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前回の解説で、康熙帝が中国を統一したところでおわっていましたね。
今回は康熙帝が中国統一後、どんな功績をのこしていったのか解説していきます!
続く外国との戦い
康熙帝が中国を平定していたころ、北方では大国・ロシア帝国が力を伸ばしていました。
さらに、モンゴルやチベットでも清に抵抗する勢力が勃興していたのです。
この章では国内を平定した康熙帝が次は国外に進出していった戦いぶりを見ていきましょう。
大国ロシアのピョートル大帝との戦い

当時ロシア帝国を治めていたのは、ロシアの近代化を図り、その礎を築いたことで「大帝」と呼ばれたピョートル1世でした。
ピョートル1世はヨーロッパ方面だけでなく中国方面への進出も進めていました。
台湾を平定した年には、ロシア帝国は満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンにまで南下してきたのです。
さらに現在のハバロフスク近郊に要塞を築き、それに危機感をいただいた現地の清軍司令官と戦闘に入ります。
この戦いではロシア軍が勝利し、清軍司令官は処刑されてしまいます。(アチャンスクの戦い)
そこで康熙帝は軍を率いてロシア軍と戦います。
清軍とロシア軍は何度か衝突を繰り返しますが、1658年清艦隊がロシア艦隊を撃沈しロシア兵のほとんどを討ち取ります。
この時、康熙帝は平定した鄭氏台湾の兵士たち(藤碑営)の優れた水軍能力に目を付け、彼らをロシア戦の主力として派遣しました。
これによって清軍が不慣れな海戦で再び勝利を収めることになったのです。
中国初めての国際条約・ネルチンスク条約締結

康熙帝に恐れをなしたロシア帝国は清王朝との和平を申し入れます。
こうして和平交渉が続けられ、1689年、ネルチンスクという町でネルチンスク条約が締結されます。
これは中国が初めて結んだ国際条約でした。
今までの中国の外交というのは中華思想に基づいており「中国は唯一の国家であり、周辺諸国はすべて野蛮な民族である」と考えていました。
それに対して康熙帝はイエズス会の宣教師たちにアドバイスをもらうことで「対等な国家」という存在を認め、中国初めての国際条約を締結したのです。
当時のヨーロッパでは各国で近代国家としての外交が確立されつつある時期でしたが、康熙帝は中国にも近代的な外交を取り入れようとしたのです。
この条約では清露国境を黒竜江という河川と外興安嶺という山脈によって定めることが決まりました。
こうして清王朝は今まで曖昧であった北方の国境線を確定させたのです。
反清勢力ジュンガルの鎮圧、モンゴル平定
時を少しさかのぼり康熙帝が三藩と戦っていた1670年代。
現在の新疆ウイグル自治区の北西部にあるジュンガル盆地という土地で、ガルダン=ハンという人物がオイラトという遊牧騎馬民族をまとめ上げ、その地に帝国を作りました。
彼は中央アジアを征服していき、さらにはモンゴル(ハルハ部)の民族同士の内紛に介入しモンゴルも平定してしまいます。
これに反発したモンゴル諸侯たちは清王朝に亡命し、康熙帝に保護を求めます。
康熙帝はこれに応え、対ロシア戦争がやっと終わったばかりの1693年、今度は自ら軍を率いてジュンガルに出兵します。
そしてその3年後、康熙帝はジョーン・モドの戦いでガルダンに致命的打撃を与えることに成功します。
敗走したガルダンは1697年に病死し、その息子タンチラが清軍に捕らえられたことで清はモンゴルを完全に平定したのです。
チベットの平定
康熙帝は40歳になろうとしていましたが、それでも戦いを続けました。
ガルダンの甥であるツェワンラブタンがジュンガルの残党を率いてチベットに侵攻したからです。
当時のチベットはダライ・ラマという王の座を巡って争っていました。
その一人が傍系王族で青海という地域を支配していたグシ=ハン王家です。
グシ・ハン王家はツェワンラブタンと同盟を結び、チベットの首都・ラサへと進軍します。
これに驚いたチベットの王・ラサン=ハンが康熙帝に救援を求めたことで、康熙帝は1718年、チベット平定の軍を派遣します。
しかし、ジュンガル・グシ=ハン連合軍はラサを制圧、ラサン=ハンを殺害してしまいます。
チベットの王族はグシ=ハンとなり、ただの侵略者とみなされた清軍はサルウィン川の戦いで壊滅させられてしまいます。
康熙帝は大義名分を得て勢いづいた連合軍に正面から衝突するのは危険だと考え、グシ=ハンに裏工作を仕掛けます。
ジュンガルに味方した者も含めてグシ=ハン王族を北京に招き、爵位につけることで清朝の味方にしたのです。
こうして「チベットをジュンガルからチベット王族の手に戻す」という大義名分を得た清軍は、グシ=ハンのチベット軍とともに出撃。
当時チベットで反乱を起こしていた反ジュンガル勢力はこれを見てゲリラ活動をさらに強めます。
この様子を見たジュンガル軍はチベットから撤退し、チベットも康熙帝の手によって平定されたのです。
ただ、チベットはこののちしばらくグシ=ハン王族とラサン=ハンの後継者が決まらない状態で混乱を迎えることになります。
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最後の戦いとなった台湾反乱平定
チベットを平定したとき、台湾では反乱が起きていました。
康熙帝はチベット問題を解決するや否や台湾に軍を派遣し、それを速やかに鎮圧しています。
しかし、この1年後に康熙帝がなくなったことでこれは康熙帝最後の戦いとなったのでした。
台湾反乱鎮圧の年である1722年11月に康熙帝は冷たい風にあたったことで高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御します。
こうして彼の中国統一事業は終わりを迎えましたが、その事業は息子の雍正帝に引き継がれました。
内政も完璧であった名君・康熙帝の統治
数々の戦いに勝利し、清王朝をアジア随一の強国に育て上げた康熙帝ですが、彼がのちに中国一の名君と称されるようになったのは、戦いに強かったからだけではなく内政面でもとても良い政治を行ったからでした。
この章では、康熙帝がどのような政治を行ったのかを見ていきましょう。
自ら倹約に努め宮廷費用を抑えた
康熙帝は自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれています。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らしました。
このように国家の無駄な費用を抑えたことで、財政が潤ったため減税をたびたび行い、人々の暮らしを楽にしました。
康熙帝は黄河の治水と水運の整備が行き届いているか確認するために全国を廻りましたが、この費用はすべて自費で賄うという徹底ぶりでした。
そのほかにも康熙帝は自分の息子が皇太子になった際には、爵位や領民を与えず、質素倹約をしつけるなど自身の子に対しても倹約を心がけさせたのです。
文化事業をおこし、儒教を保護する
康熙帝は文化事業にも力を入れ、様々な文書を編集しています。代表的なものは以下の通りです。
『康熙字典』…中国史上最も文字が収録されている漢字辞典
『大清会典』…清王朝の政治制度に関する史書
『全唐詩』…唐王朝時代に作られた詩すべてが網羅された詩集
『古今図書集成』…中国史上最大の百科事典
『皇輿全覧図』…最初の中国地図。
イエズス会宣教師らが実測し、完成させた
さらに、自らも勉強熱心であり、特に朱子学については自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったといわれています。
異教であるキリスト教にも寛容だった
さらに康熙帝は西洋人がもたらしたキリスト教にも寛大な態度を見せます。
国内でキリスト教を邪教として扱い宣教師を追放した動きがあったときは、康熙帝は
「西洋人は我が国の暦法を助け、軍事面においても大砲を造った。これらの誠心を認め、布教事業の禁止はしない」
と命令したのです。
しかし、やがてローマ法王庁が中国人にキリスト教以外の信仰をやめるように要求するようになると徐々に清王朝はキリスト教に厳しい態度で臨むようになります。
草原の王者としての行動
康熙帝はモンゴルを平定してから、夏にはムラン・イ・アバという内モンゴルの草原に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行いながら、十数日の間モンゴル風のテント生活を送りました。
このような行動をとることでモンゴル諸侯に草原の王者としての皇帝をアピールしたのです。
康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれています。
遊牧民族へのアピールとストレス発散を兼ねて、毎年北方で過ごす習慣はその後の皇帝たちにも引き継がれていったのです。
晩節を汚した康熙帝の後継者選び
そんな完璧ともいえる康熙帝の唯一の失敗が後継者選びでした。
康熙帝には30人以上の息子がいましたが、とくに第2皇子である胤礽(いんじょう)を可愛がっていました。
胤礽の叔父・ソンゴトゥが権力者であったこともあり康熙帝は胤礽を皇太子に指名します。
しかし、叔父のソンゴトゥがクーデターで失脚すると孤立した胤礽は自暴自棄になってしまい、部下に暴力をふるったり、モンゴル人が献上する馬を勝手に奪ったりと乱暴な行為が目立つようになります。
康熙帝は泣く泣く胤礽を逮捕させますが、そのショックから不眠症となってしまいます。
その後は第1皇子の胤禔(いんし)や第3皇子の胤祉(いんし)が皇帝に名乗りを上げたり謀反を告発したりと後継者争いの中で宮廷は混乱してしまいます。
康熙帝は、「やはり皇太子には胤礽しかいない」と考え、胤礽のもとを訪れます。
すると胤礽は別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は再び胤礽を皇太子に立てます。
しかしその後、胤礽が反乱を企てていたことが発覚。激怒した康熙帝は首謀者を処刑し、胤礽を幽閉します。これに懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てませんでした。
しかしそれでも王子たちの暗闘は収まることはなく、「九王奪嫡(きゅうおうだっちゃく)」と呼ばれる後継者争いが繰り広げられたのです。
最終的には第4皇子の胤禛(いんじぇん)が雍正帝として次期皇帝につきますが、雍正帝は父の犯した反省から皇太子を擁立せず、自身の死後に自身の記した文書によってはじめて公表するという「太子密建」というやり方を確立します。
それほどまでにこの争いは清王朝にとって深刻な事態だったのですね。

中国史上一の名君・康熙帝の生涯について徹底解説!まとめ
戦争・外交・内政、全てにおいて優秀であり、中国史上の名君と呼ばれた康熙帝の戦いぶりとその内政手腕をみてきましたが、いかがでしたでしょうか。
康熙帝は実に61年もの間、皇帝の地位に就いていました。
なぜ康熙帝はこんなに長い間政権運営を円滑に行うことができたのでしょうか。その秘密を康熙帝はブーヴェという宣教師にこう述べています。
「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。
50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。
今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。
私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。
こうやって向かい合っている君臣が髪も髭も白くなっているとは楽しいことではないか。」
自身の部下だけでなく、征服した漢民族や降伏した敵の武将。
異教徒の宣教師など立場を問わず寛大に接した康熙帝だからこそ、現代でも中国史上の名君としての評価を確立するほどの功績を残せたのかもしれませんね。

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