建国の父~中華人民共和国建国~
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門に立ち、中華人民共和国の成立を宣言しました。
歴史的な瞬間に立ち会おうと天安門広場には30万人も人が集まり、毛沢東の演説に歓声をあげました。
毛沢東は中華人民共和国の基礎と理念を作り上げます。
1つは共産党が政治を動かす、というしくみです。
実は中国内には共産党以外にも「民主党派」と呼ばれる8つの党が存在しています。
しかしこれらの民主党派は「自分たちは共産党の指導に従う」と党の規則で定めているのです。
「他党の指導を受ける」とはっきり言っている党は自立した党ではありませんよね。
なので、ニュース等で聞くように中国の政治は共産党が「事実上の一党独裁」をしているのです!
もう1つは共産党が国家を指導する、という仕組みです。
どういうこと?と思っている人もいるかもしれませんね。
例えば今の日本だと日本国憲法、つまり法律が一番に大切なものです。
政策を決めるにしても法律で許されている範囲で物事を決めます。法律を守らないと罪が課せられます。憲法は絶対的なものです。
しかし、中国は憲法のうえに共産党がいます。これは共産党の考え方次第で憲法をどう解釈するか自由に決められるということです。
中国の憲法でも言論の自由、表現の自由が認められているのですが、共産党を非難しようとするものなら容赦なく罪になります。それっておかしいですよね?
これは「共産党こそが正しい思想をもっていているから皆従え!」といことなんです。
こうした仕組みや政策によって、毛沢東の実権は
ますます巨大になり、建国の父というのもあいまって、まるで神のように称えられるようになっていったのです……!
毛沢東の暴走~百花斉放・大躍進政策・文化大革命~
冒頭で毛沢東の政策で国が大パニック状態になってしまい、多くの人が命を落とすことになった……と書きましたが、実は最初から無茶な政策をしたわけではないんです。
中国は最初から社会主義国家ではありませんでした。
毛沢東が国作りの見本としたマルクス主義思想は発展した資本主義が成熟すると社会主義になる、という考え。
毛沢東も建国当初は共産党が指導しながら資本主義を発展させ、それが成熟したら社会主義に移ろうと考えていました。
まず財政を立て直すために人民銀行という国家の中央銀行を作り、お金の価値を全国で統一させました。
また全国の共産党の幹部たちの汚職や浪費、官僚主義(人々の必要なことより自分たちの必要なことを優先すること)を排除して政治の腐敗をなくそうという運動もします。
当時の中国の9割の人たちは農民だったので、農業改革も実施しました。
中国は古代の昔から、土地を持つ地主と呼ばれる人たちが権力を持ち、農民はその地主に雇われて土地を耕す、ということを続けていました。
共産党はそんな地主たちから土地や屋敷をとりあげ、農民たちに分け与えました。
同じように農業をするにしても雇われているのと自分の土地を耕すのではモチベーションが違いますよね。
農民たちはこの政策にすごく喜んで一生懸命に働いたので、農業生産力がぐっとあがりました。
これらの政策がうまくいき、毛沢東は国内の資本主義はもう完了した!社会主義に進むぞ!という政策を打ち出しました。
建国してからたった3年ばかりで資本主義終了宣言をしてしまったんです。えっ、早すぎじゃないの?と思ってしまいますよね。
この早すぎる決断がのちに国中が大パニックになってしまう原因になるのです…。
国内が大パニックになったのは1つの間違った政策のせいではありません。次々と間違った政策をどんどんと打ち出していった結果なのです!
百花斉放(ひゃっかせいほう)
1957年2月に毛沢東は何を考えたのか、
「共産党も間違いをするかもしれない。問題があったらどんどん批判してください。色とりどりの花が咲くように皆さん、自由に発言してね!」
というキャンペーンをうちだします。こわすぎでしょ!
これを「百花斉放」といいます。
最初は皆なかなか意見を言えませんでした。戦後に共産党の考えに逆らった人達がひどい目にあったことを知っているからです。
毛沢東はそれにたいして「言っても罪にはならないよ!」と伝えます。
それによって少しずつ、でも確実に多くの人が共産党への不満を口にするようになりました。その批判の声は日に日に大きくなっていきました。
すると毛沢東は百花斉放キャンペーンをはじめてわずか4か月たった頃に、突然に共産党にたいして批判していた人たちを危険人物だと名指しし、投獄したり僻地に追い出しました。
やっぱり批判されたらムカつく!と思ったのでしょうか?
それを見た国民は毛沢東に逆らっては自分や家族が危ないということが心底身に染みて理解しました。
以後、毛沢東がおかしなことを言いだしても批判することができなくなってしまったのです!
それがさらなる悲劇を生むことになります。
大躍進政策(だいやくしんせいさく)
大躍進って何が?って思う人もいるかもしれませんね。
これは毛沢東の政策で国内の農業や工業などの産業を短期間で大きく成長させて、世界の大国になろう、社会主義の敵である資本主義の国を追い越せ!というものです。
まず、毛沢東は農業の集団化を拡大、加速させます。
中国にとって社会主義の見本はソ連です。なので中国もソ連が行った農業の集団化をそのまま取り入れました。
農業の集団化とは「土地は個人が持つことはダメ。すべてみんなのもの。できた農産物はみんな平等に分けるよ」というものです。
ここであれ?なんか変だな、と思う人もいるかもしれません。
そうです、共産党は建国後に地主から土地を取り上げて農民に分け与えたのに、またその土地をまた取り上げたのです…。やっていることが一貫してないように見えますよね。
個人で土地は持てないけど、土地も農業によってできる作物もみんな平等にもらえるっていいことじゃない?と思ってしまいますが、ここに大きな問題がありました。
農業は自然が相手です。
農作物を荒らす動物が現れれば夜中だろうがなんだろうが追い払うために、対策をします。
嵐がくればそのために対策する。朝9時から夕方5時までと定時で終われる仕事ではありません。どんなに大変でも自分の土地だったら頑張ろうという気持ちで仕事しますよね。
けれど、それが自分だけではなく、みんなの土地だったらどうでしょう?
どんなに頑張ろうが、どんなに怠けようがもらえる物はみんな同じ。次第に農民全体のやる気がダウンしてしまい、農業生産力も落ちてしまったのです。
そして毛沢東は大躍進政策の一つとして、農業と同時に鉄鋼生産の拡大にも力をいれました。
社会主義国としてソ連の次に大国であると自負していた中国は、資本主義国としてアメリカの次に大国であるイギリスを勝手にライバル視します。
イギリスがなぜ豊かなのか調べると製鉄・鉄鋼で栄えたことが分かりました。
そこで毛沢東は「よし、鉄を作れ!」と命令します。作るのは職人ではありませんでした。農民だったのです!
鉄を作れと言われても、鉄を作る大規模な施設もノウハウもありませんでした。
けれど毛沢東に作れと言われたから作るしかない。そこで農民は土法高炉という原始的なやり方で鉄を作ります。けれどできるのは粗悪品ばかりでとても売り物にならなかったのです。
しかも鉄を溶かすためには火を燃やし続ける必要があるので、木を手当たり次第に伐採したので森はなくなりました。それによって洪水などがおきて農作物に甚大な被害がでてしまったんですね。
これらの大躍進政策によっておおきな飢饉が起こり、少なくても3千万人の人が餓死してしまったのです……!
指導者がアホなばっかりに起きてしまった大惨事です!
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