日本歴史

孝明天皇ってどんな人?やったことって何?激動の幕末を生き抜いた!!

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日本の歴史の中でも「黒船来航」「ペリー」「幕末」といった江戸時代末期のキーワードは多くの人が記憶しているのではないでしょうか?

実際この時代は数々の小説やドラマ、映画で語られていますね。

そんな激動の幕末時代に天皇として様々な難しい決断をくだしながら奔走し、より良い日本の道を模索した人物が孝明天皇です。

若くして即位し、江戸時代最後の天皇となった孝明天皇の密度の濃い人生を辿ってみましょう!!

孝明天皇の人生で起こった出来事がすごい!

孝明天皇は1831年、天保(てんぽう)の時代に平安京で生まれました。幼少時は煕宮(ひろのみや)という名前でした。

父親は仁孝(にんこう)天皇、母親は正親町雅子(おおぎまちなおこ)といいます。

天保の時代に生まれ、15 歳で即位

6人兄弟姉妹の4番目だったのですが、父親であった仁孝天皇の崩御(ほうぎょ、つまり亡くなった)の際、上の3人が既に亡くなっていた為1846年、15歳という若さで121代目の天皇に即位することになりました。

即位の儀式が行われたのは翌年です。父親から「孝」という一文字を継いだことになりますね!

孝明天皇は天皇として即位する前年の1845年に九条夙子(くじょうあさこ)と結婚しています。

在位の真っ只中にペリーがやってきた

こうして孝明天皇は1846年、天皇に即位しますが、その7年後の1853年にあのぺリーが巨大な黒船に乗って浦賀(今の横須賀)にやってくるという日本にとって大事件が起こります。

当時日本は長い間鎖国中で、公式には外国と付き合わない政策を続けていました。

そんな状況でしたから、一般市民の動揺と混乱ぶりは筆者が想像するに、今で言うと宇宙人が未知の動力を使った乗り物に乗って大挙して地球にやってきた、くらいの衝撃でしょうか ?!

異国から初めて外国の方がくる衝撃は不思議だったじゃろうの

当時は今よりも寿命が短かったとはいえ、22歳という若さでそんな国民の不安を鎮める立場にあった孝明天皇のプレッシャーやストレスの大きさを想像すると、本当に大変なお役目だったことが伺えます。

日本はこの来航を受けて1854年、日米和親条約を結びます。

つまり開国することになるのですが、この時はあくまで両国の「友好」が目的だった為に条約を結ぶ決断に至ったようです。

孝明天皇、大火事に遭い、下鴨神社に避難

日米和親条約という日本にとって歴史的な条約が結ばれたのは1854年の3月3日のことでした。そしてこのわずか1か月後の4月6日、京都市内で大規模な火事が発生しました。

この時皇居ももらい火で炎上し、孝明天皇は下鴨神社に避難します。

その際孝明天皇は籠に乗らず通常の衣装のまま歩いて神社に着いたという記録があることから、火のまわりの早さが分かります。

ただそんな緊急事態にも関わらず、孝明天皇は三種の神器という皇室に代々伝わる3つの秘宝を自ら携えてきました。

天皇の、日本の国や伝統を重んじる並々ならぬ責任感が伺えますね。

孝明天皇、伊賀上野地震に遭い住まいを移す

 

1854年4月に大火事に見舞われた孝明天皇ですが、その2か月余り後の6月15日、今度は伊賀上野地震に遭います。

この地震で伊賀上野(現在の三重県の辺り)とその周辺地域を含め、約1300人もの死者が出ました。

そして京都でも石燈籠(外用の照明器具です)が倒れたり建物に亀裂が入るなどの被害が出ます。

2か月前の大火事で2つの御所が焼失する被害にあった孝明天皇は、地震発生後何度も続く余震を受け、この時に住まいとしていた御所から、隣にある公家の屋敷に移動します。

京都では大きな被害は出なかったものの、孝明天皇は大火事の避難に続いて再び住居を変え、落ち着かない日々の中で開国した日本の行く先に頭を悩ませていたに違いありません。

またこの翌年の1855年、追い打ちをかけるように安政の大地震が関東で起こりました。

震度6との記録が残っている歴史的大地震も孝明天皇の時代に起こったのです。

なんか地震や災害を引き寄せるお方じゃなのう。

 

外国人とは付き合わない!主義の孝明天皇、日米修好通商条約に反対

そのような中、日米和親条約を結んで勢いづいたアメリカが、今度は貿易をする条約を結べと主張してきていたのです。

ところでこの時代は、天皇が頂点に立つ朝廷と、将軍がリーダーの幕府の2トップで日本を統治していました。

そしてこの時アメリカ総領事ハリスとの交渉役を務めたのは、幕府の代表、井伊直弼(いいなおすけ)です。

井伊直弼は幕府で大老という将軍の最重要補佐役を務めていました。

今回のアメリカの要求に対して朝廷側、つまり孝明天皇は条約に反対していました。

ところが井伊直弼はこの意向に反し、日米修好通商条に調印してしまったのです。1858年のことでした。

正に日本の激動の時代ですね。

二つの権力が対立していたということじゃ

当時の朝廷は政治の舞台では幕府の采配を後ろで見守るような立ち位置だったのですが、この井伊直弼の行動に孝明天皇が立ち上がり、「外国は排除するべき!」と主張し、表舞台に出てきました。この主張が攘夷(じょうい)論です。

しかも日本がアメリカに迫力負けしてサインしたようなものですから、尚さら孝明天皇も日本の国のピンチだと感じたのでしょう。

実際この頃世界では少し前の1840年に現在の中国にあたる清とイギリスの間にアヘン戦争が起きています。

この戦争でイギリスは圧倒的な強さで勝利をおさめ、清に対し有利な条約を締結したことは孝明天皇の耳にも入っていたはずですから、欧米諸国は日本の脅威だと見なしていたでしょう。

孝明天皇・36歳で崩御

 

こうして孝明天皇は幕府と対立をするように攘夷論を唱えましたが、幕府をつぶす!という強硬派ではありませんでした。

従って幕府のスタンドプレイの筆頭にいる井伊直弼には憤慨しながらも、朝廷側の過激な攘夷派と手を結ぶこともしませんでした。

というのも孝明天皇は朝廷と幕府を1つにすることを目指していたのです。この考えが公武合体です。

実際に孝明天皇は歩み寄りを見せた幕府に応える形で、妹の和宮(かずのみや)を幕府の将軍家茂(いえもち)に嫁がせるなど、公武合体の意思を行動で示していきました。

ところがそんな時に孝明天皇の死は突然やってきます。

疱瘡(ほうそう)により崩御ということになっていますが、その死因については他殺だったのでは?という説もあります。

国を司るシステムを1つにしようと尽力していたさなかの突然の死は、孝明天皇にとって無念だったことでしょう。

ただ短い生涯だったとはいえ、孝明天皇が幕末に果たした役割は非常に重要なものだったといえます。

孝明天皇の雑学的エピソード

京都の大火の際に避難し、一時仮御所にもなった下鴨神社は氏神様として皇室と縁の深い神社です。

その為孝明天皇は21年間の在位中、折に触れ国の安泰等を祈願しに訪れ、その回数は36回にものぼりました。

この行動からも孝明天皇の真面目でひたむきな姿勢が伺えますね。

学習院大学の生みの親

孝明天皇の父、仁孝天皇は勉強熱心で、京都に公家の為の教育機関を作りました。そんな父親を持つ孝明天皇もまた勉学を重視する血を受け継ぎ、天皇に即位した翌年の1847年、京都御所の隣に学問所を設置しました。

この施設が2年後、「学習院」という名称になったのです。

孝明天皇の没後、明治天皇の住居は東京に移り、公家や大名出身者たちは華族となるわけですが、明治天皇もまた孝明天皇の遺志を継いで華族に勤勉精神を伝える為、神田錦町に華族学校を開設し、校名を学習院と定めました。

親の遺志を重んじ名称も引き継いだ学校が、現在も多くの学生の学び舎となっている事は日本の歴史のキラリと光る1ページといえるのではないでしょうか。

孝明天皇例祭

孝明天皇が崩御した1月30日は、現在も孝明天皇例祭という宮中行事が行われる日になっています。

この日は皇霊殿という、宮中にある皇室の祖先が祀られている場所で祭典が行われる他、平安神宮でも祭儀が行われます。

実は孝明天皇は平安京で生まれ過ごした最後の天皇なので、平安神宮の主祭神として桓武天皇と共に、その名を連ねているのです。

平安神宮は大変有名な観光名所の1つですね。

孝明天皇のお墓も京都に

孝明天皇の天皇陵、つまりお墓の名前は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)と言い、京都市東山区の泉涌寺(せんにゅうじ)内にあります。

この寺には代々の天皇の陵墓があります。

明治から日本の制度で大きく変わったことの1つが元号のつけかたです。

これまでは平安時代や鎌倉時代といった時代の中(時には時代をまたいで)に複数の元号が存在していました。

そして天皇の在位と元号の期間は一致していませんでした。孝明天皇も様々な厄災や事件を体験し、その状況を変えようと元号を複数回に渡って改めました。

それが明治以降は天皇一代につき元号を一つ定めるという制度に変わったのです。この制度が一世一元(いっせいいちげん)です。

つまり孝明天皇は一世一元の制度に変わる前の最後の天皇だったのです。

孝明天皇ってどんな人?やったことって何?激動の幕末を生き抜いた!まとめ

日本にいる歴代天皇の中でも時代の大きな節目を生きた1人である孝明天皇。

若くして即位してから外国の脅威や天災・人災に遭いながらも、元号を変えてみたり、神社にお参りに行ったりしながら日本を守ろう、朝廷と幕府をうまく融合させようと奔走した姿からは、常に高いモチベーションを持ち続けた人物像が浮かんできます。

多忙な職務に追われる中でも孝明天皇は和歌に親しみ、市民の安泰な生活や健康を願う思いを綴っていました。

安政の大地震とそれに伴う火災が起こった時には

「我よりも 民のまづしき ともがらに 恵ありたく おもふのみかは」

と国民に恵みがあってほしい心中を謳いました。激動の時代を走り抜け、実に凝縮した36年の生涯だったといえるでしょう。

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参考文献

https://kyotofukoh.jp/report1884.html
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1123
https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
https://discoverjapan-web.com/article/50820
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87-16349 https://www.gakushuin.ac.jp/ad/kikaku/history/index.html#02
https://rekisiru.com/14107
https://blog.goo.ne.jp/ayaka-r0301/e/4cf35b3d0a7f473f41925929649f1916 https://bakumatsu.org/men/view/1
https://www.shimogamo-jinja.or.jp/about/rekishi/

 

 

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