2019年の3月に始まった香港での激しい民主化運動は依然続いています。
昨年秋の武器を持たない学生が警察官に至近距離から銃撃されるというニュース映像には衝撃を受けましたね。
なぜ、香港市民があんな激しい反対運動を行うのか、大部分の日本人にはピンと来てないのではないでしょうか。
香港の民主化運動を理解するためには、香港の歴史と香港市民の自由を求める気質を理解する必要があります。
そこで、今日は香港の歴史と香港市民の民主化運動について、まとめてみましたのでおつきあいください。
>>香港デモの原因は?わかりやすく説明します!香港デモのきっかけはあの「条例」?
香港がイギリス領になった歴史
現在、香港といえば香港島と対岸の九竜半島、およびその周辺の島部をいいます。
1840年、日本では江戸時代の末期、天保の改革のころですが、イギリスのアヘンの密貿易とそれを禁じる清朝との対立はついにアヘン戦争を引き起こしました。
イギリスはすぐさまインドより東洋艦隊を派遣し、その圧倒的な軍事力の前に、清は敗北してしまいます。その結果、1842年南京条約が結ばれ、香港島はイギリスに割譲されてイギリス領となりました。
さらに1860年には清とイギリス・フランス連合軍とのアロー戦争(第二次アヘン戦争)が起こり、連合軍は大軍を動員し、北京を占領したため清は降伏。北京条約により、イギリスには九竜半島の南端も割譲されることになりました。
さらに1898年には第二次北京条約により英領以外の九竜半島と島部などが99年間のイギリスが租借することになりこの地域のイギリス支配が確立しました。
イギリス領から中国への返還!手放しでは喜べない香港市民
その間、香港は、イギリスの中国貿易の拠点から、アジアの金融センターへと発展・変貌を遂げ、国際自由都市として繁栄します。
1982年にイギリスのサッチャー首相は中国を訪問、中国に香港領有の延長を提案しますが中国の権力者、鄧小平は期限どおりの返還されない場合は武力の行使もいとわないと強行姿勢で断固拒否!
イギリスはやむなく受け入れ、1997年に香港は中国に全面的に返還されることが決定されました。
唯一中国が譲歩したのは、香港には「一国2制度」を採用し、社会主義政策を2047年までの50年間は実施しないとの約束でした…
1992年、イギリス領香港の最後の総督、クリストファー・パッテンが就任し、選挙制度などで香港の民主化を推し進めました。
これは多くの香港市民に大きな支持を得たものの中国政府は反発し、英中対立のまま香港返還の日がやって来るのです。
香港の民主化運動の原因はイギリス文化の自由意識!
このように、香港は1842年から1997年まで、日本軍の占領期間をのぞいて約150年間、イギリスの領有下にありました。
植民地の香港には民主主義はなく、イギリス人が優遇され、彼らの生活を中心として町が建設され制度が作られました。
香港人に主権はなく支配層に抵抗する香港市民は弾圧されたことも確かです。
しかし、イギリスの植民地統治の目的は自由貿易にありました。イギリスの統治方針である自由放任政策のもと、香港は極東の貿易拠点として発展しました。
移民の規制もありませんでしたので、動乱が続く母国から多数の中国人が貧困や迫害を逃れるため流入してきました。
知識人や反体制政治家も香港を活動の拠点とするようになりました。
清朝や周辺の独裁国家の圧政下での生活と比較すると、言論・表現はそれほど制限されず、経済活動も自由で、支配層に入ることはできないものの、大富豪になる市民も現われたのです。
第二次世界大戦後も中国本土の共産主義政治を嫌った、資本家、技術者等が難民となり、自由を求めて香港に入ってきました。
このようにイギリス支配の香港市民には民主主義はなかったものの、中国にはない自由があり香港市民の民主主義を希求する気質が醸成されていったのです。
そのため1982年香港の中国への返還が決ると、多くの人々が、旧英連邦のカナダやオーストラリアなどへの脱出をはかったのです。
返還後の中国の圧迫と雨傘運動
しかし、1997年、中国に香港が返還されると、パッテン総督がすすめた民主的な立法評議会を解散し、全議席、中国が選んだ臨時立法府を設置し中国支配を強化したのです。
2003年の返還記念日には香港市民は行政長官と立法会の普通選挙を求める50万人のデモを起こしましたが中国政府は認めることはありませんでした。
その後中国政府は一転、行政長官の普通選挙を2017年に行うと決定しました。
しかし、これはからくりがあり、中国政府はこの選挙に出馬するには北京の影響下にある選定委員会の承認を必要としたのです。
これでは中国に批判的な人が候補者になることは不可能となります。
2014年、若者を中心とした市民の激しい反対デモがおこりました。
79日間もの街頭を占拠するという激しいものでした。警察の催涙スプレー弾を防御するため黄色い傘をかかげてデモをしたため雨傘運動といわれました。
しかし中国は認めることはありませんでした。
その後、香港では中国に批判的な書店員の拉致事件、富豪の拘束事件などが起こり香港市民の危機感は高まります。
民主化運動の激化!香港市民の不満爆発
2019年2月に香港政府は「逃亡犯条例」改正案を公表しました。
海外で犯罪を起こした人間を外国に引き渡すことができるという法律改正です。
この法律で中国政府を批判する香港市民を中国政府へ引き渡される懸念が出てきました。
そのため香港市民は200万人を超える反政府デモを継続的に行っています。
香港議会の一時占拠、香港国際空港の占拠など事態は次第に激化したため、9月に香港政府はついに「逃亡犯条例」改正案の撤回を発表します。
香港市民の強い願い
しかし、デモは収束していません。民主派は以下の五大要求全てが実現されるまで激しいデモが続くことになるでしょう。
・逃亡犯条例の撤回
・デモの暴動認定の取消
・警察の暴力の調査
・逮捕者の釈放
・普通選挙の実現
香港で激しい民主化運動はなぜ起こる? まとめ
今後、香港はどうなるのでしょうか。
今回の民主化運動がどのような結論を迎えようと、中国が約束した「一国二制度」の期限は27年後の2047年にやって来ます。
その時、中国が変わっているのか、香港が変貌しているのか、今の時点では想像がつきません。
ただ言えることは「人は一度獲得した自由は手放すことはできない」ということです。
もし中国の政策が変わらないなら香港市民は戦い続けるのでしょうか?
しかし、パッテン総督の最後のスピーチのこの言葉は気になりますね。
「私は懸念する。香港の自治は北京に奪われるのではなく香港の一部の人により徐々に放棄されることを」
中国の香港内部からの切り崩しを警告した言葉でしょうか?
最後までおつきあいありがとうございました。
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