなかったかもしれませんね…

メアリーの後を継いでイギリス女王になったエリザベス1世は、カトリックであったメアリーと異なり、イギリス国教会を信仰していました。

そのためメアリーの死後、エリザベス1世はフェリペ2世と激しく対立することになりました。

そして、フェリペにとって3度目となったのが、1560年にフランスからやってきたイサベル・デ・ヴァロワです。

当時、イサベルは13歳!フェリペは33歳!今ではあり得ない状況ですが、夫婦仲はとても良好でした。

フェリペはイサベルをとても大切にしていたそうです。

後にイサベルは二人の娘を出産しました。

二人の娘は、フェリペが亡くなるまで良き娘としてフェリペを支え続けたそうです。

しかし1568年、イサベルは出産の際に亡くなってしまいます。彼女の死はフェリペにとって、とても辛い出来事となります。

以後フェリペは黒装束で過ごすことが多くなり、性格も以前より悲観的になったそうです。

エル・エスコレアル修道院に引きこもりがちになってしまいました。しかし、彼には1つ大きな問題が残っていました。

1人目の妻が生んだ息子が死去したため、世継ぎの王子がいなかったのです。

その理由から、フェリペは1570年にアナ・デ・アウストリアと結婚します。

なんとこの2人、姪と叔父の関係だったんです!

この時代の王家では、王位継承をより安定的に行うため、近親婚はあまり珍しいことではありませんでした。

彼女は明るい性格で、フェリペに再び平穏な日々をもたらしました。

そして、彼女の息子は後にフェリペ3世として即位します。

しかし1580年、フェリペのポルトガル王即位間近にアナは流行り病で命を落としてしまいました。

そして、フェリペはもう2度と再婚することはありませんでした…

黒い伝説

平穏な私生活というわけではなかったフェリペ2世ですが、世界の人々は彼をどのようにみていたのでしょうか?

帝国と呼ばれた輝かしいスペインの国王でしたが…当時スペインと敵対する勢力からフェリペは憎まれ、恐れられていました。

先に少しご紹介しましたがそのような国からフェリペは「南の悪魔」と呼ばれていました。

そしてその時代に作られたのが、黒い伝説といわれる反スペインや反カトリックのプロパガンダ的な伝説です。

特にスペインと敵対したイギリスやオランダでは黒い伝説が多く語られました。

具体的に黒い伝説では、スペインは専制的であり、残酷な、そして不寛容な国であるといわれます。

この解釈は、カトリックによる異教徒に対する厳しい弾圧や、アメリカ大陸で行われた先住民に対する残虐な支配などによるものです。

実際に、そのような弾圧や支配をスペインは行いましたが、誇張や捏造も多く存在します。

そしてこの伝説は16世紀から何世紀もの間、反カトリック、反スペインのプロパガンダとして使用されました。

その結果、今日のフェリペ2世に対する歴史解釈にも大きく影響を与えました。

最近ではフェリペ2世に対する歴史解釈はこの黒い伝説の影響を受けているとして、再解釈も進んでいるそうです。

思慮深く慎重な性格を表して慎重王と呼ばれる一方で、残虐さや不寛容さを表して南の悪魔と呼ばれたのでした。

一人の人間が治めるにはあまりにも莫大な領土を手にした国王フェリペ2世。

彼に対する評価や解釈はいまだ定まらない部分がありますが、皆さんはフェリペ2世に対しどのように思いましたか?

国王フェリペ2世を徹底解説!まとめ

16世紀スペイン帝国のフェリペ2世についてご紹介しました!

スペイン最盛期の国王の一生はいかがでしたか?

この時代特有の強い宗教的な対立や、大航海時代によりグローバル化、目まぐるしい変化があった16世紀。

筆者はこの時代を生きたフェリペ2世は、広範囲に及ぶ王国の統治に向き合い続けた思慮深い国王であったのではないかと考えています。

皆さんがフェリペ2世やスペインの歴史について少しでも興味を抱いてくださったなら幸いです!

それではまた、次回の記事でお会いしましょう!

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