今からおよそ400年前、日本では江戸時代が始まったころ。
イタリアでは、天文学の分野で、のちに世界に大きな影響を与える、あの人物が大活躍していたのです!
その人物の名前は、ガリレオ・ガリレイ。
日本では、東野圭吾原作の小説で、福山雅治主演の推理ドラマ「ガリレオシリーズ」で有名ですよね!ドラマの中では福山雅治さんがクールで、とびきり頭の冴える大学教授を演じていました。
福山さんの役柄に魅了された女子も大勢いると思います!
名前だけはよく知られているガリレオ。
みなさんは、このガリレオ・ガリレイいったい何をした人なのか知っていますか?
今回は、ガリレオ・ガリレイがなぜこんなに有名なのか?どんなことをした人なのか?彼の生涯と功績についてまとめています!
ガリレオの誕生!

ガリレオは1564年にイタリアのフィレンツェを都としていたトスカーナ大公国という国に生まれました。
ガリレオが生まれた街はピサの斜塔で有名なピサの街!
古くから大学がある街として栄えていたんですね。
1581年、ガリレオはピサ大学に入学し医学を学びます。最初は医者を目指していたんでしょうね。
しかし、彼が最も興味を持ったのは医学ではなく数学でした。
1585年、ガリレオはピサ大学を退学しフィレンツェに向かいます。
せっかく医学部に入学したのに、医者の道をあっけなくすててしまったのです。さぞかし両親もがっかりしたことでしょうね。
1589年、ガリレオはピサ大学の数学教授となりました。医者をやめても大学教授。。もともと秀才だったようです!
この時、ガリレオは25歳。
平均寿命が今よりずっと短い時代だったとはいえ、かなり若手の教授ですよね。
とはいっても、1586年に『小天秤』という最初の科学論文を書いていますので、教授になる力はあったのでしょう。
ガリレオ・ガリレイは事実婚だった?
1591年、ガリレオの父であるヴィチェンツォが亡くなりました。
父が亡くなったため、ガリレオは一家の生計を支える大黒柱となります。
ガリレオは1599年にヴェネツィアのマリナ・ガンバという女性と結婚しましたが、正式な結婚はしていません。
今でいう事実婚、つまり内縁の妻というものでしょうか?
その理由は、父の死によって養わなければならない家族が増え、結婚の経済的負担に耐えられないと判断したからのようです。
1592年、ガリレオはイタリア北部の街であるパドヴァで大学教授の職を得ました。幾何学や数学、天文学を教える教授です。
パドヴァもピサと同じく、古くからの大学街として知られていました。
1609年、ガリレオはオランダで望遠鏡が発明されたとの話を耳にしました。
ガリレオは自ら望遠鏡を試作、天体観測をし始めます。
噂から望遠鏡を自作するというのは、何とも天才ならではですね!
1610年、ガリレオは自作の望遠鏡で木星の周囲を回る衛星を発見しました。
ガリレオ・命がけの地動説提唱
このころから、ガリレオは地動説を主張し始めます。
このころ、宇宙に対する見方として二つの立場がありました。
「天動説」
一つは簡単に言えば、神がつくった地球が宇宙の中心であり、すべての星は地球を中心に回っているという考え方でした。ヨーロッパで力を持っていたキリスト教会は、天動説の立場をとります。
「地動説」
もう一つは宇宙の中心は地球ではなく、太陽。
地球を含む星々は太陽を中心に回っているという考え方です。
ガリレオが生きていた時代、教会に逆らうのは命がけでした。
ガリレオよりも早く、はっきりと地動説を主張していたジョルダーノ=ブルーノというは、教会の怒りを買い、火あぶりにされます。
今の時代だと、火あぶりなんてちょっと正気の沙汰ではありませんよね!でも当時としては普通に行われていたんでしょうね。
想像しただけにゾッとします。

ガリレオも地動説を唱え始めたことで教会に目を付けられるようになりました。
1630年、ガリレオは『天文対話』を出版しました。
この本は、地動説の解説書といってもよい内容の本で、教会の怒りを買います。
1633年、ガリレオはローマで宗教裁判にかけられました。
判決は有罪。
自分が頑なに信じている地動説を信じてもらえないとは無念としかいいようがありません。。
ガリレオは地動説を説くことを禁じられます。
判決後、ガリレオは「それでも地球はまわっている」とつぶやいたとされますが、火あぶりの可能性も考えると、ちょっと考えにくいですね。
晩年、ガリレオは両目を失明してしまいました。
望遠鏡の見過ぎが原因との説もありますね。
1642年、ガリレオは77歳でこの世を去りました。
ガリレオの晩年は、ほぼ軟禁状態だったようです。
宗教裁判で死刑こそ免れましたが、自由に行動することは許されなかったようですね。
ガリレオの功績
ガリレオの功績や発見はとてもたくさんありますが、有名なものだけでも全部3つあります。
地動説を理論化したこと。
一つ目はコペルニクスが主張し、ガリレオが望遠鏡の観測などによりコペルニクスの考え方を証明したといってもいいですね。
木星の衛星を4つ発見したこと。
二つ目はガリレオが自分で作った望遠鏡で見つけた衛星は全部で4つ。
彼は、これらの衛星に「メディチ家の星」という名を付けました。
現在、木星の衛星は、イオ・エウロパ・ガニメデ・カリストという名前がついています。まとめて呼ぶ時は「ガリレオ衛星」とよばれますね。
木星の衛星が見つかったことは、「すべての星は地球を中心に回っている」という考え方に対して、それは違うといえる証拠となります。
落下の法則。
三つ目は重い石と軽い石、同じ高さから落としたら、どちらが先に落ちると思いますか?
何も知識がなかった場合、重いものが早く落ちると考えても不思議ではありません。
実際、古代の有名な哲学者のアリストテレスでさえ、重いものが早く落ちると考えました。
これに疑いを持ったのがガリレオ。
さすが、めのつけどころが普通の人と違いますよね!
ガリレオは重いものも軽いものも、同じスピードで落下すると考えます。
ガリレオがパドヴァ大学の教授だったころ、弟子たちとともにピサの斜塔にのぼりました。
そして、重い鉄の玉と軽い鉄の玉を同時に落とします。
その結果、同時に落下したため、ガリレオの考え方が正しいと証明されました。
これは伝説ですが、かなり有名なお話なのです。
しかし、実際に、実験は行われていなかったかもしれません。
現在では、弟子の一人がガリレオの偉大さを示したくて「盛った」エピソードではないかと考えられています。
ガリレオの生涯とその功績をわかりやすく解説します!まとめ
歴史というのはこういう伝説までもがドラマチックに思えてしまいますね!
キリスト教が強い力を持っていた時代に、理論と実験で次々と新しい発見をしていったガリレオ・ガリレイ。
こういう人が、今の世の中のもとになる科学を進歩させていったんですね!!
