日本歴史

桜田門外の変とは何かをわかりやすく説明!苦手な歴史がおもしろくなる!

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桜田門外の変とは、大老井伊直弼が水戸藩浪士に暗殺された事件として歴史好きでなくてもその名前くらいは聞いたことのある有名な事件ですよね!

この時代、ペリー来航から始まる西欧列強が次々と日本に開国を迫ってきました。

この国難に江戸幕府の最高職とも言える大老」に就いたのが、井伊直弼でした。

普通は将軍に次ぐ役職は老中が務めていました。

しかし、その時、幕府は大老という大きな権限を持った非常職を設けてまで当たらなければいけない非常事態におちいっていたのです。

井伊直弼が国難に対応していくなかで、独断的になっていったのは確かです。

ですが、独裁者のような振る舞いが暗殺された理由というわけでもありません。

桜田門外の変で、なぜ井伊直弼は殺されなければならなかったのか、また桜田門外の変とは一体なんだったのかをわかりやすく説明していこうと思います!

桜田門外の変への序章その1・将軍の後継者争い

 

引用:Wikipedia井伊直弼

13代徳川将軍・家定には後継ぎがいませんでした。

また、病弱でもあったため、後継者探しにも苦労していたとのこと。

その後継者候補の一人が、徳川御三家でもある紀州徳川家の徳川慶福(のちの14代将軍・家茂)です。

そして、徳川慶福を支持した筆頭が、大老・井伊直弼でした。

正統派を重んじた井伊直弼は、直系の血筋に近いことを理由に徳川慶福を支持したのです。

一方で、前水戸藩主徳川斉昭の息子で聡明の声が高い一橋慶喜(のちの15代将軍)を支持した派閥がありました。

同じく徳川御三家の水戸藩をはじめ、外様大名などもこの一橋慶喜支持をしていました。

この国難を乗り切るには血筋よりも能力が大事だということで一橋慶喜を支持したのです。

徳川慶福の支持勢力はいわゆる南紀派といわれ、一橋慶喜の支持勢力は一橋派といわれました。

ここに南紀派✖️一橋派という対立が生まれます。

南紀派が開国することを考えていたのに対し、一橋派は天皇を中心とした体制を整えることで外国に対抗しようという考えで対立していました。

また、京都の孝明天皇や公家たちが一橋派の考えを支持していたことも、のちのち事件を起こします。

将軍後継問題は、13代徳川将軍・家定の希望もあり、徳川慶福となりましたが、水戸藩をはじめとした一橋派には不満が残り、これ以降対立は激しくなっていくのです。

桜田門外の変への序章その2・修好通商条約の締結

もうひとつ、桜田門外の変へとつながる大きな問題が起こります。

それは不平等条約として知られる日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた日米修好通商条約の締結です。

日米修好通商条約は次の2点において不平等なものでした。

1.外国人が日本国内で事件を起こしても自国の法律で判断される → 領事裁判権の承認
2.自国内の産業保護のための輸入品への関税を決める権利を放棄 → 関税自主権の放棄

この条約内容だけでも問題であるのに、幕府は天皇の許可を得ずに条約を締結してしまいます。

当時の政治体制として幕府が実務的な政治を行う一方で、国事として行うことには天皇の許可(いわゆる勅許)が必要とされていました。

これは、権限を二分することでどちらの勢力も肥大せず監視する役割を持っていました。

その一方で、いちいち天皇の許可を必要とするため、判断を下すのに時間がかかるという欠点も持っていたのです。

井伊直弼は、原則としては孝明天皇の許可を得なければ条約締結をしないという方針を、アメリカ合衆国との交渉役堀田正睦たちには言い渡していました。

ただし、条約締結に時間がかかることで不利な状況になることを憂慮した井伊直弼は、やむを得ない場合は条約締結することを認めるという例外を持たせてしまいました。

アメリカ合衆国の武力での開国もありえるという姿勢に、条約交渉団は「やむをえない場合」と解釈して条約締結をしてしまいます。

井伊直弼の独断で締結されたと思われている日米修好通商条約ですが、むしろこの条約締結は井伊直弼の望んだ内容ではなかったのです。

その証に、条約の締結直後には堀田正睦たち交渉にあたったものたちは、辞めさせられています。

事態の重要性をもっともわかっていた井伊直弼だけに、この失態の影響は大きいと予想したことでしょう。

幕藩体制を揺るがす事態・戊午の密勅

日米修好通商条約をはじめとした西洋諸国との条約締結内容が、日本に不利であったことを一橋派は大いに問題視しました。

この事態は、自分の許可を得ずに行われた孝明天皇にとっても許されるものではなかったのです。

そこで、孝明天皇は幕府の改革をすることを、懇意にしている水戸藩に指示します。
これを「戊午の密勅」といいます。

この密勅の問題は、孝明天皇が直接水戸藩に指示したことです。
徳川御三家とは言えども、水戸藩は幕府の一藩に過ぎません。

徳川幕府と言う存在がありながら、そこを飛び越えて指示したのですから、幕府側から見れば蔑ろにされた形になったのです。

水戸藩の不満は最高潮へ・安政の大獄

幕府の権威が落ちれば、バランスを保ってきた天皇との二大勢力の関係が崩れます。

天皇と幕府のパワーバランスが崩れると、そこには新たな勢力が入ってくる隙間ができます。アメリカ合衆国などの外国勢力です。

日本の植民地化を防ぎ国内での争いをさけるため、井伊直弼はこの機会を利用して、自分たちへの反対勢力を一掃することにします。

こうして安政の大獄と呼ばれる大弾圧が始まったのです。

その処断は公家や一橋派の主要人物だけでなく、民間の学者や町人にも及びます。
その中には松下村塾で名の知られた吉田松陰もいました。

また、水戸藩においては家老が切腹させられただけでなく、武士にとっては不名誉と言われた斬罪にされた家臣もいました。

前水戸藩主の息子一橋慶喜も謹慎処分になりましたが、前藩主水戸斉昭自身も永蟄居(部屋に閉じ込めて一生出さない終身刑)という重い処分を受けたのです。

この処分内容に、水戸藩の過激派たちは、不満を大いに募らせます。

さらに、井伊直弼からは孝明天皇からの密勅を返納するよう強く求められます。

返納しない場合は、藩の改易(実質の左遷)をするとさえ言われたのです。

徳川御三家としてのプライドを傷つけられ、水戸藩の評判も落された事態に、水戸藩の過激派藩士たちの怒りは頂点へと達します。

反対勢力を一掃して、幕府内の地盤を固めたと思っていた井伊直弼ですが、すべての主導をしていたことで、水戸藩過激派たちの恨みの的となっていったのです。

ついに大老暗殺へ・桜田門外の変

水戸藩の過激派浪士たちは、ついに井伊直弼の暗殺を計画します。同じく幕府に不満を持っていた薩摩藩士も加わっていました。

井伊直弼暗殺計画は、計画から実行まで1年もかかっての念入りな計画でした。

ついに、桜田門外の変と言われる井伊直弼暗殺計画が実行されます。

江戸城に入る途中を襲い井伊直弼を暗殺するという計画は、とても難しいものでした。

江戸の井伊藩邸と桜田門までは300mから400mととても近い距離にありましたので、襲撃する時間は限られていました。

さらに、江戸城に入る時間は昼間ですので、町人などの民間人も見ています。

井伊直弼の護衛などをする供回りは約60人

一方の水戸藩浪士と薩摩藩浪士合せて18人と多勢に無勢の状況でした。

暗殺成功の可能性は、けっして高くはなかったのです。

しかし、水戸藩浪士たちに味方したのはその日の天候。

季節外れの大雪は、供回りの服装が雪除けのため重装備となっていました。

傘で視界が悪く、合羽によって素早い動きがしにくくなっていました。

刀の柄にも雪除けの袋がかぶせられていたのです。

江戸城までの距離が近いこともあり、この場所での暗殺という大胆な行動は予想していなかったので油断もありました。

突然現れた暴徒たちに供回りは次々に斬られていきます。

井伊直弼自身も居合の使い手であったので、本来であれば反撃できたはずです。

しかし、事件後、井伊直弼の遺体には銃で撃たれた痕がありました。

おそらく居合の使い手であることを知っていた水戸藩浪士たちは、井伊直弼の反撃に備えて銃撃することも計画していたのでしょう。

籠から引きずり出された井伊直弼は、その場で首を斬られて絶命します。

幕府内の亀裂が露呈・桜田門外の変の影響

桜田門外の変は、幕府にとっては大きく権威を失墜するには十分な事件でした。

将軍に次ぐ権力者であった大老井伊直弼殺害されただけでも幕府の威信を傷つけるものでしたが、その実行犯が徳川御三家水戸藩の元藩士たちというのですから、幕府内も統制がとれていないことを示すものでした。

幕府の実務を一身に背負い実行してきた井伊直弼の死によって、幕府は一橋慶喜派に頼るしかなくなったのです。

これ以後、井伊直弼によって追いやられていた一橋派が勢力を盛り返し幕府を動かしていきます。
そして、日本の政治体制の大転換・大政奉還を迎えることになるのです。

まとめ

桜田門外の変で徳川幕府の大老井伊直弼が殺害されたことは、重要人物をテロによって暗殺できることを証明してしまいました。

これ以後、天に変わって悪者を裁く(天誅)として、自分たちに邪魔と思われる人物の殺害が頻発します。さらに、暗殺者の取り締まりを理由に、新選組なども組織され血で血を洗う動乱へと発展していきます。

井伊直弼を殺害した水戸藩浪士たちも、その渦中に多く参加することになるのです。

桜田門外の変は、日本の政治体制を大きく変えていく転換点になったと同時に、革命による日本再生のきっかけを作った点でも、重大な事件だったといえるでしょう。

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