「ヒッタイト」と聞いて、何を思い浮かべますか?
世界史が好きな人なら、「鉄」「戦闘用馬車」などが思いつきそうですが、でも実際には「何ソレ?」と思う人の方が多いかも知れませんね。
ヒッタイトとは、現在のトルコに紀元前17世紀から紀元前12世紀頃まであった国の名前です。
なぜあまり知られていないのかと言うと、ほんの100年ほど前までその存在が世に知られておらず、まだまだ解明できていない謎な部分が多いからなんですね。
いったいヒッタイトとはどんな文明を持つ国だったのか?謎の多い滅亡の理由などご紹介したいと思います!
忘れられた大帝国・ヒッタイトってどんな国?

現在のトルコがある地域は、昔アナトリアと呼ばれていました。
アナトリアとは「日が出る国」という意味で、アジア大陸の一番西端にあります。ヨーロッパやアフリカ大陸のつなぎ目とも言える場所で、様々な人や物の交錯する重要な場所なんですね。
そんなアナトリアに紀元前2000年頃、ヒッタイト人が民族移動してきました。
ヒッタイト人がそれまでどこにいたのか、どうして移動して来たのかは詳しくわかっていません。
もともとヒッタイト人が住んでいた場所に食べ物がなくなったとか、他の民族がやってきて追い出されたなど・・・・
当時民族移動はわりと頻繁に発生していたので、ヒッタイト人もそういった理由からと移動してきたのでは?と考えられています。
ヒッタイト人は移動しても最初はいくつかのグループに分かれて、各地域でそれぞれが暮らすスタイルを取っていて、アナトリア全域を統一しようという動きはなかったようです。
ヒッタイト王国誕生!

それが紀元前1680年頃、ラバルナ1世がアナトリア各地を征服し、統一国家としてのヒッタイト古王国が誕生します。
当時の大国であったバビロンを滅ぼすなど順調に領土を広げて行きますが、後に強い王が続かなかったためか支配地域が縮小するなど、その後低迷期がやってきます。
ちなみにバビロンは、「目には目を、歯に歯を」で有名なハムラビ法典が作られた国です。仕返しされなくてよかったですね!
ヒッタイト全盛期!エジプトと肩を並べたヒッタイト帝国時代
そんな低迷期の混乱を収め、紀元前1355年頃にシュッピルリウマ1世が、各地の支配民族と戦ってそこを征服したり、妹や娘を嫁がせて同盟を結ぶ婚姻外交で領土を順調に広げ、なんとそれまでの3倍に!
それにより、ヒッタイトはエジプトに次ぐ第2の大国にまでになってしまったのです!
この時期を、ヒッタイト新王国、またはヒッタイト帝国と呼んでいます。
ヒッタイトがここまで大きくなったのは、軍事力の他に文化を吸収する能力の高さも関係していると思われます。
ヒッタイトは、征服する土地に伝わる慣習や信仰、技術など価値があると思えばなんでも取り入れ、禁止せず認めていたんだそうです。
一般的に征服とは、それまでの生活習慣や信仰を支配者のものに変えさせられ、管理されることが多いと思いますが、そうでないならヒッタイトを受け入れやすく、反発が起きにくいですよね。
後のローマ帝国も同じやり方で領土を拡大しています。圧力で押さえつけるだけでは反発が大きいことを知っていたんでしょうね。
なかなか賢く国造りを行っていたようですね!
偉大なるヒッタイト文明・その製鉄技術とは?

ヒッタイトが大国になった理由の一つに、優れた製鉄技術が挙げられます。
もともと、アナトリアの先住民であるハッティ人がすでに製鉄技術を持っていて、それがヒッタイト人に伝わり、そこから技術が向上して、より強度な鉄(鋼)を作り出すことに成功したと言われています。
鉄は、自然にある鉄鉱石から得ることが出来ますが、ただ熱して鉄を取り出しただけでは、すぐに錆びたり折れたりともろくなります。
炭素を混ぜて鋼を作り出すことで強度が増すそうですが、その技術をヒッタイト人が確立したと考えられています。
強国になるためには鉄が必要だった!
強度な鉄があれば農具などが改良できるので、生産力の向上が見込めますよね。
なにより、強度な鉄で強い武器も作れます!そういった鉄器を交易に使ったり贈答品にしたりで、ヒッタイトは強国になっていきました。
ヒッタイトの製鉄技術は国家機密で、他国に漏れないよう厳重管理され独占していたという説があります。
確かに隣国エジプトはその時まだ製鉄技術を使っていませんでした。
鉄に長けていたヒッタイト人はいくさで圧勝だったのか?
でも、鉄器という当時最強の武器のヒッタイトが戦で圧勝するかと言えばそういうわけでもないのが謎ですよね。もしかしたらヒッタイトでもまだ大量に生産できたわけではなかったのかも知れません。
後にヒッタイトが滅び、それにより技術者たちが散らばるに連れ、徐々に製鉄技術が世界に広まって行ったと言われています。
アナトリアから遥か遠い日本に渡ってくるのは紀元前4世紀頃のことです。
実は最近、ヒッタイトより1000年も古い時代の人工鉄が発見されたので、今後の調査次第では、こういった歴史が変わることがあるかも知れませんね。
謎を解け!粘土板に残された楔形文字が教えてくれること
実はヒッタイトは、その名前だけはかなり昔から知られていて、旧約聖書の中に「ヘテ人」と記されているのがヒッタイト人だと言われています。
ただ、そんなに重要な役目で登場するわけではないので、単なるイチ地方民族だと思われていたのです。
ただの地方役人と思っていたら実は官僚だった的な話
それが実はエジプトと並ぶ大国であるとわかったのは、遺跡から当時のことが書かれた粘土板が発見されたからです。
そこには、エジプト王の即位を対等な立場で祝うヒッタイト王の書簡や、エジプトとヒッタイトとの戦のことなどが記載されていて、「単なるイチ地方民族」ではないことがわかったのです。
ところで、この粘土板に書かれた文字はなんだったと思いますか?答えは楔形文字と言う、粘土板に尖ったもので掘りながら書く人類史上最も古い文字の一つです。
すでに解明できる文字もあれば、ヒッタイト語独自の楔形文字で書かれたものはまだ判明していない物もあるので、内容の全てはわかっていないそうです。
そもそも右から読むのか左から読むのかも定かじゃないなく、当然辞書なんてないので、何を頼りに解明していくのか、途方もない研究ですね・・・。でもそこから何千年も昔のことがわかるなんて、ロマンを感じますよね。
大国エジプトとの戦い「カデシュの戦い」はどっちが勝った?
そんな粘土板の書簡からわかったことの一つに、大国エジプトとの戦である「カデシュの戦い」があります。
肝心の戦の結果は引き分け、もしくはヒッタイト勝利だったそうです。なんだか曖昧な感じですが、戦いの後ヒッタイトとエジプトの間で平和条約が結ばれているのです。(最古の平和条約です)
実は、ヒッタイトとエジプト双方が永久に平和な友好関係であるように、と書かれた書簡が存在していてエジプトが勝っていれば大国なので一方的な条約内容になり、この書籍にあるような書き方にならないだろうということです。
こう言ったことからヒッタイト勝利、もしくは引き分けと考えられているんですね。
そういえば、昔の戦争ってどんなもの?

ところで当時の戦い方は、まだ乗馬の文化がないので、馬が荷台を引きその荷台に戦士と御者を乗せるチャリオットという戦闘用馬車が使われていました。
だいたい2頭か4頭の馬に乗り手が2人というスタイルが一般的でしたが、ヒッタイトは乗り手を3人にして、盾を持ち守る人を追加したのです。
従来は走り回りながら攻めて守って全て一人でやらなきゃいけないので、分担でき流のはいいですよね。
ただその分重さに耐えられるよう荷台や車輪の改良が必要になりますが、それだけヒッタイトは高い技術を持っていたということですね。
ちなみにチャリオットの戦いでは馬の調教が必須ですが、ヒッタイトの馬の調教内容が書かれた文書の粘土板も発見されています。
ヒッタイト人ってどんな人?独特な風貌と宗教観とは?
ヒッタイト人とはどんな人たちだったんでしょうか?
残された壁画によると、ヒッタイト人は背が低く、肩幅が広く長い鉤鼻と広い額を持ち、髪は中国の弁髪のように結っている姿で描かれています。
常にイヤリングをつけていて、長いローブをまとっているとか、先が尖って反っているブーツを履いていることもわかっています。こんなに具体的に様子がわかってくると、なんだか親近感が湧いてきますよね。
また、ヒッタイト人は征服した土地の信仰も吸収したので、とにかく神様がたくさんいました。
性質の似ているものは統一されたりするものの、数も多く複雑になりすぎて、最高神と言いながらさらに上の地位の神様がいたりと、ちょっとまとまらなくなってしまったようです。
各地で自分たちの好きな信仰をしているので、全部の神様を体系的にまとめる必要はなかったからかも知れません。それにしても、神様がたくさんいるのは日本と同じですね!
ヒッタイト帝国の滅亡の理由とは?
ここまで大国だったヒッタイトはなぜ滅びてしまったのでしょうか?
実ははっきりとした理由はわかっていないのです。
紀元前1200年頃、ヒッタイトの首都ハットゥシャは大火災により街の全てが焼き尽くされ廃墟になってしまいました。
ヒッタイトの存在を消すように彫刻も打ち壊され、首都だけでなくヒッタイト全域が破壊され、それまでの栄華が嘘のように一瞬で歴史の表舞台から消えてしまったのです。
ヒッタイト国内で革命が起きたという説もあれば、近隣の国々からの侵略という説もありますが、最も有力なのがギリシア北部からやってきた武装難民集団「海の民」による攻撃説です。
エジプトも恐れたという「海の民」の侵略に、近隣諸国々が便乗したのではとも考えられています。
いずれにせよ、どれも証拠はなく真相は謎のままです。
ヒッタイト文明とは?どんな文明?滅亡の理由とは!無名の文明・ヒッタイトを解説!まとめ
ヒッタイトの首都ハットゥシャは、今のトルコの首都アンカラ近郊のボアズカレという場所にあり、現在ユネスコの世界遺産に登録されています。
ここは1906年にドイツの考古学者による発見から発掘調査が進み、3000年以上も前の彫像や城門など、かつての繁栄を垣間見ることができます。
大国でありながら忽然と姿を消した謎多き帝国ヒッタイト。
日本からは距離があり、しかも今から3000年も前となると遠すぎてピンと来ないかも知れませんが、製鉄技術の伝来のように直接ではなくても影響を受けている部分は実はたくさんあるはずです。
そんな悠久の歴史に思いを馳せてみるのも楽しいかも知れません。


参考文献
「古代のオリエントと地中海世界(世界史史料1) 歴史学研究会(編集)」
「古代のオリエント」 小川秀雄
「ヒッタイト帝国–消えた古代民族の謎–」 ヨハネス・レーマン
「ヒッタイト帝国」 ジム・ヒックス
おすすめ書籍
「天は赤い河のほとり(漫画)」 篠原千絵
コメント