「カンボジア」と聞いて、皆さんはどんなことを思い浮かべますか?
世界遺産になっているアンコール・ワット、国民の多くが虐殺されたというポル・ポト政権、今も続く地雷問題、それから?考えてしまいますね。
日本は、第二次世界大戦中に、一時的にですがカンボジア(当時はインドシナという名前でした)を占領したことがあります。
またカンボジア復興時代には、技術派遣などを行っていましたので、意外な繋がりもあります。
カンボジアってどんな国なのでしょう。その歴史について解説します。
先史時代(紀元前4200年~紀元前後)
カンボジアで最も古い人間の痕跡は、紀元前4200年頃と言われています。
カンボジア北西部ラアン・スピアンにある洞窟から発見された人間の生活の跡です。
また紀元前3000年頃には、海岸近くに人が住んでいたとも考えられています。
しかしこの頃については、文献などの資料がなく、わからないことが多いです。
前アンコール時代(紀元前後~802年)
1世紀頃、インド人商人がインドシナ半島南部(現在のコーチシナ地方)に来航し、交易活動を行っていました。
そのため、ヒンドゥー教の広がりなどのインド文化の影響を受けた扶南が建国されました。
扶南は、海外との交易により国家を発展させました。
5~6世紀になると、クメール人の南下により、真臘(しんろう)へと発展していきます。7世紀には、真臘は扶南を併合します。
8世紀初頭に、真臘は、海岸部の「水真臘」と内陸部の「陸真臘」に分裂しますが、802年、ジャワから帰国したジャヤバルマン二世によって再統一されます。
アンコール時代(802年~1431年)
ジャヤバルマン二世は即位後、アンコール朝を創設しました。
アンコール文化の幕開けです。
ジャヤバルマン二世に続くインドラヴァルマン一世は、首都を「ハリハラーラヤ」に定めました。
889年に即位したヤショーヴァルマン一世は、アンコールを王都とし、ブノン・バケンを中心とした約4㎞四方の大環状都城を建造しました。
その後、約550年にわたって都城と寺院が建築され続けました。
王都をアンコール地域におき、アンコール・ワット、バイヨンなどの大石造寺院を建設していたこの時代が、アンコール朝の隆盛期と言われています。
アンコール朝は1431年まで続き、豊かな王国を築きました。その中でも有名なのは、アンコール・ワットを築いたスールヤバルマン二世と、アンコール・トムを築いたジャヤバルマン七世です。
スールヤバルマン二世は太陽王と呼ばれ、彼が築いたアンコール・ワットには、ヒンドゥー教にまつわる壁画が多く描かれています。
ジャヤバルマン七世の時代は、カンボジアが一番栄えた時代です。
しかしジャヤバルマン七世の死後、度重なる遠征や大寺院の建造などによって、国力は急激に衰退します。
1431年頃には、シャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝にアンコールを攻略され、アンコール朝は陥落しました。
ここからカンボジアの苦難の時代が始まります。
後アンコール時代(1431年~1863年)
アンコール放棄以来、カンボジアの王権は、王都を転々と移動していきました。
15世紀以降は西のシャム(アユタヤ朝、バンコク朝)、17世紀以降は東のベトナム(阮朝(チェン朝))に領土を徐々に侵略されていきます。
カンボジアは、ビルマとの戦争で弱体化したシャムのアユタヤ朝に戦闘を仕掛けることもありましたが巻き返しにあい、カンボジア王室にはシャム王室の影響力が強まります。
同時に、王室内の内紛や地方官僚の離反にあい王権はますます弱体化し国力もますます衰退していきました。
1845年にシャムとベトナムの妥協が成立し1847年にアンドゥオン王が正式に即位すると、国内は一時的に平和になります。
しかし、実質的にはシャムとベトナムの隸属状態に置かれていました。
フランス領植民地時代
1800年代、世界各国が、インドシナ(インドと中国の間)を植民地にしようと激しい争いが起こっていました。
その動きの中で、アンドゥオン王は、シャムとベトナムの二重軍属状態を脱するために、アジアに進出していたフランスに接近します。
1887年、フランス領インドシナ連邦の成立とともに、インドシナ植民地の一部に編入され、1953年に独立するまで、フランスの支配を受け続けました。
フランス文化の影響
言語はフランス語となり、その時代を生きた人々はフランス語が話せます。この特技を生かして、生活をすることもできました。
またこの頃には、フランス文化も広がりを見せ、カンボジアのバゲットはとてもおいしいと言われています。
仏領となったことは、カンボジアにとって悪いことだけではなく、シャムからトンレサップ湖やアンコール朝が栄えた場所を返還してもらえることができました。
フランスは、植民地時代を通じて、王朝、王権、仏教といったカンボジア固有の「伝統」を温存しました。
その一方で、社会経済開発や近代的教育制度などの導入は、積極的に進めませんでした。
地方で中国人移民やベトナム人労働者を受け入れ、カンボジア人の代わりに社会経済の担い手として利用していきました。
この結果、クメール人の民族意識の形成は遅くなり、1930年代にならなければ本格的な民族主義運動は開始されませんでした。
カンボジア独立
その間に第二次世界大戦が起こり、フランスが弱体化します。
そのため日本人が一時期インドシナを占領します。この時、カンボジア人は大きな抵抗もせず、占領していたフランス人兵士もあっさり退却しました。
カンボジアには、日本軍のなごりが残っており年配の方には日本語が話せる方もいます。
第二次世界大戦での日本の敗北により、日本人のインドシナ占領も終わりを告げました。
その後1953年にシアヌーク王が、完全独立を果たし、フランス植民が終わります。
シアヌーク時代(1953~1970年)
シアヌーク王は、インド、中国、フランスとの関係を重視しつつも東西陣営のどちらにも属さない非同盟中立として中立外交を推進しました。
カンボジアでは、独立・平和維持・領土保全のための方策として、非同盟の中立主義が外交政策の基本方針となりました。
シアヌーク王は、南方上座仏教(小乗仏教)を国の宗教としました。また芸能・文化の発展に力を入れました。
また政治にも関わり、王政社会主義を唱えました。
ところが、その政策や社会主義への考え方に不満を持つ人々も出てきました。
1970年に、ロン・ノル将軍により、外遊中のシハヌークは国家元首を解任されてしまいます。
ロン・ノル時代から民主カンプチア時代(1970年~1979年)
ロン・ノル将軍のクーデター後、北京に亡命していたシハヌークは「カンプチア民族統一戦線」の結成を宣言し、共産勢力クメール・ルージュと協力することを表明しました。
1970年以降、ベトナム戦争がカンボジア国内にまで拡大し、1973年以降はカンボジア人勢力同士による内戦も激化していきました。
1975年、クメール・ルージュを中心としたカンプチア民族統一戦線がプノンペン入城を果たし、内戦は事実上終結しましいた。
ポル・ポト政権誕生
しかし政権を握ったポル・ポト派は、急進的な共産主義政策を断行したため、国内は再び大混乱となりました。
ポル・ポトは裕福な農家の生まれです。
大変頭が良く、国費でフランスに留学したこともあります。この時にフランス共産党との関係ができ大きな影響を受けます。
ポル・ポトが掲げたのは、原始共産主義で、すべての国民を農業に従事させようとしました。
そのために、プノンペンに住んでいた人々を、「外国から攻撃を受けるから農村に逃げるように」とラジオで嘘の情報を流しました。
ポル・ポト政権、虐殺の始まり
農村に逃げた人々は、そのまま農業に従事させられ、役に立たない人々は殺されました。
ポル・ポトは、お金、学校教育、信教、文化を否定し、知識人を大量虐殺しました。この頃についての「キリングフィールド」という映画が発表されています。
これらの政策のため、カンボジアの国内は混乱し、伝統的な生活は破壊されました。
この時代には、600万人のカンボジア人のうち、200万人が殺されたと言われています。
ポル・ポト政権下の3年8ヶ月間は、カンボジア国民にとって「精神的外傷」として、今も深い傷となっています。
国の混乱の中、クメール・ルージュがベトナムに助けを求めます。カンボジアは、さまざまな勢力がお互いに争い、地雷を設置していきます。
ベトナム軍と「カンボジア問題」の発生
1979年、ベトナム軍に支援された「カンプチア民族統一戦線」は、プノンペンを解放しました。
一方で、民主カンプチア勢力は、ソン・サン派、シアヌーク派と共に反ベトナムの「民主カンプチア連合政府三派」を発足させました。
1980年代全体を通して、両政権による内戦は長期化し、東西問題や社会主義国家間の対立が内戦の原因を複雑にし、さらに紛争解決を難しくしていきました。
カンボジア和平への道のり
「カンボジア問題」を解決するために、1987年紛争当事者同士であるシアヌーク殿下(民主カンプチア連合政府三派)とフン・セン首相(ヘン・サムリン政権)による直接会談が行われました。その後も、両者による会談は、場所を変えて行われました。
しかし紛争当事者間において、内戦終結の最終同意には至りませんでした。
しかし、ソ連のペレストロイカの進行や東欧社会主義諸国の崩壊により、東西対立も解消され、カンボジアをめぐる国際環境が急激に進展しました。
特に1990年代に入って中国とベトナムの関係改善が、カンボジア和平実現に大きな影響を与えました。
1990年9月、ジャカルタ会議において、カンボジア四派により「カンボジア最高国民評議会」のプノンペン設置案が合意されました。
長く続いた内戦の終結に向かって動き始めた瞬間でした。
パリ和平協定の締結(1991年)
1991年10月23日、パリ会議において、カンボジアの包括的和平の実現のために「パリ和平協定」が調印されました。
同年11月14日、シハヌーク殿下が12年ぶりにカンボジアに帰還し、「カンボジア最高国民評議会」が正式に発足しました。
10 新生カンボジア王国の誕生(1993年)
1993年9月24日、約23年ぶりに統一政権として、シハヌーク国王を国家元首とする新生カンボジア王国が誕生しました。
カンボジアってどんな国?まとめ
カンボジアは、長い間内戦が続き、伝統的な国民の生活が崩壊したところから、復興を目指して進んできた国です。
国旗には、世界遺産のアンコール・ワットが描かれています。アンコール時代の平和と繁栄を願う気持ちが、表れているのでしょう。
これからのカンボジアがどのように発展していくのか、楽しみに見守りたいものですね。
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【参考文献】
地球の歩き方「アンコール・ワットとカンボジア」
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