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ノルマントン号事件をわかりやすく解説!日本人が軽視されたあの日の出来事!

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今の日本は、他国と平等な関係を築いています。

しかし、昔はそうではありませんでした。

外国人に対して有罪判決を下せない、そんな時代があったのです。

日本と他国の平等性が問題視されるようになったきっかけは、明治19年に起きたノルマントン号事件が大きく関わっています。

では、このノルマントン号事件では一体何が起きたのか詳しくご紹介します。

目次

ノルマントン号事件とは?

初代外務大臣の井上馨(1880年の写真)

明治19年である1886年10月24日、イギリス船籍のノルマントン号が紀州沖で座礁し、沈没しました。

そして、このノルマントン号で船長をしていたイギリス人が日本人の乗客25名を全員見殺しにした出来事をノルマントン号事件と言います。

領事裁判権に基づいて、イギリス領事館で裁判が行われましたが、なんと乗客25名を見殺しにした疑いがかけられたにもかかわらず、イギリス人船長には無罪判決が下りました。

この裁判の結果を受けて、日本国内では人種差別行為への反発と欧米との間に結ばれた不平等条約の領事裁判権に対する反発が起き、政府も不平等条約の改善に注力することとなりました。

ノルマントン号事件では何が起きた?

1886年10月24日、イギリス船籍であるノルマントン号は横浜港から神戸港に向けて移動していました。

ところが、事故当日は暴風雨に見舞われてしまい、三重県四日市から和歌山県樫野崎までの沖合で難破してしまい、沈没してしまいました。

ノルマントン号には、イギリス人である船長のほかに26名のイギリス人とドイツ人の乗組員が乗船していました。

外国人乗組員26名のみが無事に脱出することができ、残り25名の日本人乗船者は誰一人救出されることなく、全員死亡してしまいました。

この沈没事故を電報で知らされた当時の外務大臣である井上馨は、日本人のみが死亡したことに疑問を抱き、調査を命じます。

しかし、調査をするも不平等条約の領事裁判権によって阻まれてしまい、解決には至りませんでした。

ノルマントン号事件をめぐって国内の動き

事件から1週間が経過した11月1日、在日英国領事官による領事裁判権に基づいた裁判が行われました。

船長は「日本人に脱出を促したが、誰も英語を理解できなかった上に日本語を話すことのできる乗船者がいなかったため仕方なかった」といった内容の供述をしました。

11月5日、その供述が英国領事官によって認められてしまい、船長を含む全員に無罪判決が下りました。

この判決に、日本国内の誰もが憤慨し、日本の国権回復を求める声が上がりました。

欧米諸国の文明などを積極的に取り入れて欧化政策を行い、不平等条約改正交渉を進めていた井上馨も国内世論を止めることができず、再び裁判を行うことになりました。

二度目の裁判によって、12月8日に船長には有罪判決が下りましたが、処罰は禁固刑3ヶ月という軽いものでした。

しかし、イギリス公使から日本政府への抗議が入り、これ以上は日英関係が悪化してしまうという見解から、この判決結果を受け入れる姿勢になっていきました。

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不平等条約って何?

ノルマントン号事件では、不平等条約を結んでいることが問題となりました。

不平等と記されている通り、欧米諸国との間に当時結ばれていた条約は平等性にかけ、日本にとって不利且つ不利益なものでした。

では、この不平等条約がどのようなもので、なぜ結んでしまったのかについて詳しくご紹介いたします。

不平等条約の内容

不平等条約とは、条約を結んだ国に対して一方的に経済的且つ法律的に縛りを設けて、身動きを取れなくする条約のことを言います。

領事裁判権を認めていること、関税自主権を持っていないことによって2国間の間で平等性に欠けていました。

関税自主権を持たせないことで経済的に縛り、領事裁判権を認めることで法律的に縛ることが可能とされていたのです。

領事裁判権

領事裁判権とは、外国人が在留国において自国の領事官による裁判を受ける権利のことを言います。

この領事裁判権によって、在留国で犯罪を起こしても在留国によって不利な判決が下されてしまい、治安の乱れを招いてしまう可能性があります。

よく似たものに治外法権がありますが、領事裁判権と少し異なります。

簡単に説明すると、領事裁判権は自国の領事官によって自国の司法権のもと裁判が行われることであり、治外法権は外国人に対して日本の司法権だけでなく、行政権、立法権が適用されないことを指します。

関税自主権

関税自主権とは、関税を自主的に決めることのできる権利です。

関税とは、国が海外からの輸入品に対して課す税金のことを指します。関税は国に対して支払うお金であるため、国の収入源となります。

そのため、関税を課す側の国にとっては関税を高く設定して国の収入を増やしたいところですよね。

関税自主権がないということは、自国で自主的に税率を決めることができず、輸出国に税率変更の打診をしなくてはならないことを意味します。

しかし先述の通り、関税を課す側にとっては関税は高いほうがいいですが、課される側にとっては低いほうがいいですよね。

そのため、輸入品に頼っている日本において関税自主権を持たないというのは、国を運営する上で大きなダメージになります。

なぜ不平等条約を結んだのか

国にとってメリットがなく、また不平等である条約であるにもかかわらず、なぜ結んでしまったのでしょうか。

この不平等条約は以下の5つの国と結ばれていました。

・アメリカ

・イギリス

・オランダ

・フランス

・ロシア

この5か国と結んだ条約を安政五ヶ国条約と言い、当時の江戸幕府大老であった井伊直弼がこの条約を結びました。

領事裁判権を認めてしまった背景

領事裁判権を認めてしまった背景には、幕府が領事裁判権を認めることを不平等だと認識していなかったからではないかと言われています。

当時のアメリカ総領事であるハリスが「日本国民が悪いことをすれば、日本の責任であるので彼らを裁く必要があります。私達もアメリカ国民が悪いことをすれば、私達の責任で彼らを裁く必要があります」と日本側に言ったとされています。

自国のことは自国で、と言われると確かに納得してしまいますよね。

しかし、罪に対する認識は国によって異なるため、実際に被害にあった日本側にとっては重い罪であるのに対して、軽い処罰で済まされてしまうというケースが多発してしまいました。

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関税自主権を持たなかった背景

実は、日本は元々関税自主権を要求していました。

ところが、条約制定当初の輸入品に課せられた税率は、日本にとって不利益なものではありませんでした。

金銀類や生活必需品の1類は無税、石炭や食品類である2類は5%、酒類である3類は35%、その他4類は20%、また輸出品には一律5%の関税が課されることになったのです。

そのため、幕府はその税率で条約を結んでしまいました。

しかし、消費税が国内の状況によって変動するのと同じように、関税もずっと同じ税率でいるわけにはいきません。

その時々の状況によって変動せざるを得ないのです。そこで改訂協約が結ばれ、関税が改められました。

しかし、この時に改定された関税は先ほど述べた品類に応じた税率方式ではなく、重さや面積、個数などを考慮する方式となりました。

この改定により、高価で軽いものを輸入するときは有益であるのに対して、低価格で重さや面積の大きいものを輸入するときには不利益となりました。

改定したものの、日本にとって良い改定であったとは言えません。

領事裁判権を巡って起きた影響

領事裁判権を認めてしまったことによって、外国人による犯罪が日本各地で多発しました。

そうした経緯から、各地で攘夷運動という外国人を日本から追い出そうとする動きが活発化していきます。

しかし、攘夷運動は次第に、領事裁判権を認めた幕府が悪いという考えに変わっていき、攘夷運動は天皇を重んじる尊王攘夷運動へと変化していきます。

尊王攘夷派は、領事裁判権を認めた江戸幕府大老の井伊直弼の暗殺を企てましたが、暗殺計画を知っていた井伊直弼によって安政の大獄が行われます。

その後、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺されますが、条約を結んだ人が亡くなったところで、既に結ばれた条約が無効にはなるわけではないので、不平等条約は依然として残ったままでした。

そうした中で、幕府に日本を任せておくことはできないという動きが出て、倒幕運動へと発展していきました。

16代目将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を天皇に返納することで江戸幕府に終わりが訪れ、明治に時代が変わります。

明治時代に入ってすぐに、不平等条約改正のために岩倉使節団を派遣しますが、条約改正には至りませんでした。

そこで、不平等条約改正のためには日本が欧米諸国のような近代的国家であることを他国に示す必要があると考えられ、欧化政策という政策が進められている中でノルマントン号事件が起きてしまいました。

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ノルマントン号事件を経て不平等条約はどうなったか

ノルマントン号事件を経て、政府は不平等条約改正に注力しました。

しかし、一度結んでしまった条約を改正することは決して簡単なことではなく、長期戦となりました。

不平等条約を結んでいた欧米諸国にとっては自国に有利な条約であったので事が進まないのは無理もありませんよね。

欧米諸国へ再交渉するために、アジア諸国以外と平等条約を結ぶ前例を作りました。

1888年、メキシコとの間で日墨修好通商条約という平等条約を結ぶことに成功。

この日墨修好通商条約によって、日本の法権が回復していきました。

1894年には、イギリスとの間に日英通商航海条約が結ばれ、領事裁判権の撤廃が実現しました。

ノルマントン号事件から8年後のことです。

しかし、関税自主権の回復は経済的な縛りであったために中々事が進みませんでした。

欧米諸国との間で初めて関税自主権が認められたのは、日露戦争後である1907年にロシアとの間に結んだ日露新通商航海条約でした。

この日露新通商航海条約を機に、ほかの欧米諸国との間でも平等条約が結ばれ、関税自主権が完全に回復したのはなんと1911年のことでした。

関税自主権完全回復からまだ100年ほどしか経過していないのは意外ですよね。

ノルマントン号事件をわかりやすく解説!日本人が軽視されたあの日の出来事!・まとめ

このノルマントン号事件をきっかけに日本と欧米諸国は平等な関係構築に向けて動き出しました。

今日の日本において、欧米諸国との平等な関係が築けているのはこのときの条約改正への大きな動きがあったからとも言えます。

ノルマントン号事件で問題となった領事裁判権を巡って、尊王攘夷運動そして倒幕運動が起こり、新しい時代へと変化していきました。

ノルマントン事件によって、国民が声をあげていないと領事裁判権の撤廃はもっと遅かったのではないかと思います。

当時、声をあげた人々に感謝して海外の人々と関わっていきたいですね。

【参考文献・参考サイト】

「条約改正は近代の日本的システムにいかなる影響を与えたのか」本牧公夫

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