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持統天皇ってどんな人?わかりやすく解説!権力をふるった女性天皇・血筋に執着?

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天皇陛下の長女、愛子さまの生まれて以来、女性天皇、女系天皇問題がさかんに議論されています。

多くの女性店の中には絶大な権力をもって、次々に政策を実行した凄腕の女性君主もいました。

権力を手にした女性天皇は幸福な人生を送れたのでしょうか?

今日は女性天皇でありながら絶大な権力を手にした持統天皇について見ていきたいと思います!

目次

第41代天皇、持統天皇ってどんな人?

持統天皇は自身の天皇時代だけでなく、天武朝、文武朝と継続して権力を維持し、国を統率した為政者だと言われています。

持統の名は維持し統率する、という意味を持っています。

幼い頃は鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)と呼ばれていました。タレントの神田うのの名がうののさららから来ていることはよく知られていますよね。

この章では神田うのの名付け親であるお父さんに倣い、天皇に即位するまでの持統天皇をうの皇女と表記することにしましょう。

壬申の乱、近江朝VS吉野方、夫と弟で敵味方に!

持統天皇=うの皇女は大化元年(645)天智天皇と越智娘(おちのいらつめ)の間に生まれました。

父、天智天皇(当時は中大兄皇子)が蘇我入鹿を滅ぼした乙巳(いっし)の変、大化の改新と同年の生まれとは何とも象徴的ですね。

うの皇女は叔父である、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)に嫁ぎます。当時は政略結婚、近親婚が当たり前で、叔父と姪の結婚など珍しくはありません。

天智天皇とその弟である大海人皇子との結束を図るための結婚でした。

しかし近親婚の影響か、うの皇女周辺の男子は病弱、短命が多く障害を持つ子供もいたのです。男の子孫が病弱、短命であることは、彼女の生涯の苦悩となっていきます。

父、天智天皇が亡くなると腹違いの弟である大友皇子と、夫の間で後継争いが起こります。

命の危険を感じた夫、大海人皇子とうの皇女は、出家という形をとって吉野に逃れました。

しかし出家とは仮の姿、大海人皇子は虎視眈々と反撃するチャンスを伺い、密かに挙兵の準備をしていたのです。

かくして672年、古代日本最大の内乱、壬申の乱が勃発します。

近江朝VS吉野方という図式で大和王朝を二分する初めての大戦争でした。夫と義弟の争いに、うの皇女は夫側につきます。

夫の勝利で皇后、そして天皇へ

壬申の乱は大海人皇子の勝利に終わり、夫は天武天皇として即位します。

うの皇女は天武天皇の皇后となりました。

天武天皇は天智天皇の娘を4人も妻にしていましたが、皇后に選ばれたのは吉野で苦楽を共にしたうの皇女です。

血の繋がった姪を4人も妻にするってちょっと気持ち悪いですね。

うの皇女は吉野に避難していた頃から、天武天皇のブレーンとして活躍し、夫の勝利に貢献したと言われています。

天武天皇の政治は皇親政治と呼ばれ、臣下から大臣を置かない、天皇の親族だけで政治を執り行うものでした。

政治の中心はカリスマ的人気を誇る天武天皇です。

うの皇女は父譲りの聡明さと実行力で夫を支え、天皇の子供たちに活躍の場が与えられます。とはいえ、うの皇女の産んだ子供は草壁皇子ただ一人。他の皇子は全て腹違いの子供です。

天武天皇は天智天皇に負けず劣らず子だくさんで、10人の妻が総勢17人の子を産みました。確かにそれほど子供がいるのなら、大臣を置かなくてもオッケーかもしれません。

後の権力争いを避けるために、その他大勢の皇子たちは皇后を実母と思い、仲良くするようにと盟約が立てられます。(吉野の盟約)

うの皇女にしてみれば、よその女が生んだ子なんて知ったこっちゃない、要職になんてつけたくない、というのが本音ではないですかね?

結局天武天皇の実質的な共同統治者は、うの皇女だけでした。

壬申の乱の勝利から15年後、天武天皇は病でこの世を去ります。

うの皇女が天皇に即位したのは690年、天武天皇が亡くなってから3年が経過していました。

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実績多数!史上初の上皇にもなっちゃう

うの皇女は持統天皇として即位します。(以下、うの皇女→持統天皇と表記します)

天皇になってからというもの、そりゃあもうすごいんです。

持統天皇の業績と言えば、藤原宮造営から遷都、飛鳥浄原令の制定が挙げられます。

藤原宮は日本初の本格的都市機能を持った都で、唐の長安を参考に作られています。

飛鳥浄原令(あすかきよみはられい)は日本史上初のきちんとした法令であり、国が法治国家として歩むきっかけにもなりました。

現代の日本国の土台を築いたと言えます。これらの業績は天武天皇の時代に立案され、持統天皇が引き継ぐ形で実現、完成に至ったと見られています。

立案と実現、どちらが大変か言うまでもありませんね。

初めてづくしの持統天皇は天皇の位を譲っても、君主として朝廷に君臨し続けます。

文武天皇が即位した後は、これまた日本初、太上天皇という自分のための位を創設し、生涯上皇として権勢を振るいました。

亡き姉の息子、大津皇子の謀反は真実か

持統天皇の即位は天武天皇の死後三年の空白があります。女性天皇は本来、次の天皇が成長するまでの中継ぎでした。

天武天皇には皇太子、次の天皇と約束された草壁皇子の存在があったのですが、若くして亡くなります。

草壁皇子以外にも天皇にふさわしい皇子が数多くいる中、持統即位は果たしてスムーズに行われたのでしょうか?

我が子、草壁皇子を何としても天皇に!!

持統天皇の愛息、草壁皇子は生来、病弱で気弱な性格でした。皇太子に任命されたものの、一歳下の大津皇子に世間の人気は集まっています。

大津皇子は持統天皇の同母姉、大田皇女の忘れ形見です。つまり大田皇女の方が先に天武天皇と結婚しており、身分の上でも第一の妻でした。

皇位継承には妻の身分が重要な条件の一つで、この時点で持統天皇は第二夫人なわけです。

残念ながら大田皇女は早逝し、大津皇子は朝廷に後ろだてを無くしました。

懐風藻(日本最古の漢詩集)によると、大津皇子は「イケメンでマッチョ、小さい頃から勉強が大好きで文章上手、武芸も得意で剣も強い、皇子なのに気さくな好男子」とほめちぎられています。

大田皇女亡きあと、第一夫人となった持統天皇は、草壁皇子を皇太子にすることには成功しますが、内心穏やかではありません。

大津皇子の優秀さと人気の高さを愛した天武天皇は、草壁皇太子をさしおいて朝廷で重い地位に就かせます。

「皇太子には草壁皇子よりも大津皇子の方がふさわしいのでは?」と、誰もが思い始めた頃、天武天皇は病気で亡くなってしまうのです。

「冗談じゃないわよ、うちの子が天皇に決まってんじゃん、こうなりゃ容赦しないわよ!」

持統天皇の暗躍が始まります。

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ライバル大津皇子を死罪に処す

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

天皇が亡くなると葬儀が終わるまでに、次の天皇を決めなければなりません。天武天皇の葬儀は過去最長の三年に及びます。

この異常な長さは天武天皇の偉大さを印象づけると共に、皇太子草壁の地位を安定させる為でした。

大津皇子の人気は無視できない状態にあったのです。天武天皇の死後わずか一ヵ月で大津皇子の謀反が発覚します。

大津皇子は捕えられ、死罪となりました。

大津皇子の他、三十名余りが共謀者として処罰されますが、彼らの処分は驚くほど軽く、後に政界復帰する者もありました。

謀反の罪をきせ、政敵を抹殺する手口は持統天皇の父、天智天皇の得意技です。

この事件が捏造であり、大津皇子を亡き者にするためのでっちあげである、と多くの研究者が指摘する理由です。

哀れ草壁、皇太子のまま逝く

最大のライバル大津皇子を排除しても、草壁皇子の天皇即位は実現しませんでした。

病弱な皇太子は天皇に即位する前に、27歳で亡くなります。

遺されたのは草壁皇子の子、まだ7歳の軽皇子でした。

だったら孫を天皇にするわよ!!

持統天皇はいずれ軽皇子に位を譲る為、中継ぎとして即位します。

草壁皇子、大津皇子に次ぐ皇太子候補には高市皇子がいましたが、母の身分が低く条件は不十分でした。

持統天皇は高市皇子を太政大臣に据えて牽制し、軽皇子(かるのみこ)を皇太子にします。

持統天皇の側で尽力した高市皇子ですが、やはり短命で世を去り、やがて軽皇子が文武天皇として即位する日が来るのです。

持統天皇の悲願は果たされました。

日本書紀神代に見る、祖母→孫継承の正当性

祖母から孫への継承はどう考えても無理があります。年長で天武天皇の血をひく皇子は、まだまだいます。

しかし持統天皇は自分の血筋に異様な執着を見せるのです。

日本初の歴史書「日本書記」神代では、女神アマテラスオオミカミが孫のニニギノミコトに国を治めるよう天降りさせます。

このエピソードは祖母→孫へ、皇位継承の正当性をアピールする狙いがあるとされています。

持統天皇ってどんな人?わかりやすく解説!まとめ

最愛の息子は天皇になれず、孫に望みを託した持統天皇ですが、輝かしい業績に反し、一人の女性としては報われない生涯でした。

持統天皇の死後、文武天皇も短命に終わり、嫁(元明)と孫娘(元正)がひ孫(聖武)に位を譲るために中継ぎ天皇となります。

報われない血筋のループは玄孫である称徳天皇が子を産まずに亡くなるまで続くのです。

類稀な政治家として采配を振るいながら、彼女はどんな思いで夫の妻たち、別腹の子供たちと向き合ってきたのでしょう?

愛憎の果てに彼女が残した言葉はありませんが、白鳳文化を代表する薬師寺の伽藍は持統と天武、二人の愛を表現したもの、と伝えられます。

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参考文献
「人物叢書 持統天皇」直木孝次郎 吉川弘文館
「律令制とはなにか」大津透 山川出版社

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