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世界史に残る集団ヒステリー事件「セイラム魔女裁判」とは?わかりやすく解説!

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世界史に残る集団ヒステリー事件「セイラム魔女裁判」とは?わかりやすく解説!

中世ヨーロッパで蔓延した魔女狩り(魔女裁判)という悲劇。この悲劇的な事件が、開拓期のアメリカで起こっていたことをご存知でしょうか。

その事件の名前は「セイラム魔女裁判」

1692年~1693人にかけて、セイラム村を舞台として多くの被害者を出しました。

この事件は新世界で起こった集団ヒステリーの恐ろしさを代表する事件として、歴史に残るものとなっています。

今回ご紹介していくのは、そんな「セイラム魔女裁判」の全貌について。開拓期のアメリカの村で、どんな恐ろしいことが起こったのでしょうか。

目次

アメリカで起こった大規模魔女狩り

「セイラム魔女裁判」とは、1692年~1693年の約1年間にかけて起こった、大規模な魔女狩り事件を指します。

舞台になったのは開拓期のアメリカ大陸、マサチューセッツ州にあるセイラム村でした。

この事件の特徴は、短いスパンで次々に人々が起訴されたことと、証言の正当性が一時、完全に無視されたことにあります。

セイラム魔女裁判では、1年間の間に176人が有罪判決を受け、その内20人が処刑されました。

そして、その多くの裁判で証言したのは、年端も行かない少女たちだったのです。中には、わずか4歳の子供が証人になった裁判もあったと言います。

その過程は、正にパニックそのもの。

元々、魔女狩りは集団パニックやヒステリーの産物だと言われています。セイラム魔女裁判は、人々がパニックに呑まれる様を今に伝えてくれるものです。

次の項から、セイラム魔女裁判の全貌について、詳しく見ていきましょう。

遊びか本気か?「セイラム魔女裁判」の全貌

少女の証言を証拠も無しに信じて、多くの人が投獄され亡くなってしまった大事件、セイラム魔女裁判。

この事件はどのようにして起こり、どのようにして終結していったのでしょうか。

始まりは3人の女性から

1692年1月のこと。セイラム村で少女たちが参加する降霊会が開かれました。

参加者の中には、9歳のベティ・ハリスと、11歳でベティに従姉にあたるアビゲイル・ウィリアムズが含まれています。

ベティの父親は村の牧師であり、2人は勿論、両親に降霊会の参加を内緒にしていました。

降霊会の最中、2人の少女に異変が起こりました。

体を痙攣させながら、奇声を発したのです。医者が呼ばれ診察をしたものの、原因は分かりません。

2人の少女の異変は村中に知れ渡りました。

そして、そんな村人の頭に3年前の事件がよぎります。

3年前、ボストンでベティ達と同じような症状を起こした少女たちがおり、その結果、魔女裁判が行われたのでした。少女の奇病が、魔女の仕業だと考えられたのです。

やがて、医者は一つの結論に至ります。3年前と同じく、今回の少女の奇病も悪魔憑きが原因であり、魔女が関係していると。

ベティの父親であり、牧師であるサミュエル・パリスは、彼自身が雇っていた奴隷のティトゥバが魔女ではないかと疑います。

そして彼女(ティトゥバは黒人かネイティブアメリカンの女性です)を拷問し、とうとう魔術を用いたという自白をさせることに成功しました。

ティトゥバの自白後、ベティやアビゲイルと同じような症状を起こす少女たちが増えていきました。

ベティやエリザベスを含むこれらの少女たちは、魔女によって「苦しんでいる少女」と呼ばれることになります。そして、一連の魔女裁判での証人・告発者となったのです。

少女たちは自身に魔術を掛けた魔女として、ティトゥバとサラ・グッド、そして、サラ・オズボーンの3人の名前を出しました。これにより、悪名高い「セイラム魔女裁判」が始まったのです。

セイラム魔女裁判の最初期に訴えられたこの3人の女性には、共通する特徴がありました。それは、セイラム村という一つのコミュニティ内で孤立し、立場が弱かったということです。

ティトゥバは先に書いた通り、サミュエルの奴隷でした。サラ・グッドは物乞いで生計を立てており、前を歩く人に呪いをかけると言われていました。そしてサラ・オズボーンは、当時の倫理観から大きく外れる結婚をしており、周囲の人々と距離を置いていたと言われています。

少女たちがこの3人の名前を出したと言う事実。とても恐ろしいものを感じますよね。

200人近くに上る被害者たち

ティトゥバ、サラ・グッド、サラ・オズボーンの3人は、裁判を受けることになりました。

結果は3人とも有罪。罪を自白し認めていたのはティトゥバだけで、他の2人は無罪を主張しながらも、有罪とされました。

証言者である少女たちが自身の証言を強調し、暴れたためです。ティトゥバは自白したとは言え、罪を「認めざるを得ない」状況にあったのでしょう。

しかし、事件はこれだけでは終わりませんでした。少女たちは次々と「××が魔女である」といった趣旨の証言を行ったのです。

ティトゥバ自身の証言も相まって、数多くの人が裁判を受ける事態にまで発展しました。

セイラム魔女裁判が行われたのは、1692年2月から翌年の5月まで。

この1年と少しの間に、20人が処刑され、156人が裁判の上で有罪判決を受けました。合計すると、176人という恐ろしい数字に上ります。そして、亡くなってしまった20人の中に、2人のサラが含まれているのです。

次々に人が裁判にかけられている最中、人々の頭からは「裁判の公平性」・「証言の正当性」と言ったことが完全に抜けていました。そしてそれは、判事や検察官といった、裁判を司る人々や、騒ぎを治めるために派遣された植民地判事たちも同じでした。

彼らは皆、盲目的に少女の証言を信じたのです。実際、サラ・グッドを絞首台に送ったのは、わずか4歳の少女の証言だったとされています。

成熟した大人や、頭の良い判事達が呑まれるような雰囲気。それが、当時のセイラム村を満たしていたのでしょう。

事件の終わり

1692年の秋ごろ、事態は大きな変化を見せます。魔女や魔法使いとして起訴されるのが、一般の人々だけでなく上流階級にも及んだのです。

そんな中、牧師とハーバード大学の学長を兼務するサミュエル・ウィラードという人物が起訴されたことで、判事たちは目を覚ましました。

「少女たちの証言は、本当なのだろうか」

この疑問を判事や人々が抱き始めると、事態は急激に収束をむかえました。少女たちの証言を見直し、その正当性が無いことが認められたのです。

裁判を見直す中で、52人が再審を受けることができました。そのほとんどは無罪となり、有罪と認定された3人も、刑が執行されることはありませんでした。また、すでに刑務所に入っていた人々に対しても、恩赦が出されることになりました。

もっとも、刑務所から出るためにもお金が必要だったため、収監された人々の多くは刑務所内に留まることとなります。中には、出獄料を払えずに亡くなってしまった人もいたと言います。

こうして、セイラム魔女裁判は終結したのです。

世界史に残る集団ヒステリー事件「セイラム魔女裁判」とは?まとめ

なぜ、少女たちは告発を繰り返したのでしょうか。

なんらかの病気に悩まされ、その解決を魔術に求めたのか、注目を集めたかったのか。その真意は、謎に包まれています。

少女たちの意図がどこにあるにせよ、その発言は歴史的な大パニックを引き起こしました。しっかりしているはずの大人たちが「考えること」を放棄して、目の前にある「答え(のようなもの)」に頼ってしまったのです。

開拓期のアメリカは混沌とした時代でした。戦争もあり、前時代的な面と近代的な面が交じり合っていました。少女たちが投げた影が、そんな大人たちの心に巣食ってしまったのでしょう。

魔女が登場する物語は多く、見ていて楽しいものです。それでも、「魔女」の背景には暗い歴史があることを忘れてはなりません。

【参考文献】
キーロン・コノリー(2018)「図説 呪われたアメリカの歴史」内田智穂子訳、社原書房

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