日本歴史

会津戦争で多くの女性が被害者になるという悲劇が!その戦争の実態を今明らかにします!

「ああ、会津の城が燃えている・・・」

そういって集団自殺をした会津の少年兵「白虎隊」の悲劇は、会津戦争を象徴する悲しい話としてドラマや映画にもなっています。

会津戦争における会津藩側の戦争被害者は約2500名

そのうち名前がわかる女性や子供の被害者は約250名にもなります。

本来は守られるべき人たちが犠牲になった会津戦争で、何かあったのかを明らかにします。

幕末戦争最大の悲劇!会津戦争を簡単に説明!

1867年の大政奉還によって、天皇が日本の政治の中心になって新政府が誕生しました。

しかし、徳川旧幕府軍は巨大な勢力を持ったままでしたので、薩摩藩(今の鹿児島県)や長州藩(今の山口県)が中心となった新政府軍との間で戦争になります。

連戦連勝を続ける新政府軍は、徳川旧幕府軍の中心地だった江戸を戦わずに手にします。

新政府軍が次にターゲットにしたのが、会津藩(今の福島県南西部)でした。

藩主・松平容保会津戦争の前まで京都の警護役を徳川幕府より任されていました。

京都で起こった数々の事件を、その勇敢さと屈強さで守りきった会津藩の強さは知られていました。

たとえ徳川旧幕府が滅んでも会津藩がある限り、いつ反撃されてもおかしくない。 そう新政府軍は考えていました。

会津藩に協力的だった東北の他の藩と奥羽越列藩同盟を結び協力し合うことを決めたことも、新政府に反抗的だと見なされました。

新政府軍VS奥羽越列藩同盟となったことが会津戦争へと発展していきます。

連勝して勢いに乗る新政府軍は、大勢の兵力と最新式の武器で会津藩を攻めました。

対する会津藩は、武器は旧式ながら自国を知り尽くした作戦と、どこにも負けない気持ちの強さで、たくさんの被害者を出しながらも新政府軍と戦い続けました。

最後には城の中で入って女性や少年兵を使ってまで約1ヶ月の間新政府軍の攻撃を防ぎましたが、奥羽越列藩同盟の各藩が新政府軍に降伏したこともあり、仲間のいなくなった会津藩も降伏し会津戦争は終わります。

女性が活躍した会津戦争のシンボル・新島八重はミリタリー女子!?

現代とは違って女性の立場が弱かった時代に、多くの女性が会津戦争では活躍します。

その代表が、新島八重です。

大砲の使い方を教える先生の家に生まれた新島八重は、会津戦争でも新政府軍に対して砲撃をする指揮を任されます。

髪を切り、男の衣装を着て、手には最新式の銃と刀を持って戦ったといいます。

銃の命中率も高く、会津戦争の間も他の兵士たちに銃の撃ち方を教えていたといいます。

新島八重はこの会津戦争を生き残り、のちに日本赤十字社に勤めます。

「幕末のジャンヌ・ダルク」「日本のナイチンゲール」とも言われた新島八重は、活躍する女性の先がけだったのです。

会津戦争の女性部隊・婦女隊とは?

会津戦争の戦いの中で、藩主・松平容保姉・照姫が城へ逃げる途中にあるという情報が入ります。

その照姫を護衛するために女性20名ほどで作られた部隊が婦女隊」です。

残念ながら照姫の情報は間違いでしたが、結成された婦女隊はそのまま会津戦争の兵士の一員として戦い始めます。

頭には鉢巻をして袴姿に薙刀(女性用の長い武器)で新政府軍に挑んでいきました。

銃に対して薙刀で立ち向かうことは無謀ですが、着物を血で真っ赤に染めて戦ったといいます。

いずれも美人揃いだったといわれる婦女隊

若く美しい女性たちが、会津戦争の戦場を鬼気迫る姿で駆け抜けたことでしょう。

中心人物であった会津藩役人の娘・中野竹子が銃弾に倒れ、新政府軍に捕まった会津藩の軍指揮官の妻・神保雪子は、そのまま自殺します。

指揮する者を失った婦女隊は部隊を解散すると、それぞれの女性が城に入って会津戦争を最後まで戦い抜いたのです。

会津戦争は家族を失ったものが続出?明治の軍人・柴五郎の悲しい過去

新政府軍の攻撃は凄まじく、会津藩は少しずつ追い詰められていきます。

藩主・松平容保は、バラバラに戦っている兵士たちを城に集め、ひとつになって戦うことにします。

もちろん兵士だけではなく、その家族や領民も一緒に城へ集まるように命令します。

この命令が新たな悲劇を生みます。

明治の軍人・柴五郎の家族も被害者でした。

会津戦争のときは8歳だった柴五郎は、ひとり別荘にかくまわれます。

柴五郎の父や兄たちは戦場で戦っていて、家に残されていたのは祖父・母・兄嫁・姉妹という女性と老人・子供だけでした。

“戦うことのできない自分たちは、城に入っても役に立たない”

”このままでは新政府軍に捕まって殺されるだけだ”

”それならば、自分たちの手で子供たちを殺して自分も死のう”

子孫を残すために柴五郎だけを助けて、みんな自殺してしまったのです。

はじめは家族がいなくなったことの意味がわからなかった柴五郎

焼ける会津の領地を見た時に、その意味を知ったと言います。

8歳の子供が経験するには、あまりにも悲しい出来事だったのです。

会津戦争の最多集団自殺は家老一族の女性と子供だった!?

同じ家の中でもっとも多くの被害者を出したのが、会津藩家老・西郷頼母の家でした。

家老といえば藩主・松平容保の次に偉い立場になります。

西郷頼母の妻柴五郎の家族と同じ思いで自殺することに決めます。

夫が家老という責任ある立場であれば、自分たちが死ぬことで一人でも多くの領民が助かればよいという気持ちもあったかもしれません。

その被害者数は、自分の子供や親戚の女性たちを含め西郷一族21人。

子供たちを殺したあと、妻や祖母などの女性陣も次々に刀で自分を刺していきました。

あとからやってきた新政府軍の兵士は、血の匂いが充満する中、女性や子供ばかりの死体の多さに見ることさえできなかったのです。

そのときにはまだ、西郷頼母の妻は生きていました。

刀の差し方が悪かったのか、死にきれずにいた西郷頼母の妻は、

「あなたは味方ですか、敵ですか?」

苦しそうな声で聞いてきました。

何を言いたのかがわかった新政府軍の兵士は、

「私は味方です。」 そう答えると、

「ならば、私にとどめを刺してください。」

新政府軍の兵士は、その願いを聞き入れて西郷頼母の妻を刺したといいます。

どんな悲しい気持ちで、自分の子供や家族を殺したのでしょうか。

会津戦争を直接戦うことのできない老人や女性・子供たちは、死ぬことで新政府軍に抵抗しました。

“武士の中の武士”と言われた会津藩の強さは、その心の強さが会津の人すべてに行き渡っていたのです。

会津戦争のあとも続いた悲劇!またも女性や子供が犠牲に!

会津戦争終結後、会津藩は新政府軍への反逆者として扱われます。

もちろん生まれ故郷は取り上げられ、今の青森県斗南地方へ移住させられます。

また、一部の人たちは、開拓のために北海道へ移住させられます。

どちらも極寒のところで作物の育たない土地を与えられ、寒さと飢えに耐える生活となったのです。

寒さと飢えに耐えられず被害者になるのは、体力のない女性や子供です。

会津戦争をなんとか生き抜いた女性や子供たちが移住した土地で死んでいったのです。

ひとつの戦争が、多くの人たちの人生を狂わせてしまいました。

会津戦争は避けられた戦争だとも言われます。

新政府軍に強力な軍事力があることを知る情報収集力があれば、戦かっても勝ち目はないとわかるからです。

でも、そんなことがわかっていても会津戦争は避けられなかったのではないでしょうか?

徳川幕府に真面目に尽くした上に、時代が変われば反逆者と扱われることに会津の人たちは納得できなかったことでしょう。

戦う以外に、自分たちの無実を証明する手段が無いと考えてもおかしくありません。

この真面目過ぎるほど真面目な会津の人たちの性格は、頑固だが真面目で努力家といわれる福島県の県民性に受け継がれているのです。