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第二次世界大戦で疲弊した日本はどのように復活していったのか?

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みなさん、こんにちは!

前回、第二次世界大戦の終戦までをお話ししました。

日本は負け、日本だけではないですがたくさんの民間人が命を落としました。

しかし現在日本は先進国と言われる国に発展しました。

敗戦国の日本が現在の姿になるまでの流れをわかりやすく解説していきたいと思います!

目次

第二次世界大戦後の日本

8月に二度の原爆を落とされ、大敗した日本。たくさんの民間人が命を落としました。

降伏後、どうなっていたのか見ていきましょう!

敗戦国日本

8月15日、日本は降伏し玉音放送が流れました。

日本政府はこれを終戦と呼びましたが、まぎれもない敗戦でした。開戦当時から比べると、日本国民の4%近くもの人が犠牲になりました。

この他にも負傷した人や、病気にかかった人、または家を失った人が大勢いて、日本は息も絶え絶えでした。

息も絶え絶えだったのは人だけではありません。

戦中の物資の為に森林を伐採しまくった結果、山ははげ山だらけになっていました。

その結果なにが起こるのか?

山の保水力がなくなり、雨が降ると洪水になるのです。

人も土地も散々な姿になっていたのでした。

さらにかつて日本の領土だった朝鮮半島や台湾からの農産物は途絶え、国外にいた600万人もの人が帰国してきました。

家も食べる物もない、日本は存亡の危機に直面していました。さて、日本では戦中から食べ物や物資が配給制でした。

各家庭に切符が配付され、それと食べ物やマッチなどの物資を交換するのです。

それ以外からこれらを手に入れることは違法とされていました。

闇市の横行

そんな配給制は終戦と共に機能しなくなり、米の配給はわずかで、その代わりに芋が配給されましたがそれも機能していませんでした。

人々は配給に頼っていては食べ物が手に入らないので、違法とはわかっていても闇市で手に入れるほかなかったのです。

特に都会に住んでいる人が食べ物を手に入れることは困難で、農村まで買いにいくこともありました。

着てる服を現金に変えて食べ物を売ってもらう、そんなことをしていました。

一枚、また一枚と着物を脱いでいく姿から「タケノコ生活」と呼ばれました。

そのぐらい物がない日本に続々と海外から帰国した人たちで人口は激増しました。

需要と供給が圧倒的にあっていないのです。

さらに政府から敗戦で失職した軍人と関係者700万人に退職金が一斉に支払われ、現金が世の中に大量に出回りました。

政府のインフレ対策

その結果起きるのがインフレです。ものがないのに、欲しい人はたくさんいて、お金も持っている。

そうすると物価が急上昇するのです。

このインフレをどうにかする為に政府は世の中に出回る現金を強制的に減らす手段を講じました。

その手段とは、「新円」への切替です。

1946年2月末までに旧紙幣を銀行に全て預けさせた上で、預金を封鎖して自由に引き出すことができないようにしました。

現代だったら暴動が起きそうなくらいの強引さですね。

翌月からは上限つきで引き出せるようにはなりましたが、給与も500円までは新円での支給で、それ以上は封鎖預金に入れさせられました。

この新円への切替は、銀行を守るためのものでもありました。

インフレの中では現金より物の価値のほうが高くなっているので、人々は預金を全部おろして物に変えようとします。

そうすると、金融機関が倒産する可能性があったのです。

しかしこの手段ではインフレを完全に抑えることはできず、人々は自分の預金に入っているお金の価値がどんどん下がっていくのをただ見ているしかできませんでした。

当時の日本政府は国民の犠牲のもと金融機関を守ったのです。

アメリカによる日本統治

ダグラスマッカーサー

1945年8月30日、厚木飛行場にダグラス・マッカーサーが降り立ちました。

コーンパイプを手にしている、教科書でよく見る写真の人です。

マッカーサーは日本を占領した連合国最高司令官総司令部、いわゆるGHQの最高司令官でした。

ドイツは連合国の直接占領でしたが、日本は連合国が政府の上に位置するという間接占領になりました。

日本政府が今まで通り日本を統治しますが、方針は全てGHQの許可が必要ということです。

また沖縄は、1972年に返還されるまでアメリカの直接統治でした。少し話はそれますが、筆者の出身地は沖縄県の宮古島です。

父が幼い頃はまだアメリカに占領されていて、家の前の通りを「おきなわーをーかーえせー」と歌いながら行進している人達がいたそうです。

これも歴史のワンシーンですね。

話を戻します。

日本は連合国の間接統治とはいえ、実際にはアメリカの単独占領といえるものでした。

ドイツが東西分裂したような悲劇は避けられました。

さて、GHQは日本で何をしたのか見ていきましょう。

GHQの改革とは?

GHQの改革には主に3つの政策がありました。

①農地改革

②財閥解体

③労働改革

この3つの内容を見ていきましょう。

農地改革

まずは①農地改革から。

GHQは、日本社会の民主化を進めることにしました。

日本は封建社会の色が濃く、国内の生産性も十分ではなかった為国外侵略に繋がった、と考えたわけです。

封建社会の原因は農村にあり、地主が小作農を雇って土地を耕させている。

この地主と小作農の関係こそが封建社会を作っている、ということでこれが農地改革になりました。

日本を民主化する為に農地改革を行ったのです。

戦前の農村では、地主は都会に住んでいて小作農が代わりに土地を耕している例が多くありました。

これを不在地主といいます。農地改革では、不在地主の持つ土地を全て取り上げました。

農村に住んでいる地主の土地にも制限をつけ、制限を超えた土地は全て国が買収しました。

人というのは同じ農地でも自分の土地となると俄然生産意欲が湧いてくるものなのです。

日本の農業生産は飛躍的に成長しました。

財閥解体

次に②財閥解体です。

日本国内の労働者に権利を与え、労働環境の改善により国民の購買意欲があがれば国内に市場を拡大することになる。

そうすれば日本企業はアジアに進出する必要がなくなり、侵略をすることはなくなるだろう、ということで財閥解体と労働改革を推進しました。

財閥とは、あらゆる産業にまたがる系列会社の株を一手にもつことで経営権を握っている金持ちの一族のことです。

三井、三菱、住友、安田の四大財閥や、中小財閥も含めて83社が解散または整理させられました。

財閥の一族は経営から追放され、財産も取り上げられたのです。

企業をそこまでにするのにも大変な努力があったろうに・・・とも思いますね。

大日本麦酒も今のサッポロビールとアサヒビールに分割されました。市場を独占していた企業が分割されることにより企業同士の競争が起こり、日本の経済は成長しました。

ここまで見ていくと、アメリカが日本を発展させようとしたようにも見えますがそういうわけではありません。

アメリカは日本を二度と戦争を起こさない国にしようと考えていました。

その結果として、日本の経済発展の条件を作りだしたのでした。

労働改革

さて最後の③労働改革です。

戦中の日本では労働組合は解散させられていました。戦争するにあたって、労働組合の存在は邪魔だったのです。

GHQは、民主化の一環として労働組合の結成を推奨しました。

1946年には12000もの労働組合が結成され、労働者の組合率は41.5%に上りました。

組合運動は盛り上がり、大幅賃上げや労働条件の改善を獲得していったのでした。

運動は純粋に経済的な要求だけだったのが、次第に政治闘争のようなかたちになっていき、吉田茂内閣の辞職を要求するまでになりました。

そして1947年2月1日、400万人もの労働者が一斉にストライキを起こす予定を立てたのです。

いわゆるゼネストというやつです。

あらゆる産業にまたがって労働組合がストライキに入ることです。

電話、郵便などの公共事業だけでなく、多くの民間企業もストに入る予定でした。

現代の日本人より熱がある感じがしますね。

この動きをみて、日本でも社会主義革命が起きるかもしれない、と多くの人が考えました。

社会主義と対立している国といえばやはりアメリカ。GHQによってこのストライキは中止命令がでました。

労働組合もGHQの命令には従うしかなかったのですね。

アメリカは、この盛り上がりをみて今度は弾圧する側にまわりました。ストライキ中止のあと、公務員のストライキをする権利を剥奪し、違法としました。

日本も東西冷戦とは無関係とはいかず、アメリカの方針転換に振り回されていたのでした。

東西冷戦と朝鮮半島の二分

先程から少しでてきている東西冷戦に触れていきましょう。

東西冷戦とは、アメリカを中心とする西側諸国の資本主義国家と、ソ連を中心とする東側諸国の社会主義国家による対立のことです。

銃や戦車などの武器を使わないことから冷戦と呼ばれました。

第二次世界大戦の終盤に行われた、連合国によるヤルタ会談で東ヨーロッパはソ連が、西ヨーロッパはイギリス・アメリカが占領し、いずれは民主主義の国を作っていきましょうと3か国で約束しました。

しかしソ連はそんな約束を平然と破り、ソ連の言うことを聞いてくれる社会主義国家を次々と作りあげていったのでした。

さらに日本が降伏と同時に朝鮮半島から撤退すると、ソ連が朝鮮半島を支配しようと南下してきました。

これに危機感を持ったのがアメリカです。

朝鮮半島分裂

そしてソ連に対して、朝鮮半島を南北で分割して統治しようと持ちかけたのです。朝鮮半島を支配していた日本は分割されず、支配されていた朝鮮半島は分割された。

ドイツは戦争を起こした側だから分割されることに同情的ではなくても、朝鮮半島は日本に支配されていたせいで分割されました。

こうして北緯38度線で南北に分かれてしまったのです。

朝鮮半島からすると心中穏やかではないのは当然ですね・・・。

朝鮮半島は、今まで占領している国が変わってきただけで、アメリカのような独立戦争で勝ったという歴史がありません。

そこで、自分達の国はこうしてできあがった国なのだというルーツが必要になりました。

建国神話が必要なのです。

では、どのような建国神話で建国まで至ったのかを見ていきましょう。

北朝鮮の建国

朝鮮半島は38度線で分割された後、やはりここでもソ連は民主的な国の建国を拒否し、ソ連の言うことを聞いてくれる国を作ろうとします。

ソ連は金日成を北朝鮮のトップに置きました。

彼は日本の統治時代ソ連に逃げ込んでいて、ソ連軍の大尉でした。

いかにもソ連のいうことを聞いてくれそうですね。

ここで北朝鮮の建国神話の登場です。

日帝三六年という、日本の統治下にあった時代を忘れるな、という意味合いの言葉が朝鮮半島にはあります。

その36年間、日本と勇敢に戦い続けた金日成という将軍がいるという話が朝鮮半島には広がっていました。

北朝鮮の国民はその伝説に胸を躍らせていたのです。

そしてキム・ソンジュという男が金日成を名乗り始めます。

そしてソ連はその金日成伝説を利用して、北朝鮮のトップとして本名キム・ソンジュという人を金日成として送り込みました。

伝説の金日成将軍の凱旋でした。日本支配からの解放を祝う祝典で、金日成は初めて民衆の前に姿を現しました。

伝説の金日成を一目見る為にスタジアムに人が集まったのです。

民衆はワクワクしています。

「36年も日本と戦った将軍でしょー?どんな白髪の人が出てくるんだろう!」と様々な想像を膨らませたでしょう。

しかしそんな民衆の前に現れた伝説の将軍は、33歳の若者でした。

当然、民衆もざわつきます。

すると、警備をしていたソ連軍の兵士が突然「うるせぇ!!!!」と発砲し騒ぎを収めたそうです。

国民はその時察知しました、この国はやばくなると・・・・・

こうして北朝鮮が建国されました。

韓国の建国

李承晩 第二次世界大戦後

1945年、ソ連が朝鮮半島に侵略してきました。

朝鮮半島をソ連から守るために、アメリカが朝鮮半島南部に入ります。韓国は、アメリカに占領されたことによってできた国とも言えるのです。

さて、韓国における建国神話はどんなものでしょう。反日感情の元となったと言っても過言ではない建国神話はこのようなものでした。

韓国が日本に占領されている間に上海には大韓民国臨時政府というものがありました。

その大韓民国臨時政府が三・一独立運動で日本に抵抗したおかげで韓国での独立を勝ち取った!!

というものが建国神話です。

神話というくらいなので、全てが実話ということではありません。

大韓民国臨時政府というものは実際に上海にありましたが、中国が全て出資しており、ひとつの独立した組織と呼べるものではありませんでした。

さらに、日本軍と戦った記録もありません。

しかし、建国にあたってなにか使えそうな話ということでこの話が持ちあがったのでしょう。

建国神話が抗日運動で日本と戦った人達の後継者の国だというのです。

反日感情のルーツもここにあるのですね・・・。

なんだか気持ちもわかるような気がします。

さて、初代大統領にはイ・スンマンが選ばれました。

アメリカも彼が大統領になることを推していました。

アメリカの大学に通い、キリスト教徒であったので、アメリカ的な民主主義の国を作るだろう、と考えたことが理由です。

こうして韓国が建国されました。

朝鮮戦争の開戦と日本の高度経済成長

朝鮮戦争は、北朝鮮の金日成がソ連と中国に、朝鮮半島を統一したい!という野望を明かしたところから始まります。

ソ連は最初、やめておきなさいと窘めました。

しかし金日成がどうーーーーーーしても攻め込みたいということで、戦車を貸し出すことになります。

一方韓国側は戦車など持っていませんでした。朝鮮半島には山間部が多く、戦車の出る幕ではないと思われていたことが理由です。

まあ、攻めてこないだろうと韓国は油断しまくっていました。

そんなとき、北朝鮮が奇襲攻撃をしかけたのです。

援助もされていない韓国が北朝鮮に兵力で勝てるわけもなく、あっという間にソウルは陥落しました。

ソ連から兵器を援助してもらっていた北朝鮮の快進撃は止まりません。朝鮮半島南東部の釜山まで一気に攻め込みました。韓国は壊滅寸前です。

ここまできてやっとアメリカ率いる国連軍が動き出します。

指揮をとったのは、日本にいたマッカーサーでした。

朝鮮半島に縦に伸びきった北朝鮮の補給ラインを断ち切るように仁川から上陸しました。

この作戦は見事成功し、元の38度線まで押し上げます。マッカーサーはここでは止まりません。

さらに押し上げ、北朝鮮の北部まで追い詰めました。

38度線まできた時に終わらせておけばよかったのに・・・と思います。ここで動き出した国がありました。中国です。

このまま北朝鮮が潰されてしまうと、アメリカの思惑通りになってしまうかもしれない・・・ということで、北朝鮮を支援します。

しかし、ソ連も中国も国連常任理事国です。真向から国連軍とぶつかるわけにはいかないのです。

さてどうするか?中国は、人民義勇軍という名前で兵を派遣しました。正規軍でぶつかるわけにはいかないので、民間の人が勝手に行ったというたてつけです。

しかし、中国軍が来るとは思っていなかった国連軍にはとても効果があり、また38度線まで押し戻されました。

この戦争でおいしい思いをしたのが他でもない日本でした。日本はアメリカ軍の前線基地となり、兵器や物資も日本のものが飛ぶように売れました。

戦争特需です。

朝鮮戦争開戦とともに日本は高度経済成長を迎えたのですね。

ものを作れば作るほど売れ、フィーバー状態です。していったのか?戦争によって壊滅し、戦争によって復活する。

皮肉な話でした。

第二次世界大戦からの日本の復活・まとめ

反日、嫌韓という言葉ができて久しいですね。

反日と言われると悲しい気持ちになりますが、歴史を見てみると理解ができるところも出てくるのではないでしょうか。

スケールはそれぞれですが、人の感情の動きにはいつも理由があるのです。

恋愛感情だったり、怒りだったり悲しみだったり、全て理由があってそうなっているということです。

立場によって価値観が変わる。

感情も変わる。

そうなるとひとつにまとまることは難しいですが、いつか仲がよくなることを望むばかりですね。

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