最大勢力時代のローマ人は地中海を「我々の海」と呼びました。
しかし紀元前200年代は、イタリア半島のみが勢力圏でした。
カルタゴ、プトレマイオス朝エジプト、セレコウス朝シリアという大国にはまだ肩を並べられませんでした。
そのような時代、地中海に進出を始めてカルタゴと戦ったポエニ戦争で、ローマは未曾有の危機に見舞われます。
カルタゴの将軍ハンニバルがイタリアに侵攻してきたのです。
ローマは連戦連敗、主力で臨んだBC216年のカンナエの戦いには歴史的大惨敗。
ローマが忍従を強いられる中、一人の男が立ち上がったことが戦争の大きな転換点となるのです。
人間的魅力の片鱗
BC236年、プブリウス・コルネリウス・スキピオはローマの名門貴族であるコルネリウス家につらなる一門のスキピオ家に生を享けました。
彼は名門に生まれただけではなく人間的魅力があったと言われます。
それもあって、年齢規程に達していない24歳の若さでエディリス(按察官)に特例で就任します。
元老院も屈する人気
元老院とは当時のローマにおいて実質的な意思決定機関でした。(「Senātus」の言葉はアメリカ上院「senate」などとして残っています。)
スキピオはまだ25歳でしたが、元老院を説得してプロコンスル(代理執政官)になることを認めさせてしまいます。
彼が欲しかったのは、プロコンスルになると得られるインペリウムによる軍隊の指揮権です。
スキピオはBC210年、軍を率いてヒスパニア(現スペイン)へと向かいます。
スキピオが17歳のBC219年に勃発していた世に言う第二次ポエニ戦争(ローマ人は「ハンニバル戦争」と呼びました。)において、既にカルタゴの将軍ハンニバル・バルカと浅からぬ因縁を持っていました。
ハンニバルか、スキピオか
後にローマとカルタゴの代表的な将軍とされる2人ですが、リーダーとしてのあり方は対照的でした。
ハンニバルは厳格でありながら兵士の信頼を集めていました。
ローマの市民兵と異なり、利益で動くことの多い傭兵を統率するのは並大抵の力量では務まりません。
対してスキピオは、人間的魅力から様々な人の支持を得ていきます。
後に述べますが、これが戦いに大きく影響してくるのです。
ハンニバルとの出会い
スキピオの父プブリウス(名前が全く同じなので、父の方は「プブリウス」と呼びます。)はコンスルとしてハンニバルを迎え撃ちますが、BC218年、ティキウスの戦いで敗れ、負傷します。
プブリウスを救出したのはスキピオだという話も残っていますが、彼の功績を盛るための話、という線が濃厚です。
ただ、スキピオが父と共に従軍していたのは確かなようです。
共和制ローマでは国家元首として同時に2人のコンスル(執政官)が存在し、軍隊も共同で指揮することが珍しくありませんでしたが、それが裏目に出ることもありました。
トレビアの戦いでも、プブリウスが負傷していたので同僚のコンスルであるロングスが指揮を執っていました。
遭遇戦とはいえハンニバルの指揮ぶりを目にしていたプブリウスは、慎重に戦いに臨むようにロングスに忠告していましたが、それは生かされなかったのです。
カルタゴの疑似突出とその後の後退にローマ軍は吸い出され、薩摩のお家芸「釣り野伏せ」に引っかかったのと同じく包囲・殲滅されます。
全軍4万の半数が戦死か捕虜、という大惨敗でした。しかしスキピオは逃げおおせます。
その後のトラシメヌス湖の戦いでもローマは大敗、総力を結集してハンニバルと雌雄を決しようとした216年、カンナエの戦いでも7万中5万を失う大惨敗。
この戦いでスキピオの妻の父パウルスは執政官を務めていましたが戦死。
ここでもスキピオは落ち延び、何か強い力で護られているかのようです。
犠牲から学んだもの
一連の敗戦で、スキピオは血族を次々失います。
ノーブリス・オブリジェを重んじて戦いに参加した元老院議員も多数戦死しており、その中にはスキピオの友人や知己も含まれていたでしょう。
しかしこのような犠牲を払い、自らの命も危機にさらす中で彼は学んだのです。
そう、ハンニバルの戦術を。
その骨子は歩兵で敵主力を拘束し、その間に機動力に富む兵種、当時は騎兵が側面・背面に回り込んで包囲するというもの。
その戦術を理解はしたものの、カルタゴには最強の戦闘力を持つヌミディア騎兵がついています。
当時は馬に乗る際の「鐙」が一般的で無く(ヨーロッパには伝わっていなかった可能性大)、馬を操るには長い時間の修練が必要で、騎兵はおいそれと養成できなかったのです。
この問題をどうするか。その後の行動を見ると、スキピオはこの解決に向けて遠大な構想を描いて行動していた可能性があります。
バルカ家の本拠地を逆侵攻
話をスキピオのヒスパニア攻略に戻します。
彼はハンニバルと直接対決するのは得策でないと考え、バルカ家の本拠地カルタゴ・ノヴァを電撃的に攻略します。
この時に彼には地元の有力者から当地きっての美しい娘が贈呈されたのですが、彼女には婚約者がいると知ります。
そこで次のように言って丁重に申し出を辞退したと言います。
「一人の男としてはこれほど嬉しい贈り物はないが、一軍の司令官としてはこれほど困る贈り物もない。」
これを聞いたカルタゴ・ノヴァの人々は、侵略者であったローマに対して大変協力的になりました。
スキピオの人間性がうかがえるエピソードです。
ヌミディアへの布石
ヒスパニアからカルタゴの影響を排除することに成功したスキピオですが、彼はこれで満足していません。
彼の目はカルタゴ本国に向いていたのです。
BC205年、彼は執政官に選ばれたものの、アフリカ遠征に消極的な元老院のために兵を与えられず、義勇兵を募って訓練している状態でした。
義勇兵に馳せ参じた中には、復讐心に燃えるカンナエの戦いの生き残りも多数いたと言います。
ようやくアフリカ上陸は承認されますが、それ以上は許可されませんでした。
つまり、「何も援助しないから勝手にやれ」というのが元老院の態度でした。
スキピオは上陸後ヌミディアにある2つの王国と同盟を結びます。もちろん、強力なヌミディア騎兵を味方につけるためです。
最強騎兵が味方に
スキピオはアフリカに橋頭堡を建てたかに見えましたが、ヌミディアの一方の王子シュファクスはカルタゴに寝返った挙げ句にヌミディアを掌握し、もうひとりの王子マシニッサを追放してしまいました。
マシニッサはたった数騎と共に落ちのび、スキピオのを頼って陣営に来て言いました。
「今の私には、見たとおりのものでしかあなたの力になれないが、それでもいいか」
スキピオは内心は(多分)落胆していたでしょうが、そんな様子は全く見せずに即答したと言います。
「あなたがいれば、それで十分だ」この瞬間、スキピオはアフリカにこの上ない同盟者を得たのでした。
その後二人は共に戦いヌミディアを攻略、シュファクスは捕虜となってマシニッサが王位につきます。
これでスキピオはマシニッサ率いるヌミディア騎兵の全面的な協力を得ることになります。
師弟、ザマで相まみえる
一方ハンニバルですが、戦闘では勝ってもローマ諸都市の同盟が崩れずに追い詰められ、スキピオのアフリカ上陸によって遂にカルタゴに呼び戻されます。
カルタゴ本国のスキピオを打ち破るためです。
カルタゴ5万強、ローマ軍はそれより若干少なかったと伝えられます。
そんな軍勢が展開する中、兵法における「師弟」は初めて相まみえ、和平交渉を行いますが決裂します。
BC202年10月19日、長きに渡った2つの国の事実上の最後の決戦・ザマの戦いの朝を迎えました。
逆転した編成
今やヌミディア騎兵を味方につけ、ローマ側が質・量ともにカルタゴの騎兵を圧倒する戦力を持っています。
スキピオの狙いは、カンナエの戦いの再現でした。
兵科の編成はあの時と全く逆になっていました。
カルタゴの戦車、象部隊
もちろんスキピオの狙いはハンニバルとてお見通しでした。
彼も対策は立てていました。戦闘用の象は今で言う戦車みたいなものですが、約80頭の象を敵歩兵部隊に突入させます。
ローマ軍歩兵は大混乱・・・と思いきや、歩兵部隊は当時の常識であった密集隊形をとらず、兵の隙間をあけて象舞台をやり過ごしたのです。
小回りの効かない象が向き直る頃には、投槍や大きな音に混乱して戦力にならなくなります。
しかしハンニバルには次なる策がありました。
まともに戦ってはかなわない騎兵を偽装後退させて敵騎兵をおびき寄せて戦場から遠ざけ、その時間を利用して主力である歩兵で打ち勝とうというのです。
兵の強さとは
ハンニバルの目論見は成功し、敵騎兵のおびき寄せることができました。
しかし、歩兵の質が戦いに影響し始めます。
カルタゴの歩兵の大半は急ごしらえの新兵で、恐怖にかられて前進を拒み、これに怒ったハンニバルの古強者との間に同士討ちさえ生じてしまいます。
貴重な時間がそれによって費やされ、その間に盟友マシニッサ率いるヌミディア騎兵が遂に戦場に戻ってカルタゴ軍の背後を衝きます。
ローマ歩兵の両翼も敵側面に回り込み、カンナエの再現が実現したのです。
ハンニバル子飼いの1万の古強者は降伏しなかったため殲滅されました。戦いは終わったのです。
栄光そして
帰国後、スキピオは最も栄誉とされる「凱旋式」を行うことを許され、アフリカヌスの尊号を贈られます。
弟ルキウスのシリア戦線で参謀を務めたりもしますが、救国の英雄にしては目立たぬ生活ぶりだったと言います。
終身執政官・独裁官への就任を打診されるも断ります。
彼は権力を愛する人間ではなかったのです。
剣を持たぬ敵
満ち足りて生涯を終えるはずの彼を弾劾するものがいました。
戦場における使途不明金について執拗に追求したマルクス・ポルキウス・カトー(いわゆる大カトー)です。
「こんな男を亭主に持ったら、毎日息が詰まる思いだろう」と塩野七生氏に評されるカトーは、執拗にスキピオとカルタゴの排除に人生を捧げたかに見える人物です。
隠遁・最期
追及に対してスキピオは最終的に無実となるものの、政界に嫌気が差したらしく、カンパニア地方のリテルヌムに隠遁し、2度とローマには戻りませんでした。
彼の最期については、いきさつもそれどころか墓所の位置もわからないのです。
ただ、墓碑銘には「恩知らずの祖国よ、お前に私の骨は与えないぞ」と刻むように命じたという話が伝わるのみです。
時にBC183年のことでした。
ハンニバルが異国で自害に追い込まれたのも奇しくもほぼ同じ時期だったと伝えられます。
スキピオ・アフリカヌス・偉大な将軍の栄光と悲哀・まとめ
救国の英雄、スキピオの前半生は他者も本人も「神に護られている」と考えても不思議ではありませんでした。
加えてその人柄は社会的地位を高める際や「カルタゴ・ノヴァ」での駐留やマシニッサとの友誼でも大いにプラスに働いたのです。
しかし後半生は剣を持たぬ敵との戦いではかつての覇気は鳴りを潜め、ひっそりとローマから、そしてこの世からも去りました。
しかしイタリア国歌、「マメーリの讃歌」では今でも歌っているのです。「イタリアの兄弟、イタリアは目覚めた。スキピオの兜をかぶりて(Fratelli d’Italia, l’Italia s’è desta, dell’elmo di Scipio s’è cinta la testa.)と。
イタリア国民はスキピオを忘れることはないのです。
【参考文献】
講談社学術文庫 長谷川博隆著「ハンニバル」
新潮社 塩野七生著「ローマ人の物語Ⅱ 『ハンニバル戦争』」
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