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大正天皇の側室や死因はなに?大正天皇・10のエピソードを紹介!

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皆さんは11月3日、4月29日がなんの日かご存知ですか?

文化の日、みどりの日という名前がついていますが、これらはそれぞれ、明治天皇と昭和天皇の誕生日です。

しかし不思議なことに、大正天皇の誕生日は祝日になっていません。これは大正天皇の在位期間がわずか15年で短かったためと言われています。

日本の歴史でも、明治や昭和に比べていまいちパッとしない大正ですが、それは天皇に関しても同じです。

明治天皇や昭和天皇については、そのエピソードが数多く残されているにも関わらず、大正天皇の人柄はあまり知られていません。

この記事では、謎の多い大正天皇について、残されている10個のエピソードを紹介し、そこからどんな人物だったのかを解説します!

目次

大正天皇は病弱?病気との戦い

インターネットで大正天皇を調べると、「病弱」という言葉が多く出てきます。これは本当で、大正天皇の人生は、病気との戦いであったとも言えるのです。

エピソード1 生まれたときから命の危機

難産で、生まれたときから全身に発疹があった大正天皇。2カ月くらいはおう吐やけいれんを繰り返す危険な状態でした。

そもそも、明治天皇の子どもは15人いましたが、男の子5人のうち、成人するまで生きたのは大正天皇ただ1人なのです。

その他の子どもは、なんと、生まれてから1~2年のうちに亡くなってしまいます。

皇統を継承するという使命をもつ天皇家にとって、男の子が次々と亡くなることは、非常に深刻な問題だったことでしょう。

大正天皇は病気がちだったとはいえ、命を落とさずに成長できただけでも、すごいことだったのかもしれません。

エピソード2 病弱すぎて学校を退学!?

命を落とすことは免れたものの、大正天皇は小さい頃から脳膜炎、百日咳、腸チフス、胸膜炎など、次々と大病にかかりました。

10代になると少し安定しますが、それでも、周りは常に、大正天皇の健康状態をヒヤヒヤしながら見守っていたそうです。

通常、天皇は、親王教育という天皇にふさわしい人物になるための教育を受けさせられますが、大正天皇の場合は、発熱や食欲不振、おう吐、腹痛などに悩まされることもしばしばで、勉強どころではありませんでした。

病弱ゆえに勉強が遅れていた大正天皇は、通常6歳で入学する予備科(現在の小学校)に8歳で入学します。

この頃は体調も安定してきたため、休むことは少なくなりましたが、それでも学業の成績はふるいませんでした。

大正天皇は15歳のときに学習院を退学してしまいます。それは、勉学が遅れたまま進学しても、劣等感が強まるという理由からでした。

エピソード3 大正天皇・若くして亡くなる

引用元:大正天皇崩御

生まれたときから病弱だった大正天皇は、47歳という若さでこの世を去ります。

幼少の頃と比べれば病気にかかることは少なくなりましたが、天皇となってからは公務の忙しさとその負担の重さで、再び体調を崩すことが多くなりました。

46歳のときに重度の脳貧血を発症すると、高熱が続き、寝たきりの状態になってしまいます。

病状は悪くなる一方で、1年後に肺炎に伴う心臓麻痺で亡くなってしまったのです。当時の日本にとっては多くの国民が悲しみに打ち拉がれたことでしょうね。

大正天皇は暗愚で知的に問題があった?

インターネットで大正天皇を検索すると、「暗愚」「知的に問題があった」などあまり印象のよくない言葉が出てきます。

「暗愚」という言葉、日常で使うことはありませんが、意味は、物事の良し悪しを判断する力がなく、考えが足りないということです。

日本の君主である人物が、判断力がないと言われると心配になってしまいますよね。なぜ、大正天皇は「暗愚」という評価がつけられてしまったのかみてみましょう。

エピソード4 奇妙な症状?言葉を失った天皇

30代後半になると、大正天皇は奇妙な症状に悩まされるようになります。

それは今までの体の病気とは違った、原因不明の病気でした。大正天皇に現れた症状、それは、「言葉を失う」というものです。

天皇は勅語と呼ばれる、天皇のお言葉を話さなければなりません。しかし大正天皇はこの勅語の朗読ができなくなり、代読を頼まなければならないほどになってしまったのです。

今日の研究では、大正天皇の症状は、失語症という「話す」、「読む」、「聞いて理解する」、「書く」という、言葉を扱う脳の部分の障害だったのではないか、と考えられています。

しかし、当時はこうした病気が広く知られていませんでした。

宮内省が大正天皇の容体を「脳の力が減退している」と表現すると、世間はそれを、天皇は知的に問題があるとか、判断力がない「暗愚」だとして、噂が広まってしまったのです。

エピソード5 意味不明の奇行?遠眼鏡事件

大正天皇に残されているエピソードの1つに「遠眼鏡事件」とよばれるものがあります。

帝国議会の開院式で、詔勅を読みあげたあとに持っていた証書をくるくると巻いて、議員席を遠眼鏡のようにして見渡したという出来事です。

これは大正天皇の奇行の1つとして捉えられてしまいましたが、そもそもこのエピソードは、本当かどうか分かっていません。

時期や目撃した人も確かではないのです。

手先が不器用になっていた天皇が、証書がうまく巻けたかどうかを気にして、それをもう一度手に取って中を眺めただけという話もあります。

実際にあったか分からないし、事実としても、なにか理由があったかもしれないのに、「おかしかった」と言われてしまうのは、なんだか気の毒な気もしますね。

大正天皇はお茶目で人好きなあたたかい人柄?

ネットで検索すると、あまり良い印象をもちにくい大正天皇。

しかし、身近に仕えていた人が語る大正天皇の姿は、全く違ったところがあります。

エピソード6 あたたかい食卓を好んだ

大正天皇に残されたエピソードの中には、人好きだった様子がよく分かるものが多く残されています。その中のひとつが、食事のエピソードです。

大正天皇は食事のとき、お付きの人や女官も席に招いて、食事を共にすることが好きでした。

しかも、お付きの人にまでお酒をふるまっていたのだとか。

そばに仕えていた人は、大正天皇のことを、他に仕えたどの人物よりも、気を張らなくてよい、親しみのある人物であったと回想しています。

人好きで親しみのもてるあたたかい人柄…、大正天皇はそんな素晴らしい人物だったのでしょうね。

エピソード7 お供をまいてお茶を楽しむ

病気がちと聞くと、性格も引っ込み思案だったり、暗かったのではないかと想像してしまいますが、実際の大正天皇の性格は明るくお茶目だったそうです。

自転車が好きだった大正天皇は、まだ皇太子の時代に、裏門から自転車で飛び出して遊びに行くことがあったようで、お付きの人が知らない間に出て行かれてしまうため、探しに行くのが大変だったという話が残されています。

時には、わざとお供をまくなんて、お調子者の一面もありました。

大正天皇は自転車に乗ると、旧家である植松家にお邪魔して一緒におしゃべりをしながらお茶を飲んだり、梅林を見にお寺に行ったり、かなり自由気ままに過ごされていたようです。

私たちのイメージでは、天皇と国民の間には近寄れない壁のようなものがありますが、大正天皇はそうした壁をつくらない、気さくな人柄だったのかもしれません。

エピソード8 無邪気ゆえに説教されることも…

大正天皇は、お茶目で朗らかな性格でしたが、それが裏目に出ることもあったようです。

思ったことをすぐ口に出してしまう大正天皇は、政治を行う人たちからは苦言を呈されることもしばしばでした。

元老である山県有朋は、「君主の一言は国家に重大な影響を及ぼすため、慎重に慎重を重ねて、軽々しく口に出してはいけない」とよく大正天皇を説教していたといいます。

人好きでおしゃべりを好んだ大正天皇にとって、慎重に慎重を重ねて口にしないといけない天皇という立場は、重荷だったのかもしれません。

大正天皇・文化人だった一面も?!

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

30代後半の言葉が出ない病気のせいで、暗愚や知的に問題があったと言われてしまった大正天皇ですが、それが単なる噂だということが分かるエピソードが残っています。

エピソード9 漢詩の創作が歴代天皇ナンバー1

大正天皇の趣味は漢詩で、17歳の頃から約20年の間に、なんと1367首も作ったそうです。

これは毎週1首以上のペースで、その出来も、韻をふんで立派なものだったといわれています。

こんなにも多く漢詩を作られたのは、歴代の天皇の中でも大正天皇が断トツ一番で、二番目は、今から1200年以上も前になる、平安時代の嵯峨天皇だそう。

思ったことを簡単に口にできない立場にあったからこそ、素直な気持ちを表現できる詩の世界で、思いを表現したかったのかもしれません。

知的に問題があったなんて、根も葉もない噂で、病弱だったことで勉強の遅れはあったものの、文化的教養は相当高かったのではないでしょうか。

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明治天皇には、子どもが15人いたという話をしましたが、もちろん、1人の奥さんとの間ではなく、複数の側室がいました。

昔の天皇家は、一夫多妻だったのですね。しかし、現在は一夫一妻となりました。

エピソード10 側室を廃止

一体いつから一夫一妻になったのかというと、大正天皇の時代からなのです。

大正天皇は、皇后さまひとりを生涯大切にされ、ふたりの間には3人の子どもが生まれました。

大正天皇は3人の子どもと共に遊ぶことも多く、子煩悩だったようです。

現在の天皇家の家族のかたちは、大正天皇の時代につくられたといっても過言ではありませんね。

大正天皇の側室や死因はなに?大正天皇10のエピソードを紹介!まとめ

日本の歴史の中で最も短い時代区分だったことから、印象には残りにくい大正時代。

この時代の君主であった大正天皇にもスポットが当たることはあまりありません。

晩年の病弱な印象や言葉を失う障害のせいで誤解されているところも多いですが、大正天皇本人は、明るく朗らかで、漢詩の世界でその思いを表現し続けました。

その素直であたたかい人柄を知れば知るほど、世界と肩を並べる強い日本の君主として生きなければならなかった天皇の苦しい人生に、思いを馳せずにはいられません。

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参考文献
坊城俊良『宮中五十年』2018年、株式会社講談社
山本博文『天皇125代と日本の歴史』2017年 株式会社光文社

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