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女帝マリアテレジアとは?その生涯をわかりやすく解説。最後や名言などもご紹介!

女帝マリアテレジアとは?その生涯をわかりやすく解説。最後や名言などもご紹介!
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おそらく、世界史に残る女性の中でも特に有名な、マリア・テレジア

彼女は、フランス革命で散ったマリー・アントワネットの母であるというだけでなく、自分自身の才覚で、一つの大国を守り栄えさせた女帝でありました。

マリア・テレジアの名は日本でも広く知られています。しかし、その生涯についてはよく分からない人も多いのではないでしょうか?それはもったいない・・・・

ということで、この記事ではマリア・テレジアの波乱に満ちた生涯と、彼女が残した名言について解説していきます!お楽しみに!

目次

ハプスブルグ家最盛期の女帝・マリア・テレジア

ハプスブルク家の君主として、そして母として、激動の時代を生きた女性マリア・テレジア。

マリア・テレジアは1715年、オーストリアの名門中の名門ハプスブルグ家の長女として生まれました。父は神聖ローマ帝国皇帝・カール6世。母は王妃、エリザベート・クリスティーネです。

絶世の美女だと言われていたマリアテレジア

実の所、マリア・テレジアが幼い頃のエピソードは、ほとんど今に残されていません。それは当初、マリア・テレジアがハプスブルグ家の当主となるとは考えられていなかったためでしょう。

家督相続人は基本的に男性のみ。その考え方が当たり前だった頃の話です。

分かっていることは、マリア・テレジアは幼い頃から美貌で知られていたということ。

そして、両親に愛され、何不自由なく育ったということです。その美貌に関しては、少女時代の彼女の肖像画を見れば分かるでしょう。

マリアテレジアの恋

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

美しく、聡明に育ったマリア・テレジアは、一人の男性と出会います。その男性は、9歳年上のフランツ・シュテファン(後のフランツ1世)。

彼女は凛々しい青年であるフランツに、熱烈に恋をしました。

この時のマリア・テレジアは、寝ても覚めてもフランツのことを考え、召使たちに彼のことを話していたようです。現代の恋する乙女と同じで、微笑ましさを感じますよね。

そんな彼女の初恋は、1736年に実ります。

元々は、フランツの兄がマリア・テレジアの婚約者候補として挙がっていました。しかし、その兄が急死し、フランツがカール6世に気に入られていたこともあり、婚約が正式に決まったのです。

当時の王族は政略結婚が当たり前です。初恋を実らせたマリア・テレジアの結婚は、異例中の異例と言って良いでしょう。

ハプスブルク家の後継者問題

幸せに暮らすマリア・テレジアですが、その父であるカール6世には悩みがありました。

それは、皇后との間に男の子が生まれないこと。マリア・テレジアの前に一人男の子が生まれはしたものの、幼くして亡くなっていたのです。

マリア・テレジアが成長してもなお、カール6世は男の子に恵まれません。その為、カール6世はマリア・テレジアを相続人とするために動き出しました。

ハプスブルク家の相続についてちょっとマリアテレジアの生涯を巻き戻してみてみましょう。マリア・テレジアの結婚から遡ること13年。

マリアテレジアの父であるカール6世は新しい家督相続規定を定めます。

それには、長子に家督を相続させるということと(女性であっっても)、領地を分割してはならないといったことが組み込まれていました。

これにより、マリア・テレジアはハプスブルグ家の相続人となることができたのです。

1740年にカール6世が亡くなると、マリア・テレジアはハプスブルグの全財産を相続することとなりました。これが、女帝マリア・テレジアの始まりとなりました。

幼きマリアテレジアは美貌とともに莫大な資産をも手にしてしまったのでした。

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政治家としての手腕を発揮

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

1740年、マリア・テレジアが家督を相続すると、オーストリア継承戦争が勃発します。

元々、女性がハプスブルグ家を相続することに良い思いをしない時代でした。そしてそれは、一般民衆のみならず、周辺の国を治める君主たちも同じでした。

第一に意を唱えたのは、プロイセン王国国王・フリードリヒ2世

彼はオーストリアにとって重要な土地、シュレジエンの割譲を求めました。それに続くのは、バイエルン選帝候であるカール・アルブレヒド。

彼はベーメン君主(ボヘミアの君主。神聖ローマ帝国にとって重要)の地位を要求しました。さらに、この流れにフランスまでも加わってしまいました。

やがて、フリードリヒ2世はシュレジエンに侵攻し、その地を奪い取ります。

そんな中、マリア・テレジアは長男のヨーゼフを出産。

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マリアテレジア・ハンガリー女王に即位

その足で、ハンガリー女王に即位します。

ハンガリーは元々、オーストリアと対立していました。しかし、彼女の美しい姿を見て、ハンガリーの人々は好印象を抱いたと言います。

伝説によると、マリア・テレジアは胸に赤子を抱き、ハンガリー議会に助けを求める演説を行いました。ハンガリーには小規模ながら、プロイセンやバイエルンに対抗するための兵力があったのです。

マリア・テレジアの演説は明晰で、人の心を揺さぶるものでした。結果としてハンガリーは彼女を助けることを決めたのです。

やがて、イギリスの仲介によりオーストリア継承戦争は終結を迎えました。シュレジエンは取られてしまったものの、ベーメン君主の座は奪還し、その地位に彼女が就くことになりました。

多くの子供を産み・ハプスブルク家を支えた

この時、マリア・テレジアは子供を産んで間もなくの若い女性。そんな彼女が他国に屈しなかったということは、類まれな政治的な才能を持っていたことを表しています。

マリア・テレジアはその後、フランツとの間に16人の子供をもうけます。

その多くは婚姻政策によって他国の王家と結婚し、ハプスブルグ家は大きな影響力を誇りました。

その中には、マリー・アントワネットも含まれています。彼女はマリア・テレジアの末子であり、フランスとの融和政策のため、ルイ16世と結婚することになったのです。

婚姻政策は、血を流さずに領地を拡大する方法の一つでした。マリア・テレジアはあくまで平和を好む君主だったようです。その政策は大いに成功し、彼女の時代にハプスブルク家は隆盛を誇りました。

因みに、マリア・テレジアはハプスブルグ家当主ではあるものの、神聖ローマ帝国皇帝ではありません。

皇帝の座に着いたのは、あくまでも夫であるフランツ1世でした。

しかし、フランツ1世は学者肌で、君主に向いていなかったようです。政治のほとんどはマリア・テレジアが切り盛りをし、彼は趣味の研究に勤しみ、良き家庭人であったと言われています。

マリア・テレジアが「女帝」と言われるのは、彼女の地位によるものというよりも、その才覚と実績によるものが多そうです。

偉大な女帝の最期

1765年、マリア・テレジア最愛の夫であるフランツ1世が亡くなります。

このことを深く悲しんだ彼女は、以降喪服以外を身に着けませんでした。また、頻繁に夫が眠るお墓を訪れ、祈りを捧げていたとも言います。政略結婚といえでもフランツ1世への愛情は本物でした。

同年、二人の息子であるヨーゼフ2世が、神聖ローマ帝国皇帝の座に着きました。

啓蒙主義的な息子ヨーゼフ2世と意見の対立

ここから、ヨーゼフ2世とマリア・テレジアの共同統治が始まります。政治にあまり関わらなかったフランツ1世に比べ、ヨーゼフ2世は政治に積極的でした。

政治的な考え方において、ヨーゼフ2世とマリア・テレジアは意見が合いませんでした。なぜならば、先進的な啓蒙思想に関心を持つヨーゼフ2世の考え方を、マリア・テレジアが受け入れることができなかったからです。

この考え方の違いは、マリア・テレジアがポーランド分割(同じく啓蒙思想を持つフリードリヒ2世に誘われ、ヨーゼフ2世が参加した。その名の通り、ポーランドの国土をロシア、プロイセン、オーストリアで分割した歴史的事件)に激しく反対したことに現れています。

息子ヨーゼフ2世との対立は、偉大な君主であるマリア・テレジアの、晩年に落とされた影と言えるでしょう。

そんないざこざがあったにせよ、マリア・テレジアの最期は穏やかなものでした。

1780年、マリア・テレジアは突如高熱を出し、病の床に就きました。

おそらく肺炎だったと言われています。それから2週間後、マリア・テレジアは最愛の夫のガウンをまとい、ヨーゼフ2世や娘のマリア・アンナなど、多くの子供達に囲まれながら息を引き取りました。

マリー・アントワネットがギロチン刑に処せられる、約13年前のことです。

享年63歳。ハプスブルグ家の最盛期を築いたマリア・テレジアは、フランツ1世と同じお墓で眠っています。

マリア・テレジアの名言

マリア・テレジアそのものは有名な人物であるものの、今の日本で知られている名言は多くはありません。そんな彼女が残した言葉として、最も有名なものが「私は最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい」というものです。

これは、マリア・テレジアがハプスブルグの家督を継いだ際、いわゆる戴冠式(皇帝の座には就けないものの)で発したものだと言われています。

この言葉には、マリア・テレジアの女性らしさが溢れています。絶対的な支配者であるよりも、慈悲深さと母性を表に出した宣言。当時すでに母であった彼女の心境が、見え隠れするようです。

端的ながら、マリア・テレジアの人となりを表した言葉だと言えるでしょう。

女帝マリアテレジアとは?その生涯をわかりやすく解説・最期や名言などもご紹介!まとめ

「女帝」と言われるマリア・テレジアの生涯や名言について解説してきました。有名な人物ながら、知らない部分があったのではないでしょうか。

マリア・テレジアは普段、娘であるマリー・アントワネットの影に隠れています。しかし、詳しく調べて見れば、アントワネットよりも深い魅力のある人物です。

ハプスブルグ家の最盛期を築いた女帝。男女差別の根強い時代に、女性らしくありながら、優秀な君主であり続けた彼女の生き方は、現代の女性にとっても参考になるかもしれません。

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