ポルポト政権の毎日が地獄すぎる件

さて、ポルポト政権が強制したハチャメチャな日々を見てみましょう。
人々は、朝4、5時頃に起こされ9時ごろまで働き,おかゆ少々のごはん、そしてお昼から日が暮れるまで死ぬほど働かされ午後6時ごろ、おかゆ少々の晩ご飯。
それから、夜は長―い勉強会、実際はポルポト政権のお説教大会。勉強会で質問したり、おかしくね?って聞けるかって?死にたければ、どうぞどうぞ。
同時に、病気の人、働けなくなった人、メガネの人、教師、医者、元政府の人、大都市に住んでいた人、等々が、テキトーに呼び出されて、処刑される毎日。
家族はバラバラにされ男女別の共同生活。家族は古い制度だ、国民は平等にみんなのために働くから、家族は不要!といったところでしょう。
もちろん、みんながホンネで話せば、こんな生活はヤだー、反乱だーってなりますよね。だから、ポルポト政権は、ラジオ、テレビ、新聞、電話などを全てなくし人々が大勢で話し合うことも禁止しました。
そのせいで、国民がニュースを知ったり、みんなで反乱を計画することもできませんでした。
こんな状況に置かれると、人間は少しずつ家畜になるようです。休みなく農作業をして、貧しい食事、プライバシーも楽しみも全く無く、突然の処刑を恐れて生きる毎日ですから。。。
恋愛NG?兵隊は子ども?
さらに国民を恐れさせたのが、ポルポトの少年少女兵でした。
ポルポト政権は子どもをドンドン兵隊にしました。理由は、字が読めず知識もない少年少女は、疑問を持たずに、ポルポトの言いなりで、どんな残酷なことも、処刑も、平気で実行したから。
恋愛もNG。こっそりデートでもして見つかれば、当然、死刑!
でも安心して。・・・結婚はポルポト政権が決めてくれます。ある日突然、知らない人を結婚相手に決められて、集団で結婚式をします。結婚後も、男女は別に住みますから、たまに、許可をもらって、会うことができるだけですが。。
悲惨!カンボジアに残った日本人女性の運命。。
ここで、ポルポト政権を生き残った日本人(内藤泰子さん)の実話を紹介しましょう。
内藤さんは、日本国籍なので、ポルポト政権成立後、カンボジアを脱出することが許されました。
でも、カンボジア人の夫や息子は出国できません。家族を残すのは絶対イヤ!ということで、内藤さんもカンボジアに残り、家族みんなで地方の村へ移住させられます。
・・・そして、一年もしないうちに、内藤さんは、家族4人全員(夫、息子二人、義理の娘)を飢えと病気で亡くして、一人ぼっち。
内藤さんは、昆虫や小動物、動くものは何でも食べ、なんとか、1979年6月救出されます。なんと、1,500日を地獄で過ごしたのです。救出されたときには、黒く豊かだった髪の毛がすべて白髪になり、生理も止まっていたそうです。
帰国後は、本を執筆したり、テレビで紹介されたりしましたが、3年後にガンで亡くなりました。
家族を失った悲しみとツラすぎる日々が命を縮めたのかもしれません。ちなみに、カンボジアに残った7人の日本人女性でポルポト政権を生き残ったのは、内藤さんを含む2人だけ。

ポルポト政権の犠牲者数・なんと東京ドーム30個分!
1975年に始まったポルポト政権は、1979年初めに崩壊!
ポルポト政権前に780万人ほどだったカンボジアの人口は、政権崩壊の後には600万人前後に減ったと言われています。
知識や機械をバカにした結果。。
ポルポトが政権を乗っ取ってから、国民を全員農民にしたにもかかわらず、不作が続きます。
経験の少ないポルポト兵が指導して、機械を使わず、肥料も農薬も無い!では無理ですよね。。
お腹がすいてたまらないので、皆さん、とにかく何でも食べました。
生き残った日本人の内藤さんは、野ネズミ、サソリ、狸、犬、クモ、ヘビ、ムカデ、アリをおいしく頂いたそうです。猫だけは臭くてまずかったとか。。
内藤さんは生き残りましたが、ものすごい数のカンボジア人が、ポルポト政権のデタラメな政策のせいで、餓死、病死、事故死、そして処刑で命を失いました。
ボクは悪くないもん! 悪者をつくれ!

勿論、ポルポト政権は不作を反省しません。
不作も飢えも、スパイか裏切り者のせいだ!探せ、そして、そいつらを殺せ!
ポルポト政権の指令で、スパイや敵(だいたいはデッチあげ)の処刑がさらに増えます。捕まったら最後、キビシイ拷問に耐えられず、ウソの自白をした後、処刑されました。
そして、ポルポト政権のもう一つの責任逃れは?
そう、戦争です! 外国を攻めて、国民の不満をそらす、独裁者「あるある」ですね。
標的はベトナム。お隣の国で、歴史的にライバルですから、ポルポト政権も、民衆をだますにはサイコーって判断したんでしょうね。
さっそく、ベトナムを攻撃しますが、ポルポト軍は、少年少女兵が多く、武器の使い方や作戦も幼稚。弱いポルポト軍はベトナム軍に勝てないので、ベトナムの一般庶民を殺し始めたのです。
しかも、赤ちゃんはたたきつけて殺す、女性は強姦する、死体の腹はさく、首は切り落とす。。。とんでもないやり方でベトナムの庶民を虐殺!
当初は我慢していたベトナムもついにブチ切れ、反撃します。ポルポト政権は結局、自分で墓穴を掘りました。
そして、誰もいなくなった
ついに、1979年1月、ベトナムの支援を受けた、ヘンサムリンと言うカンボジアの軍人が首都、プノンペンを制圧し、ポルポト政権は崩壊しました。
その時、プノンペンの人口はたったの5千人!だったと言われます。
なお、ポルポト政権の犠牲者数は150~200万人と推定され、当時のカンボジア人口の20~25%に達します。
東京ドームの観客数満員の55千人で言えば、何と27~30回満員分!
ポルポト政権とは?わかりやすく解説します!まとめ!
ポルポトは、前の政権がアメリカの助けを失い弱ったときに、政権をかっぱらいました。
4年後、ポルポト政権は、ベトナムに支援された軍隊に負けて崩壊。ポルポト政権は生まれも終わりも、外国次第だったんです。
そして、ポルポト政権の特徴は、子供っぽい理想とコンプレックス。
まず、ポルポト政権は、普通に考えたら、あり得なくねっ?て気づく理想、原始共産制をマジで鬼実行しました。そして、国民から、持ち物、おカネ、家族、学校もぜーんぶ取り上げて、家畜なみに支配したんです。
それから、ポルポトのコンプレックス(フランスで落第3回!)もあって、ポルポト政権は、字が読めて、鬼支配をジャマしそうな、教師、医者、公務員、都会から来た人々、などをドンドン処刑!
こんなトンデモ政策で、200万人近くが殺され、国土はボロボロになっちゃいました。ゾッとしますが、1970年代にアジアで起こったリアル地獄です。
人間って、同じようなミスを何千年間も繰り返しているって聞いたことが有ります。だから、こうして、たまには、歴史をふりかえってみるもの役に立つかもですね。
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【参考文献】
検証カンボジア大虐殺 本多勝一 朝日文庫
「カンボジア わが愛」 内藤泰子 日本放送協会 1979年
独裁者が変えた世界史 オリヴィエ・ゲズ編 原書房 2020年
ポル・ポト革命史 山田寛 講談社 2004年





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