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日本軍が撤退していった中国。
激しい日本とに戦争が終わり一息つくまもなく中国国内では国民党と共産党が再び激しく衝突します。
この記事では前回の周恩来とはどんな人?その生涯をわかりやすく解説!(前半)の続きです。
では解説していきます!
理想の国家づくりに邁進

1949年10月1日、北京天安門広場で初代国家主席となった毛沢東の手によって中華人民共和国の建国が高らかに宣言されました。
この時周恩来は副総理兼外務大臣として重要なポストに任命されました。
この章では新生中国のために尽力した政治家としての周恩来の姿を追っていきましょう
第三勢力のリーダーとして
さて当時の世界情勢に目を向けてみましょう。
当時はアメリカを中心とした資本主義国家(西側陣営、第一世界)とソヴィエト連邦を中心とした共産主義国家(東側陣営、第二世界)が対立していました。
いわゆる東西冷戦ですね。
その中で今まで欧米諸国の植民地であったアジア・アフリカ諸国が次々と独立していきました。
彼らは東西陣営どちらにも与(くみ)さなかったため、第三世界と呼ばれる存在となりました。
第三世界諸国のリーダー的存在となった国は二つありました。それがインドと中国です。
インドはイギリスから独立後、ネルーという人が首相になっていました。
周恩来はネルーと連絡を取り、インドとの関係強化に尽力しました。この時ネルーと平和五原則という5つの理念を発表しました。
・領土保全 「お互いの国の領土、主権を尊重しましょう」
・相互不侵略 「お互いの領土に侵略をやめましょう」
・内政不干渉 「お互いの国の内政に干渉するのはやめましょう」
・平等互恵 「お互い平等に助け合いましょう」
・平和的共存 「平和的な形で共存しましょう」
同時にインドと対立していたパキスタンとも友好関係を結ぶなど卓越した外交能力を見せました。
この外交能力は国際会議の場でも発揮されます。
東南アジア・アフリカをまとめる周恩来
1955年インドネシアのバンドンでアジア・アフリカの国々が集まり、会議が開かれました(バンドン会議)。
この場では独立したばかりの多くの国々が集まったため、なかなか意見がまとまりませんでした。
そこで周恩来は「求同存異」という中国の慣用句を紹介しました。
これは「お互いに違いがあると認めたうえで、お互いの同じところ、共通点を求めよう」という意味です。
周恩来は各国首脳に対して、「各国で各々事業があるのは分かるが、共同の利益を追求していこう」と呼びかけたのです。
これを聞いた各国首脳は感銘しました。
特にガーナの初代大統領でありアフリカ独立の父と呼ばれたエンクルマ大統領は周恩来から贈られた人民服を生涯愛用するほどの敬愛ぶりでした。
そして、この会議で平和五原則にさらに5条を追加した平和十原則が発表されたのです。
ここでは新たに追加された項目は割愛しますが、この平和十原則は新興独立国の外交政策と連帯の基本として国際政治を動かす原動力となったのです。
文化大革命の混乱の中で
中国の国際的地位が少しずつ高まっていった中で、毛沢東は「5年でイギリスに追いつき、10年でアメリカを追い越す」をスローガンに農業・工業の急速な近代化を図りました。
これは大躍進運動と呼ばれ国家プロジェクトとして大々的に推し進められましたが、実態はひどいものでした。
例えば鉄を作るために人民が持っている鉄鍋や自転車といった生活用品を供出させつぎつぎと鉄くずに変えていったり、罰を恐れた地方幹部が成果を誇張して中央政府に報告したりと生産性のないこの政策は大失敗に終わります。
さらにその年には洪水が各地を襲い、飢餓が発生。5,500万人がなくなりました。
さすがの毛沢東も責任を追及され、国家主席の座を劉少奇という人物に渡します。
劉少奇は「経済の回復のためにはある程度の競争を認めることも必要だ」と考えており、ある程度の資本主義の容認する政策をとりました。
毛沢東の復権と紅衛兵
これにより少しずつ経済は回復してきたのですが、これに反発したのは毛沢東でした。
彼はもう一度国家主席の座を取り戻すために学生の力を利用しようとします。
それが文化大革命です。
大学生を中心に紅衛兵と呼ばれた若者たちが知識人と呼ばれた医者や教師、政権の幹部らを次々と襲いました。
多くの人々がこの弾圧により職を追われ、また貴重な文化財の多くも「古い思想の象徴だ」という理由で壊されたり燃やされたりしました。
これによって劉少奇は失脚に追い込まれ投獄されてしまいます。
周恩来はこの騒動の火消し役として紅衛兵の横暴を押さえようとしました。
紅衛兵の暴挙
紅衛兵が「共産主義=左翼なので左が正義だ。右側通行をやめろ」と北京の道路をむりやり左側通行に変えさせて交通が大混乱に陥った際に阻止したり、故宮や数々のお寺の破壊を防ぎ保護したりと紅衛兵の暴走を何とか抑えようとしたのです。
陳毅という外相が紅衛兵に襲われそうになった時、「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」といい、身を挺して守ったとされます。
しかしその踏ん張りもむなしく、紅衛兵の活動はますます激化しました。
そして嫌気が指した毛沢東は彼らに農村部に行き新たに農地を開拓するように指示しました。
これにより大量の若者が農村部へ派遣され過酷な環境の中でなくなっていきました。
こうして文化大革命は一旦の落ち着きを見せましたが、この運動が中国に与えた被害は大きく、周恩来もまたこの時の過労がたたって次第に病気に冒されるようになっていったのです。
周恩来・再び中国外交の顔となる
文化大革命の後、周恩来は中国の復興に尽くします。
その第一歩は大きく落ちた中国の国際的地位の向上でした。
文化大革命中は、紅衛兵がソ連領事館を襲うなど無秩序化しており多くの国々と関係を修復することが急務となっていたのです。
また中国は当初は同じ共産主義国家であったソ連と仲が良かったのですが、領土問題や思想の違いからソ連と対立していきました。
そのため、敵の敵は味方ということでアメリカと手を結ぼうと考えていました。
周恩来とアメリカ
当時のアメリカの大統領はニクソン大統領という穏健派の大統領でしたが、アメリカは対外的には台湾=中国という認識を持っていたため、米中国交正常化は困難と思われました。
周恩来はこの問題に対して、第三国経由でアメリカに書簡を送る、アメリカの卓球選手団を中国に招待する(ピンポン外交)など、アメリカの態度を徐々に軟化させることに成功しました。
アメリカも当時泥沼化するベトナム戦争にケリをつけるために中国と関係を結びたい思惑があり、両者の利害は一致していたため、極秘に話し合いが続けられました。
ここでも周恩来の人柄に惹かれた人物がいました。
それが国務長官のキッシンジャーです。
彼は極秘訪中を行い、周恩来と会談をしましたが、その時のことをのちに回想録で「およそ60年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」と語っています。
そして1972年2月21日にニクソン大統領が中国を電撃訪問し、全世界を驚愕させました。
こうして中国とアメリカは国交を正常化することになったのです。
周恩来・日本と関係改善へ
次の目標は日本との国交正常化でした。しかし日中両国はかつて戦争をした関係であり、国民レベルではまだわだかまりが残っていました。
そのため、当時の佐藤栄作首相とは交渉がうまくいかずに頓挫していたのです。
しかし日本の総理大臣が田中角栄に代わってから大きく流れが変わりました。田中角栄首相はニクソン訪中の7か月後に北京を訪れました。
そして日中国交正常化に向けた議論が開始されました。やはりここでも日中戦争によって日本が中国に与えた犠牲が大きな問題となりました。
しかしそれに対して周恩来はこのように述べました。
「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」
「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」
この発言は日本でも取り上げられ大きなニュースとなりました。
こうした周恩来の未来志向によって、議論はスムーズに動きだし、ついに日中共同声明の発表により日本の国交正常化も果たしたのです。
周恩来・人民に悼まれた死
このように内政外交ともに活躍した周恩来ですが、その疲労が祟り74歳の時に膀胱癌と診断されました。そしてその2年後には彼は入院し手術を受けることになりました。
さらに、建国時の盟友で会った毛沢東との関係もこじれていきました。
毛沢東は文化大革命でその人気を落とした一方、逆に優れた手腕で活躍する周恩来を警戒していたのです。毛沢東は四人組と呼ばれる側近らとともに、「批林批孔運動」を開始します。
これの表向きは、失脚した林彪という政治家と孔子の儒教始思想を批判する活動でしたが、四人組はこれで周恩来も批判しようと試みたのです。
しかし中国国民は文化大革命に懲りたのか思ったよりこの運動は盛り上がりませんでした。
そんな中、周恩来は四人組からの批判にさらされながらも病魔と闘っていました。
しかし1976年1月8日午前9時57分、北京人民解放軍第35病院で死去しました。享年75。その死は全国民に悼まれました。
毛沢東も少しのわだかまりがあったとはいえ何十年にもわたって共に努力してきた仲間の死を嘆き悲しんだといわれています。
彼の告別式は北京の人民大会堂で開催され、当時の中国共産党中央委員会副主席の鄧小平が会議を主催し、祝辞を述べました。
彼の遺骨を載せた霊柩車が天安門広場を通り過ぎると、何百万人もの首都の群衆が長安通りの両側に集まりました。
わずか数日で、北京人民英雄記念碑は周恩来に捧げられた花輪でいっぱいになりました。
そして遺言書に従い、彼の遺体は火葬され、その遺灰は飛行機で中国の大地に散布されました。
周恩来とはどんな人?その生涯をわかりやすく解説!まとめ
周恩来は「不倒翁」と呼ばれ、今でも中国で人気のある偉人です。何があってもすぐに起き上がる不屈の精神の持ち主でした。
彼の人生は文字通り波乱万丈でした。しかしそんな中でも彼が希望を捨てずに困難に挑んでいった原動力となる彼の思想は今でも日本に残っています。
日中友好にも尽力した周恩来ですが、中国首脳が訪日した際に必ずと言っていいほど訪れる名所が京都、嵐山にあります。
それが亀山公園内にある「雨中嵐山」の石碑です。この詩を読んだのが周恩来です。
「雨の中、二度嵐山に遊ぶ。 両岸の青い松が幾本かの桜を挟んでいる。その尽きるところに、一つの山がそびえている。
流れる水は、こんなにも緑であり、 石をめぐって人影を映している。 雨脚は強く、霧は濃く立ちこめていたが、雲間から一筋の光が射し、眺めは一段と美しい。
人間社会のすべての真理は、求めれば求めるほどあいまいである。だが、そのあいまいさの中に、一点の光明を見つけた時には、さらに美しく思われる。」
彼の原動力となった不屈の精神、これは今でも日中友好の証として京都の地に残っています。
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参考文献 高橋強著「周恩来──人民の宰相」