おしゃれでかわいいドレスに、お菓子、豪華な宮殿に、仮面舞踏会、そして、処刑台。
これらの言葉から連想されるのは、一体誰でしょうか。
おそらく、多くの人が同じ人物を想像すると思います。そう! マリー・アントワネットです。
マリー・アントワネットは18世紀のフランス王妃であり、ギロチンで処刑された悲劇の女性として知られています。また、そのファッションの可愛らしさから、現代の女性にも人気ですよね。
彼女は一体どんな女性で、どんな人生を送ったのでしょうか。今に伝わる逸話を織り交ぜて、ご紹介していこうと思います。
マリー・アントワネットの生涯
王家の娘として生まれ、フランス王家に嫁いだマリー・アントワネット。これ以上ないほど、恵まれた女性のように思えますよね。
そんな彼女は、どのように育ち、どのように処刑台へと向かっていったのでしょうか。
ここでは、マリー・アントワネットの生涯をご紹介していきます。
オーストリア皇女、マリア・アントニア
1755年オーストリアのウィーン。神聖ローマ帝国皇帝のフランツ1世と、ハプスブルグ家統領のマリア・テレジアとの間に、15人目の子供が産まれました。
その子供こそが、マリア・アントニア、将来のフランス王妃マリー・アントワネットです。
元々、ハプスブルグ家は多産の家系。「産めよ増やせよ」を地で行く家系であり、当時の他の王家と同じく、政略結婚を繰り返していました。
つまり、ハプスブルグ家の他の子供達と同じく、アントニアの運命は産まれたときから決まっていたと言っても良いでしょう。重い病気(例えば天然痘)など余程の理由が無ければ、いずれは他国に嫁ぐ、という運命です。
勉強嫌いなアントワネット
そのため、アントニア達は高度な教育を受けながら育ちました。しかし、彼女はあまり勉強を好まなかったようです。それは母であるマリア・テレジアが、危機感を抱く程でした。
では、アントニアが興味を抱いていたものとは?
それは、楽しいおしゃべりでした。今の女の子とそう変わりませんよね。
少々問題はありましたが、アントニアは故郷においては幸せだったと言えるでしょう。家族仲は良く、特別仲の良い姉もいました。10歳の時に亡くなったとはいえ、子煩悩で良い家庭人の父親もいました。
ハプスブルグ家は他の王家に比べ開放的な家風で、家族のプライベートは保たれていました。夏になれば家族で離宮を訪れ、観劇などを楽しんだとされています。
アントニアは後々、この時期を懐かしく思い出したのかもしれません。
マリーアントワネット・フランス王妃に!
1770年5月16日。
フランスのヴェルサイユ宮殿で、ルイ・オーギュストとマリア・アントニアの結婚式が行われました。ルイ・オーギュストとは、後のルイ16世のこと。
これより、マリア・アントニアは、マリー・アントワネットとなったのです。
新郎は15歳。新婦は14歳の、まだ幼い夫婦の誕生でした。
フランス王家は、アントワネット(アントニア)の育って来た環境とはまるで違いました。日常生活のほとんどが儀式化され、ほぼ全ての行動が衆人環視の元で行われたのです。着替えや食事、さらには初夜まで。
こんな生活、少女が絶えることができるでしょうか?
1774年、ルイ15世が亡くなったことにより、ルイ・オーギュストが国王に即位しました。
ルイ16世の誕生です!それに伴い、アントワネットはフランス王妃となったのです。
アントワネットの贅沢三昧が始まる!
フランス王妃となったアントワネットは、王家の習慣を破りはじめました。ルイ16世に贈られたプチ・トリアノン宮殿に籠り、家族の時間や親しい人との時間を大切にし始めたのです。
そして、おしゃれにも凝り出しました。専属のデザイナーを雇い、斬新なデザインのドレスや髪形を身にまといました。
結果、アントワネットは流行の最先端を走ることになります。貴族の女性たちがこぞって、彼女のスタイルを真似し始めたのです。
おしゃれを追求すれば……? どうしたって、お金が掛かりますよね。
アントワネットのファッションを追いかけるあまり、破産の危険を感じる貴婦人もいたと言います。その上、彼女が使うお金は、フランスの国庫から出されているもの。
重税に苦しむ民衆にとって、アントワネットこそが国庫ひっ迫の原因に見えていました。その結果、彼女についたあだ名が「赤字夫人」。
民衆の恨みを一身に背負う形になったのです。
そしてその恨みが、民衆をフランス革命に進ませる原動力となってしまいました。
そしてフランス革命へ
1789年、国への怒りに満ちた民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発しました。さらには、パンを求める民衆がヴェルサイユ宮殿に行進(「十月事件」)するという事件まで起こります。
この事件をきっかけとして、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に軟禁されることになりました。
華麗なヴェルサイユでの生活から一転、古い宮殿での監視された軟禁生活。アントワネットに耐えられるものではありませんでした。彼女は、愛人・フェルセンの力を借りて国外に逃亡しようと考えます。
ヴァレンヌ逃亡事件・アントワネット脱出!
1791年、国王一家は庶民に変装しフェルセンの誘導で宮殿を抜け出しました。そしてそのまま馬車に乗り、パリから脱出したのです。
これが、有名な「ヴァレンヌ逃亡事件」であり、国王の威信を決定的に失墜させるものとなりました。
脱出は失敗に終わりパリに連れ戻された国王一家は、タンプル塔に幽閉されることになります。牢獄で家族は、改めて団欒の時を過ごしました。もう間もなく、自分達が処刑台に立つことを分かっていたのです。
1793年1月、ルイ16世は裁判によって死刑を宣告され、ギロチンでの処刑が行われました。
同年、8月、アントワネットの裁判が始まります。
彼女は終始明確に受け答えし、その態度は堂々としたものだったと言います。それでも、死刑の判決を逃れることはできませんでした。
そして、10月、アントワネットはコンコルド広場に移送され、ギロチンで処刑されたのです。
彼女は最後まで王妃らしく、しっかりとした足取りをしていました。死に恐怖して怯えた様子などは見られませんでした。
このとき、アントワネットは37歳。今からすると、若すぎる死ですよね。
マリー・アントワネットの逸話
マリー・アントワネットの逸話をご存知でしょうか?
おしゃれに関わるものから、お菓子の話。もしくは、ロマンチックなもの。彼女にまつわる話は沢山あります。良かれ悪しかれ、知名度の高さがうかがえますよね。
ここでは、そんな彼女の逸話をご紹介していきます。勿論、有名な処刑台の話もありますよ!
モーツァルトからのプロポーズ
モーツァルトと言えば、天才音楽家でとてつもない変わり者。そんな彼に、アントワネットがプロポーズされたという話が残っています。
アントワネットがまだ7歳の頃。6歳のモーツァルトは父親に連れられ、各地を巡業していました。その中にはマリア・テレジアが治めるウィーンも含まれており、彼は女帝とその家族の前で演奏する機会に恵まれたのです。
いくら天才とは言え、6歳はまだ小さな子供。普通なら緊張してしまいますよね?
モーツァルトは普通の子供と一味違いました。走り回り、マリア・テレジアにキスを繰り返し、その上見事な演奏をしてのけたのです。
しかし、演奏が終わった後、モーツァルトは転んでしまいます。それを助け起こしたのが幼いアントワネットでした。そして、それに感謝したモーツァルトは彼女にプロポーズをしました。
「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる!」
このとき、アントワネットがどんな反応をしたのか、マリア・テレジアが何を思ったのか。そういったものは今に残っていません。また、事実かどうかもハッキリしません。
それでも、彼らに残る他の逸話に比べると、可愛らしくホッコリするものですよね。
パンが無ければ……
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」
このセリフ、一度は聞いたことがありますよね。アントワネットが言ったと伝えられている言葉です。しかし、これは本当なのでしょうか?
結論から述べると、現在この言葉は、アントワネットが語ったものではないとされています。
「パンが無ければ……」に類する言葉が世に出たのは、18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソーの著作においてでした。
ルソーはこの著作の中で、「ある王女」が民衆の窮乏を伝えられ「それならお菓子を食べればよい」と言った、と述べています。
この本が書かれたとき、アントワネットはまだほんの子供。勿論、フランスに嫁いでもいませんでした。
そんな外国の王女(しかも、かなり末っ子に近い)の言葉を、フランスのルソーが知るはずありませんよね。
ルイ16世の統治下で、フランスは飢饉に襲われました。そんな中、贅沢三昧のヴェルサイユは憎しみの対象です。特に「赤字夫人」であるアントワネットの不人気具合は凄まじいものでした。
街では中傷のビラが巻かれ、詐欺事件(「首飾り事件」)にも巻き込まれました。アントワネットは悪女であると、民衆は認識していったのです。
そういった背景が、「パンがなければ……」のセリフをアントワネットのものにしてしまったのでしょう。
処刑台で
想像してみましょう。自分の死を直視しなければならないとき、冷静でいられるでしょうか。そして、人に謝罪するような余裕を持てるでしょうか。
アントワネットの逸話の中で最も有名なもの。
それが、処刑台での話でしょう。
1793年10月16日。コンコルド広場には処刑台が組み立てられていました。元王妃・アントワネットの処刑を見るため、人々が集まってきます。
髪を短く切られ、後ろ手に縛られたアントワネットは、処刑台を登り始めます。そのとき、アントワネットは処刑人・サンソンの足を踏んでしまいました。そのとき彼女が言ったとされるセリフが下記のものです。
「ごめんなさいね。わざとじゃないのよ」
そういってアントワネットは微笑み、ギロチン刑に臨みました。
自分の死を目前にして、微笑むことができる。全て覚悟していたとはいえ、アントワネットの「王妃としてのプライド」を感じることができる逸話です。
悲劇の王妃マリー・アントワネットの生涯とは? 最後の処刑台での逸話などをご紹介・まとめ
お姫様から王妃へ。そして一転罪人へ。マリー・アントワネットの人生は、まさに激動です。
彼女の人生を紐解いていくと、色々な面が見えてきます。勉強嫌いで、遊ぶことが大好きな子供っぽい姿。おしゃれやお菓子が大好きな、女の子らしい姿。そして、凛として臨んだ裁判や処刑での姿は、一国の王妃に相応しいものです。
アントワネットに悪評が着いて回るのは確かです。しかし、よくよく観察してみれば、素敵な女性であったことも分かります。
アントワネットのことを知りたい場合には、「歴史」の色眼鏡を一度取って見てみましょう。そうすることで、彼女の人となりに触れることができるかもしれませんよ。
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