みなさん、こんにちは!今日はフランス革命のなかでもとりわけむごたらしい虐殺が行われたサンバルテルミの虚殺をわかりやすく解説していきたいと思います!
サン・バルテルミの虐殺とは、16世紀フランスで起こった大量虐殺事件です。
当時のフランスはなぜ宗教対立が虐殺に発展するほど激しかったのか、事件が起こるまでの流れなどを分かりやすく解説していきます。
宗教戦争から大虐殺へ
サンバルテルミの虐殺を知るためにはまず宗教対立を理解しておかなければなりません。はじめに旧教と新教が生まれるきっかけは何だったのか見ていくことにしましょう!
カトリックとは?
昔、ローマ皇帝ディオクレティアヌスは皇帝崇拝を奨励し、それ以外の宗教を迫害していました。
西暦313年、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世は、ミラノ勅令を出して帝国内のすべての宗教を合法にしました。
そして、西暦325年、カトリックが確立します。
ミラノ勅令は、世界史の転換点でした。
当時、キリスト教は非合法であったため、それぞれの地域で独自に発展していました。
そこで皇帝は、ニケーア公会議を開き、正統なカトリケーを決めることにしたのです。ニケーア公会議の時点では、アリウスの教義とアタナシウスの教義が有力でした。
アリウスはイエスはあくまで人であるとしアタナシウスは、イエスは神や精霊と同一の存在であるという三位一体説を主張しました。
ニケーア公会議の結果は、アタナシウスの三位一体説が正統なカトリケーと認められ、アリウス派は異端となったのです。
ルターの宗教改革とは?
キリスト教徒にとって、非キリスト教徒は、キリストの教えに目覚めていない哀れで救うべき者なのですが、異端は違いました。
キリスト教徒にとっての異端とは、悪魔に魅入られ道を踏み外した人々なので、救いようはありません。絶対に許されない存在なのです。
そのためカトリック教会は、異端審問裁判を行い、異端者を生きたまま焼いていきました。
フランスの有名な英雄ジャンヌダルクも、この異端審問裁判で有罪となり、生きたまま焼かれたのです。
発端は1515年、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂改修のため、これを買えば、罪が許せれるという贖宥状(しょくゆうじょう)を販売したことでした。
マルティン・ルターはこれを激しく批判しました。
1517年10月31日、ルターの宗教改革が始まった日です。ルターは95箇条の論題を発表し、ローマ・カトリックの権力に立ち向かいました。
ルターが宗教改革を行っても焼かれなかったのは、ドイツ諸侯がルターの味方をしていたからでした。
これに対しドイツの神聖ローマ皇帝カール5世は、ルターを異端としドイツで宗教戦争が始まりました。
これがのちにフランスをも巻き込んでいったのです。
ユグノーとは一体なに?
元々の旧教をカトリックと呼び、新しくできた新教をプロテスタントと呼びます。
プロテスタントを訳すると、「抵抗する者」です。ローマ・カトリックに抵抗する者ということですね。
プロテスタントには、ルター派とカルヴァン派という2つの派閥がありました。
ルターが95箇条の論題を発表してから約20年がたった頃、パリ大学で神学を学んだカルヴァンという人物が「キリスト教網要」という本を、スイスのジュネーブで発表しました。
カルヴァンの考えに賛同した人々は、カルヴァン派を結成し、フランスでユグノーと呼ばれるようになりました。
ユグノーとは訳すると、乞食(こじき)という意味があります。
ひどい呼び方ではありますが、それほど当時のフランスでは宗教対立が激しかったということなんですね。
ユグノー戦争
ユグノー戦争とは1562年~1598年にかけて、40年近く続いた内戦のことです。フランスでは貴族などがカルヴァン派を支持し、急速に規模を広げていきました。
しかし、ヴァロワ朝フランス国王のアンリ2世は、カルヴァン派ユグノーを激しく弾圧していました。
フランス国内はカトリックvsプロテスタントの争いで二分され、やがてユグノー戦争が始まります。
カトリック側は国王アンリ2世や大貴族であるギーズ公などの旧教派が中心となりカトリック同盟を結成します。
ユグノー側はコンデ公が中心となり、イタリア戦争の英雄コリニー提督やブルボン家が同盟を結成しました。このようにしてフランスでは宗教対立による内乱が発展していったのです。
最恐の悪女カトリーヌ・ド・メディシス
銀行家、政治家として君臨していたメディチ家出身のカトリーヌ。一体どのようにして権力を手にして虐殺を行ったのでしょうか?
大富豪メディチ家
メディチ家は、銀行家として成功した大富豪です。贖宥状を販売したことで、宗教改革の原因を作ったレオ10世もメディチ家の出身です。
当時メディチ家は、芸術家を支援してルネサンスを促したりするなど、とても影響力の強い家でした。
そんなメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスがアンリ2世に嫁がされたのは完全に政略結婚でした。
メディチ家はスペインのカール5世の娘とも縁談を結んでいます。
スペインとフランスは敵対関係にあったため、縁談を断れば敵がメディチ家と親密になってしまうのでどちらも断れなかったのです。
息子をフランス国王に
1559年、ヴァロワ朝フランス国王アンリ2世が騎乗槍大会での怪我が原因で命を落とします。
アンリ2世の後を継いだのは、当時15歳だったフランソワ2世。その後、フランソワ2世もわずか1年ほどで亡くなってしまい、弟のシャルル9世が即位します。
この時シャルル9世はわずか10歳だったため、母であるカトリーヌが摂政として実権を握ることになったのです。
ヴァシーの虐殺
カトリーヌはユグノーとの間にポワシー会談を開きますが、融和は実現せず、1562年にはサン=ジェルマン勅令を出し再び融和を図ります。
これでフランス国内の宗教対立は収まるであろうと思えた矢先にヴァシーの虐殺と呼ばれる事件が起きてしまいます。
これは狂信的なカトリック派のギーズ公が、ヴァシーで礼拝中のユグノー74人を虐殺した事件です。
この事件によってフランス国内のカトリックとユグノーの融和は絶望的なものになってしまいました。
ユグノー側のコンデ公とコリニー提督は、イングランドの女王エリザベス一世と同盟を結びフランス各地を占領していきます。
国王軍はコンデ公を捕虜に、カトリック側が優勢になりますが、1563年にはカトリック側の中心人物であったギーズ公がユグノー派によって暗殺されてしまいます。
モーの奇襲事件
1567年、ユグノー達は突然フランス王家を襲撃し、カトリーヌ達国王一家は命からがら逃げ延びました。
この襲撃の後、カトリーヌはユグノーに対して慈悲の心を持つのをやめ、暗殺されたギーズ公の息子であるギーズ公アンリと結託します。
カトリーヌは娘のマルグリット・ド・ヴァロワと、ユグノー派のブルボン家アンリを結婚させることにしました。
カトリック派のトップであるヴァロワ家と、ユグノー派のトップであるブルボン家が結ばれることでフランスの内乱は収まるはずでした。
コリニー提督暗殺未遂事件
1572年8月18日、マルグリットとアンリの結婚式がパリ市内のノートルダム聖堂で行われ、ユグノー派の指導者であるコリニー提督は多くのユグノー貴族たちと結婚を祝うためパリに集まっていました。
挙式後の数日間、パリでは盛大な祝祭行事が行われていました。しかしカトリックとユグノーの関係はますます険悪なものになっていきます。
8月22日、コリニー提督が何者かに狙撃され腕に重傷を負います。宿に運ばれたコリニー提督は、弾の摘出手術を行い一命はとりとめました。
コリニー提督の暗殺失敗は、すぐさま宮廷に伝えられます。
サンバルテルミの虐殺へ
結婚式にはユグノー兵が約4千人、カトリック側の兵も祝賀会のためにパリに集まっています。
警戒したパリ市民たちも武装をはじめ、パリは臨戦態勢でした。そんな状況の中で起きたのがコリニー提督暗殺未遂事件です。
コリニー提督の傷は致命傷ではなかったので、回復したのちユグノー派は激怒して報復を行うのは明らかでした。
パリ市民たちは恐怖で震えあがります。
8月23日の夜、宮廷は緊急の会議を開き、コリニー提督とユグノー達の暗殺を決定します。
結婚式を終えたばかりのブルボン家のアンリと、その弟は殺さないことになり、他はすべて殺害対象としました。
すぐにギーズ公アンリが呼ばれ、コリニー提督の暗殺計画が伝えられます。
ギーズ公アンリの父親はコリニー提督によって暗殺されていたため、父親の仇討が王の承認で行えることを喜びました。
さらにカトリーヌは、パリ市民の代表者を呼んで協力を要請しました。
殺し合い・虐殺・町は地獄絵図・・・・
8月24日、聖バルトロマイを祝うサンバルテルミの祝日です。
コリニー提督が宿の二階で寝ているところを、ギーズ公アンリが300人の兵を率いて襲撃しました。
コリニー提督の暗殺が成功すると、外で待っていたギーズ公アンリに見せるため死体は窓から放り出されました。
コリニー提督の暗殺を皮切りに、宮廷のユグノー貴族たちが殺害されました、そしてパリ中でユグノー諸侯、貴族、兵士たちへの虐殺が広がっていったのです。
パリのカトリック諸侯、貴族、一般市民も武器を手に殺戮に参加し、ユグノー達を虐殺していきます。
虐殺は広がる一方で、収まる気配はありませんでした。
殺さなければ殺されるという恐怖と、長年の恨みが爆発し、虐殺は三日三晩続きました。
3日の間、ユグノー達が逃げられないように、パリ中の門は閉ざされていました。
パリの人々にとって国王は、異端を排除して国を救った英雄になりました。
ユグノー虐殺は、パリだけでは収まらず、地方にも広がりました。国王の許しが出たとおもった人々は、各地でユグノー達を虐殺していったのです。
フランス各地でおこったユグノーの虐殺が終息するのには、二か月もかかりました。
コリニー提督一人を暗殺するはずだった計画が、パリのユグノー虐殺へ変わり、ついにはユグノー皆殺しへと広がってしまったのです。
このサンバルテルミの虐殺による犠牲者は、1万~3万人ともいわれていますが、正確な数字はいまだに分かっていません。
サンバルテルミの虐殺後のフランス
ユグノー派のコリニー提督は暗殺されてしまいましたが、ブルボン家のアンリは生き残っていました。
アンリはヴァロワ家に捕らえられ、無理やりカトリックへ改宗させられました。カトリーヌはその後もユグノーへの弾圧を強め、根絶やしにする勢いでした。
三アンリの戦い
サンバルテルミの虐殺から2年後の1574年、カトリーヌの息子のフランス国王シャルル9世が亡くなり、弟のアンリ3世が後を継ぎます。
サンバルテルミの虐殺によって壊滅的な状態のユグノーでしたが、フランス国王アンリ3世の弟であるアンジュー公フランソワを盟主にすることで再び勢力を増していきます。
ヴァロワ朝フランスはボーリュー勅令を出してユグノーの礼拝を認め、同じ時期にブルボン家のアンリがヴァロワ家から逃げ出し、カトリックから再びユグノーに改宗します。
ボーリュー勅令は、カトリック派の圧力によりその後廃止されますが、ユグノー派は脱出したブルボン家のアンリを盟主に再び勢力を増していきます。
一貫性のない政策により国王アンリ3世はカトリック派の支持を失い、カトリック勢力はギーズ公のアンリを支持するようになっていきます。
息子である国王アンリ3世が力を失っていったことで、摂政として実権を握っていたカトリーヌも力を失います。
この頃のフランスは、ヴァロワ家の国王アンリ3世、カトリック派のギーズ公アンリ、ユグノー派のブルボン家アンリという三人のアンリが中心でした。
ナントの勅令(ちょくれい)
1584年、アンジュー公フランソワが亡くなりました。
1588年、王位を争っていたギーズ公アンリが国王アンリ3世によって暗殺されます。
1589年、カトリーヌ・ド・メディシスが亡くなり、同じ年に国王アンリ3世も亡くなります。
最終的に、カトリーヌの娘であるマルグリット・ド・ヴァロワの夫であるブルボン家のアンリがアンリ4世としてフランス国王になりました。
これにより、フランスでは新たにブルボン朝が王家となるのでした。
アンリ4世はフランス国王になるとカトリックに改宗し、1598年ナントの勅令を出してユグノーの権利を認めました。
長く続いたユグノー戦争は終わりを迎えたのです。
フランス革命へ
サンバルテルミの虐殺事件によって、フランス最後の王朝であるブルボン朝が誕生し、フランスはカトリックの国のままになりました。
フランス国内では、カトリック勢力は力を持ち、非課税などの特権を得て特権階級になって行きます。
そしてそれがフランス革命へとつながっていくのでした。
サンバルテルミの虚殺をわかりやすく解説します!宗教争いで多くの人々が犠牲になる!まとめ
いかがだったでしょうか? 現在の日本では宗教を感じる機会も少ないので、人々がこれほど宗教間で憎しみあっていたとは驚きですね。
サンバルテルミの虐殺については謎が多く、カトリーヌが黒幕だったという証拠はないようです。
もしかしたら本当に平和のために娘を結婚させたのかもしれませんが、初めから虐殺するつもりだったとしたらとても恐ろしいですね。
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参考文献:王妃カトリーヌ・ド・メディチ サンバルテルミー大虐殺の謎 出版社:新書館
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