ヨーロッパの国々の陸軍士官学校の教本の多くに載っているのが「カンナエ(カンネー)の戦い」です。
剣と槍と素手の投擲武器と弓矢しかなかった2千年以上前の戦いが、なぜ未だに輝きを保っているのでしょうか。
この戦いの勝利によって、戦史においてその名を不滅のものとしたハンニバル・バルカ。
彼の足跡をたどっていきましょう。
戦史に燦然と輝く名を残した男
ヨーロッパの国々の陸軍士官学校の教本の多くに載っているのが「カンナエ(カンネー)の戦い」です。当時の武器といえば剣と槍と素手の投擲武器と弓矢だけ。
ではなぜ、そのような2千年以上前の戦いが、なぜ未だに輝きを保っているのでしょうか。
この戦いの勝利によって、戦史においてその名を不滅のものとしたハンニバル・バルカ。
彼はなぜ勝利して、そして最後には勝利できなかったのかをたどっていきましょう。
軍人であり政治家
ハンニバルが戦った「第二次ポエニ戦争」ですが、では「第一次」があったわけですが、この戦いはハンニバルの父、ハミルカルによって戦われました。
BC264年から約3年続いたこの戦いはローマの勝利に終わります。
しかしハミルカルは巧みな交渉によって最小限の譲歩でカルタゴの国益を守り抜きます。
にもかかわらず、政敵であるハンノ家との角逐の末にスペインへと移ります。ハンニバルは9歳の頃と伝えられます。この時、外にはローマ、内にはハンノ家という敵が宿命付けられたと言えます。
当時のカルタゴには兵士が将軍を選ぶという制度が(少なくともバルカ家では)あり、ハンニバルは弱冠26歳で将軍に選ばれます。
ローマを目指して
ヒスパニア(現スペイン)の西部をほぼ支配下においたバルカ家ですが、サグントゥム(現在は地中海沿いのバレンシア州の町)を攻略したことで、遂にローマと衝突します。
国力(しかもカルタゴ本国からの増援はなし)の差は歴然。
それでもハンニバルをローマ遠征に駆り立てたものは何だったのか、未だに諸説決定打がありません。
この頃、BC218年、ハンニバルは29歳でした。
なぜアルプスを越えたのか?
現在はアルプス越えは高速バスでも気軽にできますが、歩兵5万、騎兵9千と象を連れての行軍は想像を絶する苦行だったことでしょう。
その道を選んだ理由も諸説ありますが、ローマ軍が向かっているマッシリア(現マルセイユ)に向かって、たとえ一度勝てたとしても次々と援軍が来ると予想してあえてアルプス越えを選んだという見方もできます。
ティキウス、トレビア、トラシメヌスー戦術の成熟
アルプス越えを果たしたハンニバルとカルタゴ軍は本格的にローマ軍と対峙します。
BC218年11月、ティキヌスの戦い。
カルタゴ軍6000に対しローマ軍4000。遭遇戦に近かったのですが、ローマに勝利したという宣伝効果が高く、カルタゴ軍に続々兵が集まります。
同じ年の12月、トレビアの戦い。カルタゴ軍、ローマ軍ともに約40,000。この戦いで見せたハンニバルの戦い方は薩摩のお家芸「釣り野伏せ」を彷彿とさせます。
疑似撤退によりおびき出したローマ軍を伏兵で包囲殲滅するというものでした。
本腰を入れたローマは次に合計5万の軍勢を二手に分けてカルタゴ軍を挟撃しようとします。
しかし危険な地形で索敵を十分にしなかった執政官フラミニウスの軍がトラシメヌス湖の湖岸の隘路で待ち伏せにあってやはり包囲・殲滅されます。
兵力の多い方が兵力を糾合する前に急襲されて壊滅する様は「銀河英雄伝説」の「アスターテ会戦」を想起させます。
これらの戦いで、ハンニバルは一貫して正面の戦いで敵を拘束する間に騎兵の機動力を生かして側面や後方を衝かせ、包囲殲滅するというものでした。現代でいう「金床とハンマー」の考え方です。
しかし勝利しながらもカルタゴ軍は一部中央突破されていました。
ハンニバルはこの点を改善しようと工夫します。対するローマは敗戦の教訓を生かした跡は見られません。
カンナエの戦いー不滅の勝利
度重なる惨敗にもかかわらず、ローマは8万もの軍勢を集め、ハンニバルと雌雄を決する決意をします。
対するカルタゴ軍は4〜5万。
しかしハンニバルの戦略において要となる騎兵はローマ6000に対してカルタゴは1万、その中には高い戦闘力で知られるヌミディア騎兵がいるのです。
BC216年、8月2日、スペイン人、ガリア人からなるカルタゴ軍中央の歩兵は敵に向かって中央が膨らんだ、奇妙な陣形を取ります。
そこへローマ軍中核の歩兵が襲いかかり、さすがの強さにカルタゴ歩兵はじわじわ後退します。
最初の陣形が敵に向かって凸レンズだとすれば、カルタゴ歩兵は押し込まれて凹レンズのようになっていました。
しかし、この「変形」は貴重な時間を稼いでいたのです。この間、戦線の中央以外では何が起きていたのでしょう。
両翼では質量ともにまさるカルタゴ騎兵がローマ騎兵を蹴散らし、ローマ軍の背後に回り込んでいたのです。
そして中央突破を目指して縦に伸びたローマ軍の側面、騎兵がいなくなって守るものがいない側面からはハンニバルの古強者が襲いかかります。
これでローマ軍は完全に包囲されたのです。
殲滅されたローマ軍の戦死者は一説では5万以上、当時ローマ人が印鑑を兼ねて身につけていた黄金の指輪を抜き取って重ねたところ小山のようになったといいます。
なぜローマを攻めなかったのか?ー戦闘と戦争の関係
カンナエの戦いでローマの主力はほぼ壊滅。
執政官1人と、元老院議員30人あまりも戦死者のリストにありました。ローマは息を潜めてカルタゴの来襲に備えますが、ハンニバルはやってきません。
部下にまで「あなたは勝利する方法を知っていても、勝利の使い方を知らない」と言われたハンニバルですが、彼は「戦争」に勝とうとしたのであって「戦闘」はそのための手段である事を知っていたのです。
カルタゴの圧勝を目の当たりにした同盟諸国がローマを見限らない限り、首都ローマを攻めたところで堅牢なローマの攻略に時間がかかってしまいます。
その間に、援軍に挟み撃ちにされたら敵地にいるカルタゴ軍はひとたまりもありません。
ハンニバルの誤算は、これだけの圧勝を見せられても、カルタゴに与しようという都市がわずかカプアと「走れメロス」で知られるシラクサだけだったことです。
勝っても「勝利」できない!
ローマでは敗軍の将はねぎらわれこそすれ糾弾されることはないのですが、カルタゴは敗戦すると将軍には最悪処刑という仕打ちが待っていました。
ローマ同盟が離反するというハンニバルの計算には、このようなカルタゴの価値観から離れられなかった一面が反映されていたのかもしれません。
この窮地にあって裏切る都市が少なかった事がローマの底力を示していると思います。
そしてハンニバルとは戦いを避け、カルタゴと戦う方針をとります。
これはハンニバルがいない間に逆にバルカ家の本拠地であるスペインを攻め、更にカルタゴ本国に逆侵攻しようというものです。
ハンニバルの最も手強い敵、スキピオ登場
BC210年、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、後に「大スキピオ」「スキピオ・アフリカヌス」と呼ばれる26歳の若者が軍勢を率いてスペインに到着します。
彼の父は執政官時代、トレビアでハンニバルに敗れ、辛うじて助かっていました。その父の後を継ぐべくカルタゴの攻略に乗り出したのです。
スキピオはバルカ家の本拠地「カルタゴ・ノヴァ」を陥落させてカルタゴとハンニバルに大打撃を与えた後も止まらず、元老院の反対を振り切ってカルタゴの本拠地にほど近いアフリカの海岸に上陸するのです。
ザマの戦い「師弟」対決
カルタゴには最初に書いたハンノ家を中心としてハンニバルと敵対する勢力が力を奮っていました。
しかしスキピオの上陸で足元に火がついては軍事的にはハンニバルの手腕に頼るしかなく、彼をイタリアから呼び戻します。
すぐにハンニバルのために兵が集められますが、彼の子飼いの精鋭は少数派となる混成部隊だったのです。
遂に両雄はBC202年10月19日、ザマ(現チュニジア北部)で相まみえます。
ローマ軍42,000、カルタゴ軍53,000と伝えられます。しかしカンナエの時とは逆に、ローマ軍の騎兵は敵の3倍でした。
しかもスキピオはこれまでの戦いを通じてヌミディア王マシニッサと同盟を結び、かつてはカルタゴの側だった最強ヌミディア騎兵を手に入れていたのです。
もちろんハンニバルもスキピオがカンナエの再現を目指していることは読んでおり、対策も立てていました。しかし、戦端が開かれるとカルタゴ軍が混成部隊であることの影響が出てしまいます。
カルタゴ兵の一部が戦意を失い、それに憤ったハンニバル精鋭部隊との間に同士討ちさえ起き始めます。
その時ローマ軍のヌミディア騎兵がカルタゴ軍を包囲したのです。ハンニバルの戦術を誰よりも深く理解した「弟子」であるスキピオの勝利が決定づけられた瞬間です。
ハンニバルの精鋭は最後まで抵抗し、全滅したといいます。
ハンニバルはわずかな供回りとともに、辛うじてローマ軍の追撃から逃れます。
ハンニバル・バルカの栄光と悲劇
実質的に将軍としてのハンニバルはここで終わるのですが、政治家としてカルタゴの再建を目指す彼の人生はここから始まるのです。
しかし、もはやローマとカルタゴの国力差は歴然としていました。そしてハンニバルは自分がいることがカルタゴにはマイナスになると判断し、祖国を去ります。
それからも多くの国を転々としますが、最後はビテュニア(現在のトルコ北部にあった小国)でローマの追手から逃れられないと知って毒を仰いだとされます。没年はBC183年、または182年とされています。
そしてライバルであり、ハンニバルの戦術の最大の理解社でもあったスキピオも政敵に弾劾され、2度とローマに戻らずひっそりと亡くなっています。奇しくもBC183年。
彼は自らの墓碑銘に、祖国への怨嗟の言葉を刻ませたといいます。
敗者だけでなく勝者さえ安らかな人生を終えることができなかったのです。
【参考文献】
講談社学術文庫 長谷川博隆著「ハンニバル」
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