日本歴史

杉原千畝ってなにをした人?日本のシンドラーと言われた外交官の物語!

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「日本の歴史上、最も多くの命を救った人物」と聞いたら、皆さんは誰を思い浮べますか?医者ではなく、歴史上の人物の話です。

日本には、第二次世界大戦のときに、約6000人もの命を救った人物がいました!それは外交官の杉原千畝です。日本のシンドラーともいわれている杉原千畝。

ちうねさんを題材にした唐沢寿明さん主演の映画もよかったわ!

外交官の彼が、なぜそんなにも多くの命を救うことができたのでしょうか?今回はそんな杉原千畝がどんな功績をのこしてきたのかみていきましょう!

外交官となるまでの杉原千畝の生い立ち

多くの命を救った千畝ですが、彼の学生時代のエピソードでひと際目を引くのが、家を追い出されているということです。一体なぜ追い出されてしまったのでしょうか。

杉原は小さい頃から学業優秀で、両親は医者にすることを望んでいました。しかし本人にはその気がなく、医学専門学校の入学試験では、解答用紙を白紙で提出してしまいます・・

杉原のすごいところは、親に「医者になる気はない」と言えばケンカになるので、諦めさせるために不合格になることを選んだところです。親の言いなりにはならず、それでいて親との衝突も避けるなんて、頭がいいですね。

しかし、この作戦は残念なことに結局失敗してしまいます。白紙で提出したことが父にばれて、家を追い出されてしまったんですね。

外交官の道へ進む

追い出された千畝は東京に行き、早稲田大学高等師範部英語科に入学しました。

親から学費や生活の援助は当然もらえず、苦しい生活を送っていた杉原は、偶然外務省の官費留学生の募集広告を目にします。

学費も生活費も保証してもらいながら留学できると知ると、必死に勉強し、みごと合格したのです。

苦しい生活を送っていたからこそ、つかんだチャンスだったかもしれませんね!

ここでロシア語を学んだ杉原は、その努力が認められ、留学生の期間を終えると外務書記生に任命され、はれて外務省の一員となりました。

医者にならなくても結局エリート街道なのね!

リトアニアに集まったユダヤ人たち

持ち前の努力で外務省きってのロシア通となった杉原は、1939(昭和14)年、リトアニアのカウナスの日本領事館への転勤が決まりました。この約1か月後、世界を揺るがす大きな事件が起きます。

ドイツがポーランドに攻め入り、第二次世界大戦が始まったのです。

このとき、杉原が派遣されたリトアニアはポーランドのとなりの国でした。とても危険な地域に転勤になってしまったのですね…。

ポーランドにいたユダヤ人の恐怖

ポーランドは1か月ほどで、ドイツとソ連によってはさみうちされ、占領されてしまいます。これに恐怖を感じたのが、そこに住むユダヤ人でした。

ヒトラーはユダヤ人の迫害政策を打ち立て、ドイツ国内のユダヤ人を排斥し、市民権を奪って国外に移住させていました。

いつなんどきでも世界にはどこかしらにクズ悪党がいるのよね。

否定派はせんがクズはひどいの

しかし、ポーランドに侵攻すると、そこに住むユダヤ人を次々に虐殺します。

これはやがて、ホロコーストと呼ばれるユダヤ人の大量虐殺へと進んでいきました。

リトアニアに逃げたユダヤ人たち

ポーランドにとどまっていては危険だと考えたユダヤ人たちは、国外脱出を試みました。こうして、杉原のいるリトアニアに、多くのユダヤ人が逃げてきたのです。

しかし、リトアニアも、近いうちソ連に併合されるため安全ではありません。彼らはさらに遠くに逃げなければなりませんでした。

そこで、日本領事館で通過ビザの発給を受け、シベリア鉄道でソ連を経由して日本に渡り、日本からアメリカなどの第三国に行こうと考えます。

外交官としてか、人としてか

1940(昭和15)年7月18日、日本領事館の前にユダヤ人が詰めかけました。彼等は、安全な国に避難するため、杉原に日本を通過するビザを求めます。

多くのユダヤ人が押しかける状況を見過ごすこともできない杉原は、日本の外務省にビザ発給許可の電報を打ちました。

日本の外務省もくそだわね。

当時、ドイツと日本は同盟国だったから大人の事情があったのじゃろ

認められないビザの発行

 

しかし外務省の答えは、杉原が求めるものではなく、その後も2度電報を打ちましたが、結果は変わりませんでした。

当時の日本の状況を考えると簡単にユダヤ人に加担するような行動はとれなかったのでしょうね。

このままでは、領事館に押しかけた多くのユダヤ人の命はどうなるか分かりません。中には、女性もまだ小さい子どもも多くいました。ビザを出さなければ、おそらく彼らはナチスドイツに殺されてしまいます…。

苦悩する杉原

このとき、杉原は2つの相反する思いで苦悩します。

外交官としては、外務省の意向を無視するわけにはいきません。命令に違反すれば、罰せられる可能性もあります。杉原には、3人の子どもと奥さんがいました。家族を養うためにも、職を失うわけにはいきませんよね…。

しかし、一人の人間として、自分を頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることもできませんでした。ビザを出さなければ、彼らはナチスに殺されてしまうのです。

杉原は、眠ることもできずに考え込み、とうとう決断します。外務省に背いてでも、ビザを発給する、それが杉原の出した答えでした。

命のビザ発行

それから杉原は、昼食の時間もとらずにビザを書きました。

こういう男、ほんと素敵だわ!

ソ連がリトアニアを併合すると、日本領事館に対して8月中には立ち去るよう命令があったので、彼とユダヤ人に残された時間は、1か月ほどしかありませんでした。

その期間に、杉原が発給したビザは、なんと2139通にものぼります!ビザの発給は、領事館を閉めた後に寝泊まりしたホテルでも、カウナス駅を発つ電車の中でも続けられました。

最後の最後まで、ユダヤ人のために、杉原はビザを書き続けたのですね…。

こうした杉原の姿をみたユダヤ人たちは、カウナス駅で杉原を乗せた電車に向かって、感謝の言葉を叫び続けたそうです。

終戦後の杉原千畝はどう生きたのか?

 

カウナスの領事館を出たあとは、チェコや東プロイセン、ルーマニアの領事館や公使館を転々としながら、戦後を迎えます。日本に戻ったのは、終戦から1年半たった1947年でした。
日本に帰った杉原は、なんと47歳にして外務省を辞めさせられてしまいます!

連合軍に占領されたことで、外交の仕事が少なくなっているという理由でしたが、杉原本人は、ビザの発給が原因だと感じていたようです。
外交官を辞めた杉原は、英語やロシア語を生かした仕事を転々としながら、戦後を生きぬきました。

ユダヤ人からの感謝

外務省の意向に背いてビザを発給したことで辞職させられたと感じていた杉原は、自分のしたことを周りには語りませんでした。

当然、日本人の多くは、杉原のことも、助けられたユダヤ人のことも知りません。

見えないところでいいことをできる人は少ないわよ。あんただってこれ見よがしに人の前でいいことするわよね。

人の前だけではない!

そんな中で、杉原の行為を忘れていなかった人たちがいます。リトアニアで助けたユダヤ人たちでした。

彼等は杉原を必死で探しましたが、外務省を辞めた杉原の足取りをたどることは難しく、ようやく見つけたときには、終戦から20年以上たっていました!

ユダヤ人たちは、当時の杉原が、外務省の許可なく独断でビザを発給していたと知り、彼こそ「諸国民の中の正義の人賞」にふさわしいと声をあげます。

この賞は、命がけでユダヤ人を救った外国人におくられる、ユダヤ人からの最高の感謝の印です。こんな特別な賞を、ユダヤ人たちは、日本人ではただ1人だけ、杉原に感謝を込めておくったのでした。

杉原千畝ってなにをした人?日本のシンドラーと言われた外交官の物語!まとめ

「諸国民の中の正義の人」の賞をもらった外交官は、30人を超えます。それでも、杉原が置かれていた立場は、他の外交官とは少し違いました。

他の外交官は、本国からの了解や、後押しがある中でビザを発給していたのに対し、杉原は本国政府に背いて、独断でビザを発給しています。

そこには、自分の職務上の立場を捨ててでも、困っている何千人もの人を見殺しにできない、そうした彼の思いがありました。正義をつらぬく心と深い愛情、そんな力をもっていたからこそ、杉原は多くの人の命を救うことができたのでしょうね。

NPO法人 杉原千畝命のビザ『杉原千畝「命のビザ」決断の記録』2020年
白石仁章『六千人の命を救え! 外交官・杉原千畝』株式会社PHP研究所,2014年

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