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第2次世界大戦とは?わかりやすく解説!敗戦で日本が唯一の被爆国に!悲惨!

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第2次世界大戦は1917年に終わりました。

第1次世界大戦に続く、大国間を巻き込んだ2回目の大戦争として一般的には知られています。

アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国を中心とする「連合国」と、ドイツ、イタリア、日本の同盟関係を中心とする「枢軸国」との間で行われた諸戦争を総じて第2次世界大戦とよんでいます。

では、第2世界大戦はいつ起きたのか、どのようなものだったのか見ていきましょう。

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目次

第2次世界大戦ってなに?

第2次世界大戦は1939年のドイツのポーランド侵攻に始まり、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾するまでの期間というのが一般的な解釈です。

ベルサイユ条約とはどんな条約?

引用元:https://ja.wikipedia.org/

第1次世界大戦でドイツが締結させられたベルサイユ条約は、

①全植民地の放棄
②軍備縮小
③賠償金の支払い

という内容となっており、それを履行したためにドイツ経済は悪化の一途をたどっていました。

1933年にドイツでヒトラー率いるナチス・ドイツが政権を取ると、ベルサイユ条約を破棄し軍拡を始めていきます。

ただし、イギリスをはじめヨーロッパ諸国は第一世界大戦の反省から二度と大戦争を起こさないため「宥和政策」を行い、ドイツの軍拡に譲歩しました。

しかし結果的にこのことがドイツの暴走を招き、1939年のポーランド侵攻に対してイギリスとフランスが宣戦布告したことによってヨーロッパ全土を巻き込む大戦争と発展をしていきます。

強大になった日本軍の選択とは?

日本では、第1次世界大戦以降軍部の発言力が増しきました。

1930年以降の日本の政権も英米との友好関係を築くことよりも軍拡によってアジア太平洋地域で影響力を持とうとしました。

特に日本軍は朝鮮地域と満州の利権については一切の譲歩をしないという姿勢を示し、アメリカとの関係は年々、悪化をしていきます。

その関係悪化が引き金となり、世論の後押しもあったため、日本は対米戦争へと向かっていきます。

1940年にドイツ・イタリアと同盟関係を結ぶと、1941年に真珠湾攻撃を行い、日本も本格的に第2次世界大戦に参戦することとなりました。

どのくらいの犠牲者がでたの?

第2次世界大戦の死者数については、公式な数字が各国から出ているわけではなく全体の数字を正確にすることは難しいといわれています。

第2次世界大戦の犠牲者

ただし総計すると、5000万人から8000万人ほどの軍人、民間人の犠牲者が出たといわれています。

また日本の被害者数は310万人(軍人230万人、一般人30万人)というのが公式的な数字といえます。

最も多いのはドイツで、500万人から600万人以上の犠牲者が出ました。

第1次世界大戦の犠牲者

第1次世界大戦での全世界での死者数が1600万人から1800万人といわれているため、その被害の規模は3倍から5倍にも及びます。

これだけ多くの死者数が出た背景には、1つは軍事科学技術が格段に進歩したことによって殺傷能力の高い武器が使用されたことがあり、もう1つは、軍人だけではなく多くの民間人が犠牲になったことが理由として挙げられます。

第2次世界大戦で日本はどうなった?

引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki

日本にとっては第2次世界大戦という呼び方よりも太平洋戦争という呼び方の方が広く認知をされています。

太平洋戦争の期間は第2次世界大戦の期間と重なっており、1941年に日本が真珠湾攻撃を行った時点から1945年のポツダム宣言の受諾をした日までが太平洋戦争の期間となります。

そのため、日本では第2次世界大戦よりも太平洋戦争または大東亜戦争という言い方をします。

しかし太平洋戦争(大東亜戦争)については1930年の満州事変から出来事を含めるべきであるという意見もあり、用語の使用については様々な見解があります。

日本の敗戦をきっかけに体裁が変わる

いずれにしても、日本は第2次世界大戦の敗戦国となり、敗戦後連合国軍の占領下に置かれるなど、第2次世界大戦を境に国家としての体裁が大きく変わることとなりました。

国際社会の中では帝国主義を体現するアジアの一強国として第2次世界大戦までは発言力も強く持っており、国際社会の中でも軍事力を背景としてプレゼンスが高い国でした。

しかし、第2次世界大戦以降は軍事力ではなく経済力によってプレゼンスを高めていくことに方向転換をしました。

立憲君主制から民主主義体制へ

国内の政治体制も大きく変わり、明治憲法下の天皇主権の立憲君主制から、国民が主権者となる民主義体制になりました。

こうした変化は第2次世界大戦後のGHQ(連合国総司令部)の戦後統治の政策が大きく影響しており、自由経済、民主主義、憲法改正の実現が指示されたことによって、日本の戦後のあり方を決定づけたといえます。

第2次世界大戦・終戦を迎える

第2次世界大戦の終結は、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した時点であるというのは世界的な共通した見解となっています。

日本でも8月15日は終戦記念日として平和集会などが毎年行われています。

ただし、8月15日はポツダム宣言を受諾した日であって最終的に調印をしたのは9月2日であり、戦争が終戦したという意味では9月2日であるという見解もあります。

終戦日は国によって違う!

また、世界的な終戦日は8月15日となっていますが、各国の終戦日というのはこれとは違います。

例えば中国は、1972年に日中共同宣言によって終戦を迎えたということになっており1945年時点は「休戦」ということになっています。

他にもヨーロッパでは5月8日にドイツが降伏条約に調印した日を「ヨーロッパ戦勝記念日」として定めており、この時点でヨーロッパにおける第2次世界大戦が終結したと考えられています。

第2次世界大戦が終結したことにより、ファシズム(独裁政権が外国に対して侵略政策をとる)が終わり、資本主義と社会主義の対立という新たな段階へと時代は向かっていきます。

その意味で、第2次世界大戦まで続く各国の植民地支配を是としていた帝国主義的政策が認められない時代が到来したということが分岐点としての第2次世界大戦の意義になるでしょう。

第2次世界大戦とは?わかりやすく解説!まとめ

第2次世界大戦によって全世界で5000万人から8000万人の死亡者が出たことがその後の大国間の戦争の抑止力になっていることは間違いありません。

終戦間際に日本の広島と長崎に投下された原爆の威力はそれまでの軍事兵器とは比べものにならない威力と残酷さを有していました。

原爆によって広島では約14万人、長崎では約8万人の人が一瞬にして命を落としました。

この被害規模を目の当たりにした世界の国々は二度とこうした戦争を起こさないようにしなければならないとお互いをけん制し合っています。

このように、第2次世界大戦はそれ以前の戦争とは比べものにならない被害を世界にもたらしました。

しかし、軍事技術は発展し続け、現在の核兵器の威力は広島に投下されたものの3300倍あるといわれ、万が一どこかで爆発したとすると地球の半分の人類が消滅するといわれています。

第2次世界大戦は大国間の軍事衝突の象徴的な出来事であり、人類の歴史史上最も多くの死亡者数を出した戦争でした。

この戦争によって、二度と大国間の戦争を起こしてはいけないという教訓を各国が学ぶ契機となったこと、そして帝国主義の終焉をさせたという2つの大きな意味があったといえます。

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