1944年5月、ニューギニアの北東に位置する島、ビアク島にて戦闘が開始されました。
美しい海、砂浜。上陸した日本兵はその美しさに感動したほどの景観をもつ島、ビアク島は激しい戦闘によってその様相が様変わりしたと伝わっています。
ビアク島の戦いについて、ビアク島とはどんな場所だったのか。
ビアク島での戦闘の様子や、戦闘を生き抜いた人々が伝える戦闘についてわかりやすく解説していきます。
絶対国防圏から外された島「ビアク島」
まず最初に、ビアク島とはどんな島なのでしょうか。
そして、ビアク島の戦いを考える上で必要となってくる「絶対国防圏」これらについて解説していきます。
ビアク島とはどんな島?
ビアク島は、インドネシアの東端、ニューギア島西部ヘルビング湾(現・チェンドラワシ湾)に位置する長さ72キロメートル、幅37キロメートル、面積は2427平方キロメートルの島です。
北西部に起伏の低い山が続き、最高峰は1034メートルのコリダ山となっており、南東部は平地となっています。
この付近の島には珍しく、広く長い平坦な土地があったということは大きな特徴です。
気候は赤道近くに位置していることから、年平均気温は20度以上、1年を通じて雨が多い熱帯雨林気候帯にあたります。
ビアク島は無人島ではなく、太平戦争中も島民の居住がありました。
住民はパプア系種族で、農耕と漁業に従事しています。
農耕ができる島、といっても土壌は石灰岩質で、日本の土質とは全く異なり、育つ作物は全く異なります。
日本から持ち込んだ作物が生産できないことは、日本軍を苦しめた1つの要因となりました。
太平洋の1つの島として見たときに、ビアク島は、日本軍の立場からすると、フィリピンから東部ニューギニアの前線に至る飛行経路にあたり、重要な拠点として捉えられます。
また、連合軍からしてみると、ビアク島はパラオとフィリピン南部を爆撃圏に収める位置にある島。
日本軍、連合軍共に重要な拠点であったのです。
これから順を追って解説していく「ビアク島の戦い」は、太平洋戦争において激しい抵抗を続けた戦いとして知られています。
ちなみに、ビアク島の戦いと同じように連合軍に対し、激しい抵抗を見せたのち全ての兵が玉砕、戦死したとされる「アッツ島(アリューシャン諸島の西端 アメリカ合衆国アラスカ州)の戦い」です。
これら2つの日本軍による抵抗は「北のアッツ、南のビアク」と称されるほど激しいものでした。
絶対国防圏の制定
1943年9月8日、ヨーロッパでイタリアが連合国に降伏しました。
イタリアは、第二次世界大戦において日本、ドイツと三国同盟を結んでいました。
これはアメリカを仮想敵とする軍事攻守同盟で、これがきっかけとなり、ヨーロッパとアジアが1つの戦場として結び付けられていったのです。
三国同盟により、3カ国は互いに協力し、政治的、経済的、軍事的方法により互いを援助することが定められていましたが、イタリアが降伏したことで流れが変わってきます。
日本はイタリア降伏による国際情勢の変化に対応すべく、降伏から1週間後の9月15日。
「絶対国防圏」という新しい戦略構想を大本営(天皇直属の最高戦争指導機関)が決定します。
これは、日本本土を守るために防衛線として絶対に確保しなければならない線引きのことです。
その範囲は千島列島(北海道本島の東、根室海峡からカムチャッカ半島の南にある千島海峡までに連なる列島)からマリアナ諸島(ミクロネシア北西部の諸島)、カロリン諸島(ミクロネシア南部の諸島)、西部ニューギニアを経てビルマ(現在のミャンマー)が含まれました。
ビアク島は、西部ニューギニアの端部分として、この絶対国防圏に組み込まれたのです。
絶対国防圏を外される
1943年9月、ビアク島は絶対国防圏に組み込まれました。
絶対国防圏に入ったと言うことは日本軍、連合軍共に空からの攻撃を考える上で要所になることから、攻守の拠点とすべく兵が送られることになります。
1943年12月、ビアク島に飛行場を建設する目的で送り込まれたのが第36師団の歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊です。
歩兵第222連隊とは、通称「雪3523部隊」と呼ばれる一団で、岩手県人を中心に東北地方出身者を中心に構成されていました。
1939年(昭和14年)に結成され、主に中国で戦いを重ねていた部隊であり、東北の出身という特性からかどちらかというと寒さに強い印象を受ける部隊だったそうです。
そんな彼らがビアク島に赴任、飛行場を建設するなどの任務に当たっていました。
1944年5月それまで日本軍と島民しかいなかった島に連合国軍が上陸してきます。
そんな折の1944年5月9日ビアク島は絶対国防圏の枠組みから外されることになりました。
「確保スへキ第一線ハ「ソロン」」
この電報がビアク島に向けて大本営より入ったのです。
ソロンとはビアク島よりさらに西にある島のこと。
日本軍の戦局の悪化により、守備ラインを後退せずにはいられなくなっていたのでした。
絶対国防圏の後退により、連合軍が侵攻しているにもかかわらず大本営はビアク島に対して後続の援軍を送らないことを決めました。
それは、ビアク島から撤退しろという命令とほぼ同義に当たるのですが、これに反発の意を示したのがビアク島を指揮していた第二方面軍司令官阿南惟幾大将です。
阿南大将とは「ビアク島を失うは、空母10隻を失うに等しい」
こう語ってビアク島を重視していた人物です。
連合軍のビアク島への侵攻、これから本格的な地上戦になるというときに入った後退命令に対し、阿南大将は、
「ビアク島は後退せざる前線陣地である」
と口頭で指示。
歩兵第222連隊に対して、ビアク島の死守を命じたこがビアク島の戦いを生むきっかけの命令だったと言えます。
ビアク島での戦闘
後退せざる前線陣地と位置付けられたビアク島。
当初、飛行場の建設が主目的であったこの島での作戦が、どのように悲惨な戦いへとシフトしていったのかについて解説していきます。
飛行場の建設
先に述べた通り、ビアク島へ日本軍が送り込まれたのは飛行場、航空基地を作るためでした。
第二方面軍司令官阿南惟幾大将の計画では、1944年の秋までには戦闘機、爆撃機合わせて3000機が収容できる5つの飛行場を完成させることになっていました。
1943年12月25日にビアク島に派遣された歩兵222連隊の総員は3900人。
地理的に日本から物資を輸送するのが難しい場所だったため現地で補給を担当する部隊が編成されたのもビアク島、南方戦線ならではです。
現地で農産物を作る農兵部隊、開拓勤務隊、漁船や鰹船を使って魚をとる漁撈(ぎょろう)班、収穫されたものを用いて加工する食品加工班、搾油班、製材班といった現地調達部隊が置かれます。
これらの部隊には予備役としてそれまで徴兵免除とされていた30から40代の専門家が招集されました。
この飛行場の建設は人手不足やその環境から難航したと伝わっています。
派遣された兵力だけではなかなか進まないことが見て取れると、台湾人を徴用して編成された部隊も導入され、最盛期には約6000人が飛行場建設に関わっていました。
全島がサンゴ礁でできているビアク島での工事。
さらに連日35度前後の炎天下の中、人海戦術での建設の試みは過酷であったようです。
日本初のブルドーザー(排土車)も2台ありましたが、コンクリート以上に硬い珊瑚礁大地には歯が立たず、使用開始から数日で破損。
修理することもできず、基本は人の手によって大木を伐採し、根っこを除去、石灰岩室の硬い珊瑚礁をツルハシで掘り砕き、ショベルでモッコに入れて運び整地するという原始的な方法で建設を進めていたそうです。
どんなに作業しても1日で大人一人が横になれる程度の範囲しか整地できなかったといいます。
そうした過酷な作業の一方で、兵士に行き渡る食量は微々たるものでした。
土壌の違いから、日本から持ち込んだ作物は根付かず、さらに毎日1、2回起きるスコールにより持ち込んだ食料が濡れてダメになってしまうことも少なくありません。
1食分の主食はどんぶりに盛り切り1杯、おかずは乾物の魚一切れといった状況が続いた結果、空腹と疲労とで体力が消耗。
部隊の間で、マラリアやアメーバ赤痢、デング熱などの患者が続出しました。
ビアク島は現在も大変きれいな海に囲まれた島ではあるのですが、その当時は赤痢患者の血便で汚れ、見るも無惨な有様でした。
そんな過酷な状況下においても1944年4月。
兵士たちの努力は結び、予定されていた5つの飛行場のうち、3つが完成しました。
本来、ビアク島には陸軍の航空軍が配備される予定になっていました。
しかしこのときすでに日本の航空軍は壊滅的だったため、飛来することができませんでした。
その一方で、連合軍は大本営の予想を超えるスピードで進行していました。
使われることのない飛行場。なかなか日本からやってこない航空軍。
十分な補給もない中、ビアク島の兵士たちは連合軍と対峙しなければならなくなっていったのです。
輸送の失敗
1944年4月28日。
ついに連合軍は爆撃機を中心とした大編成でビアク島に対し空襲を開始しました。
飛行場は重点的に爆撃され、わずかばかりの海軍の航空機が迎え打ちましたが、全く歯が立たなかったことは想像に難くないでしょう。
戦闘開始1週間で、ビアク島に所属する迎撃可能な航空機は全てなくなりました。
また、苦心して造営した飛行場も爆弾の穴だらけ。
第二方面軍司令官阿南惟幾大将が描いた「ビアク島を航空基地にする」という計画は潰れてしまったのです。
ではそもそもビアク島は歩兵第222連隊を中心とした第36師団だけで開拓、防衛を担う予定だったのでしょうか。
実はそうではありません。
絶対国防圏の端の重要な拠点を担うこの島には、本来もっと多くの兵が配置される予定になっていました。
当初第36師団に続き、第3師団(名古屋出身者を中心に編成した部隊で第日本帝国陸軍の師団の中でも最も古い師団の1つ)が派遣される予定だったのです。
しかし派遣の段階になり、第3師団は中国大陸での作戦にどうしても必要だという意見から、派遣される部隊が第14師団(宇都宮出身者中心の部隊)に変更になります。
ところが、この第14師団もマリアナ諸島に派遣されることになり、後任は第35師団(東京出身者が中心の部隊東兵団)と第32師団(東京出身者が中心の部隊楓兵団)が派遣されることになりました。
この度重なる変更の背景にあったのは当時の戦況の悪化に対し、内閣総理大臣の東條英機が判断を迷ったせいだと言われています。
ともあれ、やっと派遣が決まった第35師団、第32師団でしたが、この時にはすでに太平洋の制空、制海権は失われています。
輸送が成功するか否かは、まさに神頼みな状況でした。
そこで、輸送船団が無事に現地に到着するようにと、せめて作戦に縁起のいい名前をつけ送り出されることになります。
この時は「竹輸送」の一号船団であったっということで「竹一船団」と名付けられました。
1944年4月21日、上海から竹一船団はビアク島に向けて出港。
しかし、1944年4月26日には第32師団の主力が乗る船が撃沈、3500人中2700人が戦死しました。
また5月6日には第35師団が乗る船が沈没。ここでも約2000人が戦死してしまったのです。
残った兵士たちは目的地に到着することができず、竹一船団による輸送は失敗してしまいました。
そんな時期にビアク島に起きたのが連合軍からの大規模な爆撃だったのです。
援軍の失敗
大規模な空襲から約1ヶ月後の1944年5月27日、大規模な船団がビアク島に向かってきました。
連合軍による上陸作戦が開始されたのです。
連合軍は、戦車を加えた1万人近い大軍、後方部隊なども合わせると約3万人がビアク島の戦いに参加しました。
これに対し日本軍は歩兵第222連隊、海軍配属部隊、後方勤務隊員合わせて約1万2800人。
九五式軽戦車9両で迎え撃ちましたが、わずか2日の戦闘で7両がやられてしまい、ほぼ戦力にはならなかったといいます。
この連合軍からの攻撃を受け、大本営陸・海軍部はフィリピンのミンダナオ島の西にいた陸軍の海上機動第二旅団をビアク島に派遣することを決定します。
この作戦は「渾作戦(こんさくせん)」と名づけられました。
渾作戦は3度にわたって決行されます。
しかし1944年6月2日に決行された第一次渾作戦は、陸軍司令部偵察機が空母2隻を発見したと報告したことで中止。(実際は誤報だったと言われます。)
1944年6月8日、第二次渾作戦は、出撃後間も無く敵機の攻撃を受け、駆逐艦春雨が撃沈されたことに加え、ビアク島上陸地点を目前に激しい攻撃にさらされたため中止。
第三次渾作戦に至っては、戦艦大和、戦艦武蔵が作戦任務を受けて出港するも、1944年6月11日にアメリカの空母部隊がマリアナ方面に来襲したため中止となってしまいます。
そして1944年6月15日。
ビアク島への補給、輸送は正式に打ち切りになりました。
こうしてますますビアク島は孤立していくことになってしまったのです。
洞窟での戦い
連合軍の上陸の1番の目的は、ビアク島に作られた飛行場の制圧でした。
補給もなく、援軍も望めなくなったビアク島でしたが、日本軍は肉迫攻撃(身をもって敵地などに迫ること)をもって連合軍に立ち向かいます。
ビアク島での戦いは、兵力の大きな差を前にしても善戦したとして「全軍の模範」として日本軍の中で称えられたこともあったそうです。
しかし、そんな戦いも次第に追い詰められ、ついに1944年6月7日には第一飛行場が連合軍の手に落ちます。
ビアク島の土壌が石灰岩質であるということは先述した通りですが、そんなビアク島には至る所に大小様々な洞窟が存在します。
飛行場が奪われ、島自体に補給がこない中、これらの洞窟に日本軍は隠れ、連合国軍による攻撃を避けようとしたのです。
ビアク島における最大の洞窟「西洞窟」は日本軍が最後に立て籠った場所になります。
天井までの高さはおよそ20メートル、1000人が収容できた広い洞窟で、ここに司令部が置かれました。
ビアク島の完全掌握のため、連合国軍は西洞窟を包囲し、戦車、大型砲といった火力による攻撃を加えます。
中にはガソリンの入ったドラム缶に火をつけたものを投げ込むといった攻撃もあったのだとか。
凄まじい攻撃が続く1944年6月21日。
全滅を覚悟した歩兵第222連隊の支隊長葛目直幸大佐により、22日午前2時に総員突撃の命令が下され、軍旗が焼き払われました。
軍旗を焼き払う、これは軍において重要な意味を持つ行動です。軍旗は明治時代に日本軍が創設されて以来、天皇から授与される伝統がありました。
それ故に、敵の手に渡すことは絶対に許されず、旗手は命がけで旗を守り、玉砕(ぎょくさい・全力で戦って死ぬこと)が予想される際には、あえて焼却することが建前として決められていました。
これを「奉焼」と言います。
そして奉焼を決めた連隊長は全ての責任を負って自決する。
ここまでが不文律でセットになっていました。
つまり、生きて帰ることのない最後の戦いの命令が下されたということなのです。
戦闘の悲惨さ
補給がない中、島に残された日本軍はどのような日々を過ごしたのでしょうか。
日本軍の立場、そして連合国軍の立場から見たビアク島の戦いについて解説していきます。
戦いの結果
1944年6月21日、総員玉砕を告げる命令が葛目大佐より出されました。
しかし実際には、この命令は副官たちによって遮られます。
「七度生まれ変わって敵を殲滅(せんめつ)し、七生報国(この世に生まれ変わる限り、国に報い続けること)の誠を捧げるため、総員突撃は中止、支隊高地へ転進するに決した」
つまり、西洞窟から脱出せよとの命令に置き換わったのです。
西洞窟はじめ、ビアク島各地の日本軍は連合軍に追われながらも次第に撤退。
その最中の1944年7月2日には、葛目大佐は引責自決をしました。
1944年7月22日、前月6月27日付で発信されていた第二軍司令部からの命令を大森正夫支隊長代理が受け取ります。
「ビアク支隊は玉砕することなく、極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ、次期攻勢を準備すべし」
この時にはすでに食料は尽きており、この時点で生存者は元の1割程度、1600人まで激減していました。
健在し、自活せよ。
その命令のもと、日本軍は先の見えない連合軍との戦い、というよりむしろ自分自身との戦いを1945年の終戦まで続けなければならなくなりました。
終戦後、生還できた日本軍はわずか520人。一方で、連合国軍側の戦死者は471人でした。
実は連合軍がビアク島での作戦終結を決めたのは1944年7月22日のことでしたが、集結してもなおそれを知らない日本軍は戦いつづけたのですね。
生存者の証言
「紺碧の空の下、群青の海の只中に白く輝くリーフの海岸と、鬱蒼と茂る熱帯樹の島々のたたずまいは、まことお伽の国のものであった。
それはとても戦場に来たという感じはなかった。
着いた日が丁度クリスマスの日であり、この島が世界でも珍しい風鳥・極楽鳥の生息する島と聞いていただけに、まさに「天国近づけり」との聖書の一節を私は心の中に思いながら、ひととき戦場に在ることを忘れる程であった。」
佐々木仁朗『ニューギニア戦歌集 ビアクの砂』
そんな表現がされたビアク島。
この戦闘の結果、わずか3%ばかりのの日本軍しか生き残ることができませんでした。
奉焼が行われた後の西洞窟では、想像するも辛いくらいの状況が起こります。
「総員突撃、軍旗奉焼と聞いて、重傷者の自決する銃声がまたも相次ぎ、やけくそで米軍戦車への肉攻に飛び出すものなど、洞窟内は悲痛な状況になりました。」
高田誠『万死に生く 雪部隊の最後』
食べ物もなく、互いに奪い合う。動いているものはなんでも食べる。
体が動かなくなった者に虫がたかってあっという間に白骨化してしまう。
母を呼ぶもの、妻を呼ぶもの、子を呼ぶもの。
水を求めて死んでいくもの。
筆舌し難い地獄がそこにはあったとされます。
チャールズ・リンドバーグの戦争
チャールズ・リンドバーグをご存知でしょうか?
リンドバーグはアメリカ合衆国の飛行家で、1927年には大西洋単独無着陸飛行を、1931年には北太平洋横断飛行を成し遂げた人物です。
この当時の有名飛行機乗りだったわけですね。
そんなリンドバーグは第二次世界大戦に参戦、ビアク島の戦いにも従軍し、手記が残っています。
「7月21日金曜日
今朝、ビアク島にたてこもる日本軍の強力な拠点に攻撃を加えることになった。数百の日本兵が幅300ヤード、全長1100ヤードの地域にわたり、洞窟や岩の割れ目に身を潜めているのである。(略)
激しい砲火は樹木の枝葉をもぎとり、尾根そのものは稜線がくっきりと青空に浮かび上がるほどになっている。
(略)
私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。
あの焼けただれた地域の地評価に極限の苦悶が隠されているのだ。
飢餓、絶望、そして死に瀕した男たち。
ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしてもあえて投降しようとはしない、なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかなのだから。
しかし、われわれは彼らに爆撃を加えて洞窟からいぶり出さねばならぬ。戦争だからである。(略)」
リンドバークが記したのはビアク島の戦いのことだけではありません。
連合国軍の一員として南方戦線を戦って生き抜いたリンドバーグが見た自国軍の残虐性。
そして自分達が進軍した後に残る日本軍の悲惨な死。
これらがリアルに参加していた人の声だからこそよく伝わってきます。
日本にいると、日本人が書いた「太平洋戦争」の資料ばかりに目が行きがちですが、反対の立場から見た戦争を知ることも大切なのではないかと思います。
ビアク島の戦いとは?渾作戦って?マジで最悪な戦いだった!まとめ
今現在も美しい海に囲まれたビアク島は、太平洋戦争当時悲惨と言える戦いが繰り広げられた場所の一つです。
「ジャングルや谷間や高地で、そして珊瑚礁の陰で、無惨・無念の死を遂げていった戦友たちに代わって、戦争のおそろしさ、おろかさを語り継いでいく義務があるんだと考えるようになりました。私はそれが戦友たちの鎮魂にもなるのだと思うようになったのです。」
この戦いを生き抜いた佐々木市男さんの言葉です。
太平洋戦争が遥か昔の出来事に思えるとしても、この地で戦った人がいること。
そして、無惨にも死んでいった人々がいることは決して忘れてはいけないと思います。
次に読みたい記事はこちら
- 第2次世界大戦とは?わかりやすく解説!敗戦で日本が唯一の被爆国に!悲惨!
- 映画「硫黄島からの手紙」を見た海外の反応が気になる!海外の映画レビューをご紹介!
- 「硫黄島の戦い」海外の反応は?その戦いは外国人にとって「恐怖」だった?
- 第二次世界大戦ってどんなもの?世界一わかりやすく解説します!
- 第二次世界大戦で疲弊した日本はどのように復活していったのか?
- 沖縄戦をわかりやすく解説!沖縄戦の特徴や原因は?沖縄は絶対にとらなければならない!!
- マッカーサーの五大改革指令とは?わかりやすく解説!戦争を二度としないために作った改革!
【参考文献】
「日本はいかに敗れたか(上)マリアナ沖海戦終了まで」奧宮正武、PHP研究所
「玉砕ビアク島 「学ばざる軍隊」帝国陸軍の戦争」田村洋三、光人社
「孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記」チャールズ・リンドバーグ、学研M文庫
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%AF%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000
http://burari2161.fc2web.com/hohei222rentai.htm
http://militarywardiplomacy.blogspot.com/2018/10/blog-post.html
https://heiwa.yomitan.jp/4/3261.html
コメント