みなさんこんにちは。
中国史には男性だけでなく、様々な個性のある女性も登場しますよね。
その中でも、みなさんがすぐに思い浮かぶ女性といえば、どちらかというと「悪女」と呼ばれる人物が多いのではないでしょうか?
たとえば、殷の紂王を惑わし、殷王朝滅亡のきっかけとなった妲己(だっき)や、ちょっとショッキングですが、邪魔な側室の手足を切り取り、「人豚」と称した呂后(りょこう)など・・・
しかし、中国史に登場するのは、残酷な女性ばかりではありません!
そこで今回は、古代中国に登場する「肝っ玉母ちゃん」と呼ばれる孟子の母を紹介していきます!
「孟母三遷」由来の教育ママ!「孟母」
まず最初に紹介するのは、「孟母三遷」という故事成語のもとになった人物、孟母(もうぼ)です。
まず「孟母三遷」とは、「教育には環境が大切だという教え。また、教育熱心な母親の例え」という意味です。
この故事成語のもとになった孟母という人物は、儒教の世界で孔子に次ぐ人物として現在でも尊敬されている「孟子」のお母さんです。
孔子といえば儒教の教えの基礎を作った人物であり、教育者として、学者として有名ですよね。
その孔子に次ぐ人物とされているわけですから、孟子も学者としてはめちゃくちゃ優秀な人物だったんです!
そんな孟子を育て上げた教育ママとして有名なのが、この孟母なのです!
では、「孟母三遷」の詳しいストーリーを解説していきましょう!
孟母三遷とは?!その由来を解説!
時代は春秋戦国時代、漫画『キングダム』でも有名なこの時代に、孟子は生まれました。
孟子が子供だったころ、孟子一家の家の近くには墓地があったそうです。
すると幼かった孟子は、家の近くにある墓地で葬式ごっこをして遊ぶようになってしまいました。
今だとそんな不謹慎な遊びをするな!と怒られてしまいそうですが、2000年以上も昔であることを考えれば、お墓も子供にとっては大事な遊び場だったのかもしれません。
しかし、それを見た孟母は、「これでは我が子の教育の場にふさわしくない!」と考え、家を引っ越すことにしました。
孟母にはやはり当時でも不謹慎だと感じたのかもしれません。
しかも教育に良くないとはいえ、子供を注意するのではなく家ごと引っ越すなんて、すごい行動力ですよね笑
引っ越した先は、市場の近くでした。
すると幼かった孟子は、家の近くにある墓地で葬式ごっこをして遊ぶようになってしまいました。
今だとそんな不謹慎な遊びをするな!と怒られてしまいそうですが、2000年以上も昔であることを考えれば、お墓も子供にとっては大事な遊び場だったのかもしれません。
しかし、それを見た孟母は、「これでは我が子の教育の場にふさわしくない!」と考え、家を引っ越すことにしました。
孟母にはやはり当時でも不謹慎だと感じたのかもしれません。
しかも教育に良くないとはいえ、子供を注意するのではなく家ごと引っ越すなんて、すごい行動力ですよね笑
引っ越した先は、市場の近くでした。
すると孟子は、今度は商人のマネをして遊ぶようになります。孟母は、ここもやはり教育の場にふさわしくないとして引っ越します。
どんだけ孟子の教育にいれこんでいたのでしょうね!
そして、今度は学校の近く居を定めます。すると孟子は、礼儀作法のマネをして遊ぶようになり、それを見た孟母も安心して、そこに定住することを決めました。
こうした環境で育ったことにより、孟子は現在まで尊敬されるほどの学識を身に着けたのです。
これがよく言われる「孟母三遷」のストーリーです。
子供の教育環境というのは大事ですが、そのためにわざわざ3回も住む場所を変えるなんて、孟母の教育熱心な姿勢がうかがえますよね!笑
ちなみに、孟子が礼儀作法のマネをしたことで孟母がなぜ安心できたのか疑問に思う人もるかもしれません。
これは、儒教の世界に、
「優れた学者はまずしっかりとした礼儀作法を身に着けていなければいけない」
という考え方があったからです。
ほうほう、なるほど。見習い格言ですね。
息子の仇討ちから反乱に!?「呂母」
次に紹介するのは、呂母(りょぼ)という人物です。
呂后と名前が似ていますが、別人ですよ!笑
よく間違う方がいますのでこの際はっきりと区別しておきましょう!
呂母は、孟子の時代よりも400年以上後の人物で、現在の山東省に住んでいました。
当時の中国は、前漢王朝が王莽(おうもう)と言う人物に乗っ取られ、新(しん)という王朝が建てられた時代でした。
王莽は国の法律や制度を大きく改変した人物ですが、そのせいで前漢王朝の時には合法だったことも新王朝では違法になってしまう、ということがよくありました。
なんだかコロコロと法律が変わっていくのも民衆としては気がきではありませんねえ。
呂母の息子は地方の下級役人だったのですが、このように激しく変わる社会の中、無実の罪によって死刑にされてしまいます(罪を犯した事自体は本当だったとする記録もあります)。
息子を冤罪で失った呂母は悲しみにくれ、息子に死刑判決を下した県宰(現在の日本でいうと市長クラスの役職)に怒りの矛先を向けるようになります。
そりゃあ当然のことですよね。母親の息子への愛着はすごいんです!しかも冤罪となれば母は復讐を必ずや心に違うことでしょう!
呂母の密かな復讐計画がすごい
しかし!!たった一人では復讐することができないと考えた呂母は、仲間を募ることに決めました。
なかなかの知恵ですね。呂母あなどれませんよ。
当時、呂母は居酒屋を営んでいましたが、世の中が混乱していたため、呂母の居酒屋は町の浮浪者や、職を失った若者のたまり場となっていました。
そこで、呂母は酒を売り払って武器や衣服を買い、職を失った若者にはツケで武器を与え、着るもののない浮浪者には衣服を与えました。
彼らは呂母に感謝し、呂母へのツケを返すために自分たちが何かできることはないか尋ねます。
すると呂母は泣きながら、自分の息子が無実の罪で処刑されたことと、県宰への復讐のために協力してほしいということを告げました。
呂母に恩を感じていた若者たちは団結し、呂母の仇討ちに協力することを決めます。
呂母の作戦成功です!
こうして結集した人々は最初こそ数百人という小規模なものでしたが、次第に増えていき、最終的には数千人規模の集団となりました。
その中で、呂母は将軍を自称して集団を率い、ついには県宰を捕らえてその首を息子のお墓に供えることに成功します。
完全に息子の仇を返した呂母!
その後、復讐を果たした呂母は病死してしまうのですが、残された若者たちは新王朝の過酷な政治を打ち倒すため、当時各地で立ち上がっていた反乱軍と合流していきます。
この後反乱は拡大し、世界史でも有名な「赤眉の乱」へと発展しました。その結果、新王朝はわずか15年で滅亡してしまうのです。
このように、最初は息子の仇討ちとして始まった反乱が、王朝を滅ぼす大きな反乱へと発展していったわけです。
冤罪だったとはいえ、息子の仇討ちのために全力を注ぐ呂母の姿には頭が下がります!
孟母三遷とは!由来となったお話と呂母・まとめ
いかがでしたでしょうか!子供のために三度も住む場所を変えた孟母や、国に反乱を起こすことになった呂母。
いずれも相当な肝っ玉母ちゃんということができるのではないでしょうか。
このように、中国史に登場する女性は悪女ばかりではないのです!これ以外にも個性的な女性はたくさんいるので、また機会があれば紹介していきたいと思います!
ではまた!!
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