歴史的に有名な女傑と言えば、誰を想像するでしょうか?
オーストリアのマリア・テレジアや、日本の北条政子。そして中国の武則天などが有名ですよね。
皆、男性に劣らない胆力を持ち、頭脳も優れたものでした。しかし、ロシアの女帝・エカチェリーナ2世も、彼女達に劣るものではありません。
それでは、エカチェリーナ2世とはどんな人物だったのでしょうか。彼女の逸話や名言を元に、その人物像を見ていきましょう。
エカチェリーナ2世ってどんな人?
エカチェリーナ2世は、18世紀のロシアに君臨した女性君主です。
エカチェリーナ (当時の名前はゾフィー)は、1729年にドイツで生まれました。「絶世の美女」ではありませんでしたが、知性に溢れた魅力的な女性だったとされています。
そして、1745年。エカチェリーナはロシア皇太子・ピョートル3世と結婚しました。
しかし、夫婦仲は最悪でした!
ピョートルは彼女に興味が無く、夫婦関係もありません・・・・エカチェリーナは公然と愛人を持つようになり、また驚くことにピョートルもまた同様に愛人をつくったのです。
もう結婚の意味なんてないですね!
1762年、ピョートルがロシア皇帝に即位しました。しかし、ピョートルには政治的な才能が皆無だったようです。失敗を繰り返し、人望を失くしていきました。しかし、エカチェリーナはその反対でものすごい政治手腕がありました。
エカチェリーナには人望があり、近衛兵やロシア正教などに支持されたのです。
その結果、ピョートル3世の治世はわずか半年で幕を閉じます。
その後釜には、外国出身のエカチェリーナが座りました。そして彼女の治世で、ロシアの領土は広がり、国力も上がっていったのです。
外国出身の女性でありながら、嫁ぎ先の皇帝となる。それだけでも異例ですが、結果も出しているのだから凄いことですよね。
エカチェリーナ2世にまつわる逸話
エカチェリーナ2世には、いくつかの有名な逸話があります。そしてそのどれもが、彼女の人となりをよく表しています。
男勝りで豪快でありなながら、繊細な部分を持つエカチェリーナの素顔。
ここでは、そんなエカチェリーナ2世の逸話の中から、主なものをご紹介していきます。
クーデターでロシアの女帝に
先に、ピョートル3世の治世は半年で終わったと述べましたよね。なぜこれほど短いのかというと、エカチェリーナがクーデターを起こしたからなのです。
政治的な失敗を重ね、どんどん人望を失くしていくピョートル3世。かたや、改宗して名前も変えて、人付き合いや勉強などの努力を重ねるエカチェリーナ。あなたは、どちらを国王にしたいと思いますか?
勿論、エカチェリーナですよね。
人の心がピョートルから離れるにつれ、エカチェリーナは確固たる支持を得るようになりました。やがて、エカチェリーナはクーデターを決意します。
クーデターの際、エカチェリーナはロシアの軍服を身にまとっていました。
エカチェリーナは外国生まれでありながら、身も心もロシア人であることを周囲に示したのです。その勇ましい姿は、絵画として今に残っています。
エカチェリーナの起こしたクーデターは、難なく成功しました。しかも、ピョートル側に着いた人物をも許したので、ほとんど流血が無かったと言います。
エカチェリーナの寛容さ・・・・さすがに頭がさがります!
王位を奪われたピョートル3世は軟禁され、その9日後に亡くなりました。その死因は「痔」とされていますが、本当のところは……?
1762年、こうしてクーデターで夫を廃した女性が、エカチェリーナ2世としてロシアの女帝となったのです。
玉座の上の娼婦
「英雄色を好む」という諺をご存知ですか?
カエサルやナポレオンしかり、歴史的に見ても「英雄」と呼んで過言ではない(勿論様々な意見があるかもしれませんが)人物は、色んな意味で血気盛んだったとされています。そしてそれは、女性であるエカチェリーナ2世も同じでした。
エカチェリーナは、正式な夫・ピョートルとは不仲でした。
おそらく男女関係も無かったと考えられます。彼女と夫の子供と言われている人物も、父親は別だと考えらえます。
何せ、エカチェリーナは姑公認で愛人を作っていたのです。「跡継ぎを産む」ことを大義名分として……
エカチェリーナの生涯における愛人の人数は、有名なものだけで12人!! 細々したものまで数えると何百人というとんでもない数になるはずです。
想像すると、クラっと来る人数ではありませんか? 体力が有り余っていたのでしょうか。
エカチェリーナが本当に愛したのは?
先に挙げた12人の中には、エカチェリーナが愛し抜いたグリゴリー・ポチョムキンが含まれています。二人は秘密結婚までした仲で、本当の夫婦関係を築いていたとされています。
そして、ポチョムキンとエカチェリーナは協力してロシアを治めていたのです。
長い年月を一緒に過ごすと、何となく倦怠期が来るものですよね。エカチェリーナとポチョムキンも同じだったようです。
二人は次第に関係を持たなくなりました(仲は良かったようです)。しかし、ポチョムキンは良い男性を見繕い、エカチェリーナの元に送り込んでいたとされています。
毎晩の様に、色々な男性と寝る生活。それは、ポチョムキンが亡くなってからも変わりませんでした。そうして着いたあだ名が「玉座の上の娼婦」。
男性顔負けの体力を表しているともとれるのですが、いささか不名誉に映ってしまう逸話ですよね。
上司としての器~エカチェリーナ2世の名言~
「私は声を上げて称賛し、声をやわらげて咎める」
上に書いたのが、エカチェリーナ2世の台詞の中で最も有名なものです。この言葉には、エカチェリーナの「上司としての器」とでも言うべきものが見て取れます。
部下が何か素晴らしい功績を挙げれば、皆に聞こえるよう褒めたたえる。反対に部下が何か失敗したときは、誰もいない所に呼んで(?)注意する。
人間にとってプライドとは大切なものですから、それを守る一番良い方法ですよね。
どれだけ優れた人でも、他人のプライドを守ろうとしない人は多いもの。その点、エカチェリーナは、理想の上司と言えそうです。
男性的なエピソードが多いエカチェリーナの中でも、この名言は女性的な心配りがひしひしと伝わってくるものです。
エカチェリーナ2世とは?エカチェリーナ2世の逸話や名言がすごい・まとめ
18世紀のロシアに君臨した女帝・エカチェリーナ2世。
彼女は確実に偉人の一人でありながら、何故か歴史の影に隠れてしまっています。特に、日本での知名度は低いのではないでしょうか?
しかし、エカチェリーナのことを調べれば調べるほど、「独立した女性のサクセスストーリー」のようにも思えてきます。
夫に虐げられながらも努力して、大帝の座を射止める。なかなかできることではありません。
エカチェリーナ2世は、是非現代の働く女性に知って欲しい人物です。知るごとに頑張る勇気が出てきますよ。
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