日本を象徴する存在である天皇や皇族、その結婚には当然世間の注目が集まります。
眞子内親王の結婚にも関係ない私たちもが興味津々!多くの人がその動向を見守っていますよね。
しかし天皇や皇族の結婚は、私ち一般人の結婚事情とはかなり異なるようで、、、正直大変そうです。
特に次期天皇となる人物は、日本の象徴として、その血統を受け継がれなければならないという責任と重圧があり、過去にも婚約までの過程に大きなトラブルが生じたことがありました。
今回は、世間にはあまり知られていない、大正天皇の婚約解消事件についてご紹介していきますね!
天皇の結婚ってどうなっているの?
日本の憲法で、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」すると決められています。つまり、男女がお互いに結婚したいと思えばできるのが現代の日本。
しかし、この決まりに当てはまらないのが皇族の男子です。皇族の結婚事情について、みてみましょう。
皇族の結婚事情
皇族の男子の場合、皇位を継承させなければならないという問題もあって、皇室での会議で認められなければ結婚することができません。
こうした皇族の結婚について定められているのが「皇室典範」という法律です。これは戦後につくられました。
それでは、戦前はどうだったのでしょうか。基本的には戦前も、皇族は本人たちの意志のみで結婚することはできませんでした。
まずは天皇の許しが必要で、天皇と宮内大臣が署名した勅書が発行されてはじめて、結婚が認められたのです。
しかも自由恋愛は認められておらず、複数の家柄の良い女子の中から、宮内省や女子教育の関係者によって結婚相手が選ばれました。
次期天皇の可能性がある人だから仕方ないという見方もあるかもしれませんが、やはり、自由に恋愛ができないのは辛いでしょうね。
世間には隠された!大正天皇の婚約トラブル
古くから脈々と受け継がれた天皇家の血筋を絶やしてはならない、そんな重大な責任を負っている皇族の結婚。
決して失敗してはならない天皇の婚約相手は、非常に慎重に選ばれます。
しかし、大正天皇の結婚については、慎重に選んだにも関らず、婚約解消という前代未聞のトラブルが起こってしまいました。
しかも当時この出来事は秘密にされ、今でも詳しいことは知られていません。大正天皇の婚約に一体何があったのでしょうか?
大正天皇の結婚相手の候補は?
大正天皇の結婚相手選びは、彼がまだ11歳という少年の頃から始まりました。
まだ結婚なんて先の出来事なのに、こんなにも若い時期から婚約者の選定が始まるんですね。
しかもさらに驚きなのが、このとき候補にあがった10名の女子の年齢です。最年長でも9歳、最年少はなんと3歳でした。
どれも由緒正しい家柄で、同じ皇族か、華族の中でも最も高い爵位をもつ公爵家の娘でした。
その中でも一番有力とされたのが、皇族である伏見宮禎子女王です。伏見宮は、宮家の中でも最も歴史の古い家。
そこの娘である禎子は、雪の精のように肌が白く、見るからに女王の気品を兼ねそなえた少女だったそうです。
こうして、婚約者選びが始まってから2年ほどたったころ、伏見宮禎子女王は大正天皇の妃に内定しました。
しかしこの内定から5年後、まさかの出来事が伏見宮禎子女王を襲い、婚約が解消されてしまうのです!
なぜ婚約が解消された?禎子女王を襲った出来事
禎子女王の婚約が取り消された理由、それは、彼女の健康問題でした。婚約者に内定した後、盲腸炎となってしまったのです。
その後は全快したものの、医師の診察を受けると、彼女の右胸からは、呼吸をするときに水泡音が聞こえました。
これでは肺炎を患う可能性があるということで、禎子女王は婚約者としてふさわしくない、という意見が医師の間から出たのです。
この医師の報告を聞いた宮内省の職員は、その日の日記に「失望」という言葉を記していました。
この職員の日記には、普段事務的な内容ばかり書かれていたそうです。そんな彼でも「失望」という言葉を使ってしまうほど、ショックが大きかったのでしょうね。
大正天皇にふさわしい妃とは?
禎子女王の婚約内定取り消しにみられるように、婚約者の健康状態は、天皇の妃選びにおいて最も大切なポイントでした。
なぜならば、大正天皇は幼いころから心身ともに弱く、病気がちで医者の世話なることが多かったからです。
なんと、明治天皇のもとに生まれた子どもの多くは赤子のときに亡くなっており、成人を迎えることができた息子は、大正天皇ただひとりでした。
血を途絶えさせてはならない天皇家なので、大正天皇の健康状態はかなり周りも気にしたでしょうね。
そんな天皇も年齢を重ねるごとに少しずつ健康にはなっていきました。しかし、健康な赤ちゃんを産むために、何よりもまずお妃の健康をポイントに、婚約者選びを進めていきます。
一般の方なら多少健康に不安があっても結婚できるんですが皇室は御妃になる女性の身体問題を非常に重くとらえていたのです。
婚約者選びのときに話されたこと
天皇の妃は、どんな人が選ばれたのでしょうか?もちろん、一番のポイントは健康なことや家柄だったのですが、それらをクリアした女子の中から婚約者に選ばれるポイントは何だったのか、気になりますよね。
宮内大臣や女子教育で活躍した下田歌子、華族女学校長の細川順次郎らが交わした妃候補の選定の会話がとても興味深いので紹介します。
彼らは禎子女王のことをとても高く買っていたものの、他の候補者のことは散々な言いようでした。例えば、「丈け低く(たけひくく)」、「御体裁不宜(ていさいよろしからず)」、「見ばえ無之」、「御性質宜しからず」という言葉を使って、他の女子は大正天皇の妃にはふさわしくないと意見しています。
これを今どきの言葉でいうと、チビ、ブサイク、イジワルという、なんともひどい、身もふたもない物言いでした。
まだ子どもなので、見た目も成長につれて磨かれたり、性格も改善される余地はあるはずなのですが、それでも、未来の妃候補にかけられた言葉は、このように辛らつだったのです。
婚約解消のその後は?
禎子女王は健康状態の問題があって、婚約内定を取り消されてしまいました。
ではその後、大正天皇の妃となった人物はどんな人だったのでしょうか。また、婚約を取り消された禎子女王はどのような人生を送ったのか、みてみましょう。
新しく大正天皇の妃となった人物は?
皇族であり、見ばえも性格も良かった禎子女王は、天皇の婚約者を決める関係者の多くが気に入った女の子でした。
しかし健康問題が取り沙汰されると、他の女子の中からまた婚約者を探さなければなりません。この作業は非常に難航しました。性格はいいが見ばえはよくない、見ばえはいいが性格がよくない、など、どの子も一長一短に思えたのです。
こういう見方なので、実は、次に天皇の妃に選ばれたのは、消去法で決められた女子でした。
九条節子という侯爵の娘です。節子は、休み時間には男の子のするような遊びの大将になったり、授業の最中にはやりの歌を歌いだしたりするような、健康でのびのびと元気に育った女の子でした。
大正天皇の健康にも不安があったため、これくらい活発な娘の方がよいと思われたんでしょうね。
しかし、天皇の妃なのに、選び方が消去法だったなんて驚きです。
婚約破棄された禎子女王のその後は?
婚約が解消されるというのは、その人の人生が大きく変わるということです。
しかもそれが天皇との婚約解消となれば、当事者だけでなく家も巻き込み、その後の人生に影響が出てしまいます。それを心配した宮内省は、禎子女王のその後の縁組について、精一杯協力するという約束をしました。
その約束もあったからか、禎子女王は、16歳のときに華族で陸軍軍人の山内豊景という人と結婚します。
心配された健康問題ですが、80歳まで生きたようです。当時の人としては、とても長生きですね。
しかしふたりは養子をとっていることから、子どもはできなかったのかもしれません。
その原因は分かりませんが、天皇との間に子どもが生まれなければ、それは大問題となって、彼女を苦しめたでしょう。
結果をみれば、別の方と結婚をしてよかったのかもしれませんね!
大正天皇の婚約解消事件を解説!まとめ
日本の象徴として、その血を途絶えさせてはならない天皇家。
その婚約には、重大な責任とプレッシャーがあることが窺えます。天皇の婚約破棄と聞くと、慎重に選んだはずの娘なのに、どうして破棄することになってしまったのか、と驚いてしまいますよね。
しかし、それも「血を繋ぐ」という点を最も大切にしているからこその破棄だったことが分かります。私たち一般人は、離婚という選択肢も考えられますが、その選択肢があり得ない天皇だからこそ、婚約前の破棄という形がとられたのでしょうね。
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【参考文献】
浅見雅男『大正天皇婚約解消事件』株式会社KADAOKAWA,2018年
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