日本歴史

ひめゆり学徒隊とは?わかりやすく解説!純粋な女の子たちがまっすぐに戦・・・・

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みなさん「ひめゆり学徒隊」という言葉をご存知でしょうか?

なんだか可愛らしいネーミングですが、太平洋戦争に参加させられたある若い女学生達のことなんです。

太平洋戦争では多数の死者が出て悲惨な出来事がたくさん起こりました。この「ひめゆり学徒隊」の方たちもその犠牲者のひとつです。

彼女らがどのように組織され、そして悲しい結末を迎えたのか見ていきたいと思います。

太平洋戦争の中の沖縄戦

いまから約80年前、第二次世界大戦と呼ばれる世界を巻き込んだ戦争が起こっていました。

当時の日本はアメリカなどの世界の大国を相手に、太平洋戦争と呼ばれた、泥沼の戦争を繰り広げていました。

太平洋戦争の結果、1945年に日本は敗戦を迎えます。

太平洋戦争の中でも特に沖縄では、軍人ではない一般の住民の方々が被害者となりました。その沖縄戦を中心に戦争の経緯を振り返ってみましょう、

沖縄が戦地になるまで

沖縄戦争とは、太平洋戦争で日本がどんどんと追い込まれていった末期の1945年3月26日から6月23日にかけて、日本の沖縄本島とその周辺地域で行われた、日米間での最大規模の戦闘です。

太平洋戦争では、日本軍は、最初、中国や東南アジアをどんどんと攻め落としていったのですが、次第にアメリカの反撃を受けて、じりじりと追い込まれてしまいます。

今は南国のリゾートとして知られるサイパンには、この戦争のころには日本軍が駐留していました。

このサイパンは、この土地を占領されたら日本本土を攻め込むための基地にされてしまう!という最終防衛圏と呼ばれるとても重要な島でした。

しかし、とうとうそのサイパンも陥落し、その結果、アメリカ軍は日本本土である沖縄本島に攻め込むことができるようになってしまいます。

ついに日本は多くの国民が住んでいる土地で戦争をせざるをえなくなりました。

ちなみにこのサイパン島で日本軍や民間人がアメリカ軍に対して、「玉砕」と言われる自爆のうえで全滅するという悲惨な行為が行われ、以降の戦闘のいたるところで「玉砕」が繰り返されることになり、それは沖縄戦でも同様でした。

アメリカ軍は、サイパンを陥落させたことで、日本本土に直接攻撃することが出来る基地を作ることが出来ました。

それ以降、日本の空にB29という爆撃機が飛来して、日本各地では空襲の被害にあうことになります。

沖縄戦の開始

日本本土への攻撃に苦しむようになった日本軍は、沖縄で本土決戦を行うという方針を固めます。

アメリカ軍もまた、日本軍の基地が多く建設されていた、この沖縄を攻略する必要がありました。

そして、1944年10月には沖縄への空襲が始まります。

この空襲では、軍事施設だけではなく病院や民家など一般の施設も無差別に攻撃されました。戦争とは直接関係のない、沖縄市民の方々が巻き込まれ、那覇市のほとんどは焼け野原となってしまいます。

日本軍はというと、いざ沖縄戦が始まっても、軍隊の中でもいろいろな意見が割れてしまい、本来必要な兵力を確保できませんでした。

十分な戦力の無かった日本軍は、一般市民である沖縄県民から兵力を招集して戦力を補充させようとします。兵隊として駆り出された人々の中には、なんとまだ子供であった学生・女学生も駆り出されたのです。

沖縄陥落

兵力が十分でなく女子供すら駆り出させざるを得なかった日本軍は、大きな兵力を持つアメリカ軍にどんどんと攻撃されていきます。

とうとう沖縄県の西側の海岸からアメリカ軍が上陸してきました。

アメリカ軍は圧倒的な軍事力の差で沖縄を侵攻していき、日本軍は首里城に追いやられます。

司令部を首里城に置いていた日本軍はもはや勝ち目はありませんでした。

しかしできるだけ戦況を長引かせるという時間稼ぎの役目を負わされていたため、持久戦に持ち込ちこみ多くの犠牲者を出してしまいます。

沖縄戦は終戦の年の6月まで続き、沖縄線の司令官が自決することで終着を迎えます。

最終的にこの戦いでは、沖縄住民約9万人以上の民間人の犠牲者を出すという悲惨な結末を迎えたのです・・・・

ひめゆり学徒隊とは

上述したように、沖縄戦では一般市民でありまだ幼い女学生達までもが戦場に駆り出されていきました。

なぜ、このようなことが起こってしまったのかを見ていきましょう。

なぜ女学生が戦争に参加することになったのか

前章でも述べましたが、沖縄戦が開始した時に日本軍は内部での意見が割れていました。

例えば、当時の日本軍は陸軍と海軍でとても仲が悪かったと言われています。

本来は協力し合わないといけない、陸軍と海軍はお互いに本音で意見を交わすことは無く、むしろ敵対していました。また、自分の軍を犠牲にしたくないために、お互いに作戦に必要な兵力すらも温存しあっていたりしていたのです。

また、大本営と呼ばれる日本軍の中枢の作戦を立てる機関がありました。ここは軍のトップがいて日本本土の安全なところから、各最前線の部隊へ指示を出していました。

しかし、この大本営と各前線部隊の間でも、うまくコミュニケーションが取れておらず、間違った作戦を取ってしまっていたのです。

こうして、本来であれば沖縄での決戦に立ち向かうはずの十分な軍隊を沖縄には振り向けることができず、その足りない兵力を民間人で補うという事態に陥ってしまったのです。

しかし、そもそも健康で若い男性はすでに徴兵されてしまっています。終戦間際の追い詰められた沖縄に住んでいたのは、女性や子供、ご老人などばかりだったのです。

そして、まだ若く動ける女学生たちが徴兵に選ばれることとなり、軍隊に参加させられることとなりました。

ひめゆり学徒隊の活動

学徒として動員された女学生のうち、沖縄県の中でも名門であり、才女が集まっていた、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒の約200人を「ひめゆり学徒隊」と呼んでいました。

「ひめゆり」の由来は、学校の愛称からきています。

沖縄県立第一高等女学校の愛称である「おとひめ」と沖縄師範学校女子部の愛称である「しらゆり」が合体してできた名前だったようです。

この女学生たちは、動員される前までは本当に今の若者とも変わらない学生生活を送っていました。名門高校でしたので、プールや図書館など学校施設も充実しており、学芸会や体育祭などの行事も活発にされていたといいます。

彼女たちは陸軍病院などで負傷兵の看護や、死傷者の埋葬といった活動をさせられました。

しかも、その病院は私たちが想像するような建物ではなく、トンネルのような塹壕を30個以上も掘ったなかにベッドなどを置いただけのものでした。

その塹壕の地下に潜らないと、地上の建物はアメリカ軍の攻撃の標的にされてしまうのです。

その病院とも言えないような塹壕には、戦闘で負傷してしまった日本軍の兵士がどんどんと運ばれてきます。

中には、途中で腕や足を飛ばされてしまった悲惨な状態の兵士や、一部が壊死して腐ってしまっているような負傷者も多かったと言います。

また、その看病もとても劣悪な環境でせざるをえなく、兵士の糞尿の処理もしなくてはいけません。

年頃の女の子にさせる仕事としては、あまりにも惨い状況だったと思います。

ひめゆり学徒隊の最期

塹壕の中で必死に負傷兵の看護にあたっていたひめゆり学徒隊ですが、沖縄戦が絶望的になると、学徒隊は解散を命じられました。

しかし、すでにアメリカ軍は沖縄全域を支配していたため、彼女らが地下壕から出た途端にアメリカ兵からの攻撃に合い、銃砲だけではなくガス弾攻撃の犠牲にもなってしまいました。

解散を命じられてから約1週間の内に、職員を含むひめゆり学徒隊240名中、生徒123名、職員13名が犠牲となり、中には海岸に追い詰められて自決をしてしまう方達もいたのです。

ひめゆり学徒隊が後世に残したもの

年頃の女学生達が戦争に駆り出され、悲惨にも多くの犠牲者を出しました。

彼女たちが経験したことを、今の私たちもしっかりと学び、多くの反省をしていかなければいけません。

ひめゆり学徒隊だった方の証言

沖縄戦で追い詰められ犠牲となったひめゆり学徒隊ですが、生き残った方達の中にはその戦争の現実を後世に伝えていこうと、数々の証言を残してくれた方もいらっしゃいます。

ある方は、その惨状をこのように話しています。

当時、学校の教育や新聞ラジオはいつも「日本が米国を打ち負かしている!」と伝え、戦争に参加する人たちを讃えていました。

そのため、学徒隊に参加するようになった学生たちは「戦争はかっこいい」というイメージがあったといいます。

しかし、現実はそうではありませんでした。日本軍やマスメディアは敗北を隠し続けていましたし、国民を守るはずの軍隊は沖縄戦では機能していませんでした。

また、最初は嫌がっていた死体処理などの仕事も段々と日が経つにつれ、感覚がマヒしてしまい、苦にならなくなったとも言います。

そんな戦争の記憶は戦後にも思い起こされ、死んでいった友人たちを思うと心が痛む日々が続いたそうです。

しかし、本当は忘れてしまいたいような辛い過去の経験を、戦争を知らない若者のために今でも涙をこらえて伝えてくれているのです。

ひめゆりの塔とは

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

現在の糸満市にある沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑を「ひめゆりの塔」と呼んでいます。

高さは数十センチと「塔」というには小さいものですが、戦後の物資不足にもかかわらず、またアメリカ軍に占領されているなかで、何とか建立することができたと言われています。

また、敷地内には同じく沖縄戦で亡くなられた医療関係者の方の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられています。

その後、ひめゆりの塔に関する小説や映画も作られ有名になり、その隣接地にはひめゆり平和祈念資料館も建てられています。

ひめゆりの塔を中心に、沖縄戦の悲惨さと、ひめゆり部隊など多くの犠牲者の方たちを象徴し、後世に受け継ぐために、いまでも参拝者が絶えません。

そのほかの学徒隊

沖縄戦ではひめゆり学徒隊の他にも、多くの男女学生による学徒隊が編成されていました。 

白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊などが存在したと言われ、21もの中学生が戦争に駆り出されていき、14歳以上の少年を鉄血勤皇隊として防衛召集しました。

また、陸軍中野学校の出身将校によって作られた2つの少年兵ゲリラ部隊も編成されました。

ひめゆり学徒隊の方達以外にも多くのまだ若い児童や学生たちの多くが、戦闘による犠牲となっていったことを知っておかなければいけません。

ひめゆり学徒隊をわかりやすく解説 まとめ

本来守られないといけない子供や学生、それもか弱い女性たちをも戦争に半強制的に参加され、多数の犠牲者を出したことは、太平洋戦争の中でも悲劇の一つであると言えます。

それは単に日本軍が米国に追い詰められていただけでなく、日本軍の組織的な欠陥や判断ミスが理由でもあります。

戦争前の暮らしぶりを見ると、本当に今と変わらないような生活をしていた日本人が、戦争に巻き込まれてしまいました。

このような悲惨な結果を招いてしまったことはいつまでも語り継いで学んでいかなければいけないことです。同じようなことが二度と起こらないよう切に願います。

 
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【参考文献】

https://ja.wikipedia.org/wiki/ひめゆり学徒隊
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kokufu/sensou/okinawa.html
https://www.veltra.com/jp/yokka/article/himeyuri-monument
https://www.weblio.jp/content/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E5%AD%A6%E5%BE%92%E9%9A%8A
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2266

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