「怪僧」「怪物」「不死身」
これらの言葉は全て、一人の人物を表しています。それこそが、近世のロシアで活躍(暗躍)した、グレゴリー・ラスプーチンです。
身長が193センチもあったらしく時には人間じゃないのでは?と本気で思う人もいたようです。
ラスプーチンが残した逸話は数多く、謎に満ちた人物でもあります。そこで、「生涯」と「逸話」の2つの記事に分けて、この不気味な人物・ラスプーチンについて見ていきましょう!
今回扱うのは、ラスプーチンの生涯についてです。
彼は一体、どのようにして「怪僧」と呼ばれるに至ったのでしょうか?
また、彼が暗殺されるまでに、どんなことがあったのでしょうか?
ラスプーチン・農家から宮廷へ
ラスプーチンが生まれたのは、1869年のシベリア。
貧しい農村で、彼は充分な教育を受けずに育ちました(もっとも、当時の識字率は惨憺たるものでしたが……)。
やがて成長したラスプーチンは、あるキリスト教の教えに感銘を受けます。
それは、ロシア正教スコブツィ派の「犯した罪を告白して悔い改めることが、神に近づく最善の道」と言うものです。これをきっかけとして、ラスプーチンの宗教家としての一面が目覚めはじめたのです。
それ以来、ラスプーチンは家族を残し、巡礼の旅に出かけるようになります。そして、2度目の巡礼の旅で、ラスプーチンの名声は高まりました。
頭は悪いがずば抜けた思考力
ラスプーチンは元々、「学」がありません。字も読めず、書けもしませんでした。
しかし、彼はすばぬけて優れた思考力を持っていたのです!自分自身の解釈で聖書を読み解き、それが上流階級の人々の目に留まったのです。
諸説あるものの1905年、ラスプーチンはロシア皇帝が住まうサンクトペテルブルクを訪れたという記述が残っています。
そしてこの土地で、ラスプーチンは人々の病気を治してまわりました。
王族の病気を治してカリスマ的存在に?
いくら見た目が奇怪でも、病気を治してくれるとなれば話は別ですよね。ラスプーチンはどんどん信者を集めていきました。
そしてその中には、時のロシア皇帝・ニコライ2世とその妻・アレクサンドラ皇后も含まれていたのです。
皇帝夫妻の信頼を得る
一介の宗教家が、時の皇帝夫妻と親しい間柄になる、なんてなかなか信じがたい事態ですよね。
実はこの背景には、当時、ロシアの上流階級で流行っていた「神秘主義」の影響があったのです。
神秘主義を簡単に言うと、神などの「絶対的なもの」と「自分自身」を融合することを目指すものです。神秘的な力を持つとされるラスプーチンと、それを求めるロシアの上流階級は、親和性が高かったのでしょう。
ある意味で、ラスプーチンは神秘主義を体現していたのですね。
ラスプーチンと皇帝夫妻が親密な付き合いをするようになったのは、1907年に皇太子の病気を治療したことがきっかけです。血友病に苦しむアレクセイ皇太子は、ラスプーチンの治療によって回復していきました。
当時も今も、完治できない血友病。
息子の苦しさを取り除いてくれただけでも、信頼を得るには充分だったのです。しかしなぜラスプーチンは直すことができたのか不思議じゃないですか?
「怪僧」ラスプーチン
ここからは、ラスプーチンの代表的な異名「怪僧」と呼ばれるようになっていった経緯をご紹介していきます!聞けば聞くほどこの人本当に人間だったのか?と疑いますよ。
ラスプーチンは確かに、皇帝夫妻の寵愛を得ていました。その寵愛は異常なほどで、二人はラスプーチンに心酔しきっていたと言います。彼はいつでも皇帝夫妻に会うことができ、自宅アパートの家賃は皇后が払っていたという説もあります。
皇帝夫婦の寵愛というよりはもう精神的にラスプーチンに依存していたのかもしれませんね。
ラスプーチンに心酔していたのは、何も皇帝夫妻だけではありませんでした。彼は、上流階級の女性からの人気が非常に高かったのです。画像にある通り、女性からモテモテ。
今も昔も、オカルティズムに興味がある女性は多いもの。
ラスプーチンの神秘的な面と、ピッタリはまったのかもしれませんね。また、彼の女性人気が高い裏には、別の理由があったとする説もあります。有名な逸話ですので、次の記事でご紹介しましょう!
ラスプーチンの性的な技術に女性もメロメロ??
この様に、非常に人気が高く思えるラスプーチンですが、彼を疎ましく思う人々も存在していたのです。
当時から、ラスプーチンの周囲には醜聞が絶えませんでした。それの多くは、ほとんどが女性関係を指すものです。その中には、「女性との混浴」・「アレクサンドラ皇后との関係」などの噂もありました。
これらの醜聞は新聞にも載り、「反ラスプーチン派」とでも言える人々は、彼の追放を考えていたのです。
ラスプーチンにまつわる淫靡な噂は、ラスプーチンが悪の「怪僧」と見られていた証拠なのでしょう。
ラスプーチンが政治へ口出し?
ラスプーチンが皇帝夫妻と親交持った初期の頃から、彼の悪評は惨憺たるものでした。
しかし、それだけ周囲から叩かれたとしても(醜聞が新聞に載り、裁判にかけられたとしても)、ニコライ2世は、ラスプーチンをかばい続けていました。
ニコライ2世と皇后は、ラスプーチンに依存していたとも考えられるでしょう。
日本の歴史にも、政治に口を出し始めた僧侶がいました。ラスプーチンもまた、同じ道を歩みだしたのです。
皇后は特に、ラスプーチンに心酔しきっていました。彼女の口を介して、ラスプーチンは様々なことを知ります。そして、皇后の口を通して、ニコライ2世に政治的なアドバイスを行いました。そのアドバイス(口出し)はときに、大臣の人事まで及んだとされています。。
こうしたことが続き、ロマノフ朝(ロシア王朝)は「ラスプーチンの傀儡」と言われるまでに至りました。
そして暗殺へ……彼の死因は!
ラスプーチンの評判が最悪だったのは、先にお伝えした通りです。普通、これほどまで悪評が広まれば、皇帝の傍にいることなどできませんよね。
なぜラスプーチンが皇帝の傍近くに居続けたのか。
それは一重に皇帝夫妻が彼を必要としていたからにすぎません。つまり、周囲の多くの人物にとっては、ラスプーチンは排除すべき人物だったのです。しかし、彼は皇帝夫妻から離れる気配はありません。
では、どうするか? そう、反ラスプーチン派の人々は、彼の暗殺計画を立てはじめました。
それは1914年のことです。故郷に帰ってきていたラスプーチンは、自宅で短剣をもった男に襲われました。彼は腹部を刺されながらも家を出て、落ちていた棒で反撃したと言われています。
このケガが元で、ラスプーチンは長い期間、病院に入院することになりました。
そして、第一次世界大戦が勃発して間もなく、ラスプーチンの悪評は今までにないほど高くなっていました。そこで、再度彼の暗殺計画が持ち上がったのです。これの実行犯は、皇族の一人であるドミトリー太公と、大貴族のフェリックス・ユスポスでした。
1916年12月。ラスプーチンはユスポスの自宅に招かれます。そこには、美味しいワインが複数種とケーキや紅茶などが用意されていました。
実はこのケーキやワインには、劇薬である青酸カリが混入されていたのです。
それらを食べて飲んだラスプーチンですが、不思議と体調の変化はありません。しかし、アルコールが回り酔いつぶれてしまいました。
そこでユスポスは、ラスプーチンに拳銃を打ち込みます。それでも絶命に至らず、ユスポスはさらに複数発、ラスプーチンに弾丸を打ち込みました。
最初に打った弾は2発とも命中。その後は4発中1発が命中。最後に頭に1発。
これだけの弾を打ち込まれ、ようやくラスプーチンは動かなくなったと言われています。これが、彼が「不死身」と言われる所以です。
その後、ラスプーチンの遺体は川に投げ込まれました。
3日後、ラスプーチンの遺体が川から引き上げられました。しかし、実行犯は有力貴族たち。警察は満足な捜査もできなかったとされています。
ラスプーチンへのニコライ2世の依存がやばい!まとめ
ヒゲもじゃで、見るからに怪しい見た目。一体何がしたかったのか(権力の座につきたかったわけでもなさそうな……)よく分からない。そんな「怪僧ラスプーチン」の生涯をご紹介してきました。
ラスプーチンの人気は非常に高く、様々なフィクション作品に登場しています。
しかし、彼の生涯をざっと見ただけでは、どこにそんな面白さがあるのか、いまいち分からないですよね。彼の面白さの本質は、その逸話にあるのですから……
そこで、次の記事ではラスプーチンが持つ逸話についてご紹介していこうと思います。彼の本当の死因とは、一体何なのでしょうか?
是非、この記事と一緒に読んで、不死身で怪しいラスプーチンについて知っていってくださいね。
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