江戸から明治に移り変わっていく幕末の混乱期に、「安政の大獄」という日本史上類を見ない大弾圧が行われたことを知っていますか?
激動の時代に起こった、日本の弾圧事件。
今日は「安政の大獄」がなぜ起きたのか?一体どんな出来事だったのかをわかりやすく解説します!
安政の大獄はなぜ起きた?時代背景を解説
安政の大獄とは、安政5年(1858年)から安政6年(1860年)にかけて起きた、当時の江戸幕府でNo.2の権力を持つ大老の井伊直弼が、幕府に反対する勢力を処罰・処刑した出来事です。
そんな悲惨な出来事はなぜ起きたのか、それはズバリ、幕府が自分たちの威厳や威信を取り戻し、政治体制の秩序を正したかったからです。
当時、日本に一体何が起きていたのか?3つのポイントから見ていきます。
天皇の無許可のまま締結した日米修好通商条約
安政5年、日本とアメリカは「日米修好通商条約」を締結します。問題なのは、幕府が本来天皇の許し(勅許)を得ず無許可で開国を許してしまったということです。
黒船でやってきたアメリカに力の差を見せつけられ、200年以上も平和な世の中だった日本には、アメリカと戦って勝てる力も気持ちもなく、開国せよとの申し出を受け入れざるを得ませんでした。
でも、ずっと御所にこもりきりで実情を知らない天皇はそう思いません。
時の天皇・孝明天皇は根っからの外国嫌いの攘夷思想の持ち主でした。
開国するなんてとんでもない!ということで勅許を出してくれなかったのです。
天皇からは後から勅許もらえばいいか〜と思っていた井伊直弼、勝手に開国を進めてしまいます。これにより天皇や開国反対派との対立を生むことになりました。
将軍継嗣問題での対立
将軍の後継を誰にするかという将軍継嗣問題は、とても重要です。色々な人の色々な思惑が入り混じる中、井伊直弼は天皇の意向も無視して、独断で次期将軍を決めてしまうのです。
黒船がやってきたのは、第十三代将軍徳川家定の時代でした。
家定は病弱で言動も不審な点があるなど、将軍職を充分に行える人ではなく、子供もいなかったため後継を誰にするかが重要問題でした。
井伊直弼や大奥の人たちが推したのは、家定に血筋が近い紀州(現和歌山県)藩主徳川慶福(後の徳川家茂)、それに対し名門水戸(現茨城県)藩主徳川斉昭の実子である一橋慶喜を水戸藩や薩摩(現鹿児島県)藩主島津斉彬や、福井藩主松平春嶽などの有力大名が擁立しようと考えていました。
井伊直弼らと、反幕府派の対立が深まっていく中、井伊直弼は後継を慶福とすることを強行決定してしまいます。天皇の「将軍継嗣は英傑で人望があり、年長のものが良いのじゃ!!」という意向も無視されてしまいました。
戊午の密勅
ここでも天皇や一橋派だった水戸藩、薩摩藩らとの対立を生みました。
幕府をないがしろにした天皇の密勅「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」、日米修好通商条約の締結や将軍継嗣問題で、反幕府派との対立を深めていく井伊直弼。
そんな中、水戸藩らの働きかけにより孝明天皇が「戊午の密勅」を出します。
戊午の密勅とは、
・勅許なしで日米修好通商条約締結したことの叱責と説明の要求
・御三家および諸藩は幕府と協力して公武合体を成し遂げ、攘夷を推進せよ
・これらを水戸藩から諸藩に通達せよ
という内容で、幕府をすっとばして「水戸藩から諸藩に通達せよ」、という幕府をないがしろにして権威を失墜させるものだったのです。
本来、諸藩をまとめ上げるのは将軍であり幕府の役目です。
ところがそれを通り越して、名門とはいえ諸藩の一つである水戸藩にそれを依頼するなど、幕府の政治体制を大きく揺るがす大問題です。
時代の大きな転換期の中で、日本の危機に対するこういった考え方の違いから井伊直弼ら幕府と、反幕府派との対立は決定的になったのです!
安政の大獄は、反幕府派勢力一掃の大弾圧
対立の熱が徐々に高まるにつれ、国内情勢は不安定になっていきます。
幕府の威信を取り戻し幕政体制をしっかり立て直さないと、このままではまた内乱ばかりの戦国の世に逆戻りしてしまいます。
しかも今は外国からの脅威もあるのです。そこで井伊直弼は大老という権力を使い反対派を弾圧していきます。「安政の大獄」の始まりです。
弾圧された者の中にはこれから日本を支えていくような偉人もいました!どんな人物が弾圧されて行ったのかを見ていきます。
あの偉人も犠牲者に?!安政の大獄の受刑者たち
安政の大獄では、井伊直弼ら幕府派と対立していた水戸藩主徳川斉昭を永蟄居(一生外出禁止)。
慶喜や福井藩主松平春嶽を謹慎処分。
攘夷派で志士たちの先鋒となった梅田雲浜らが逮捕されるなど、100名以上もの人々が逮捕・処罰されました。
その中には、歴史の授業で必ず習うあの有名偉人も含まれています。
将軍継嗣問題で反幕府とみなされた橋本左内
橋本左内は福井藩士で、もともとは藩医師でした。秀才で有能な橋下佐内は、福井藩主松平春嶽の目にとまり側近となり、将軍継嗣問題では慶喜の擁立に奔走し藩主の支えとなりました。

安政の大獄で松平春嶽が処分されると、その側近である橋本左内も逮捕され、安政6年(1859年)11月に斬首されてしまいました。
まさか死罪になるとまで思っていなかった彼は、泣きながら死んでいったと言われています。本当にかわいそうな最期ですだったようですね・・・
本当は死ななくてもよかった?!吉田松陰の処刑理由
吉田松陰は長州藩(現山口県)で生まれ、安政4年(1855年)に叔父から「松下村塾」を引き継ぎ、そこで伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作ら多くの維新の志士を教育しました。
吉田松陰が安政の大獄で逮捕されたのは、攘夷派の梅田雲浜が吉田松陰の地元萩に滞在していた時のことを聴取するためでしたが、取り調べの際、吉田松陰は聞かれもしない老中の暗殺計画を自白したため死罪となってしまったのです。
梅田雲浜との関係は誤解が解けたので、自白がなければ解放されるはずでした。
でも吉田松陰は日本は今のままではいけない、と幕府の改革を訴えていた人物だっただけに、自らが死ぬことで訴えたいものがあったのかも知れません。
死を免れた西郷隆盛
西郷隆盛は薩摩(現鹿児島県)藩士で、藩主島津斉彬とともに、次期将軍に慶喜を擁立しようと働いていました。
当然西郷隆盛も安政の大獄で狙われるはずですが、その前になんと西郷隆盛は月照というお坊さんと入水自殺をはかっているのです。月照は薩摩藩と朝廷の橋渡し役でしたから幕府から追われていて、西郷とともに薩摩に逃げようとしますが、薩摩藩からは拒絶されてしまいます。
身を儚んだ月照と西郷は錦江湾に入水し、月照は死亡したものの西郷は奇跡的に助かり、薩摩藩が奄美大島へ流罪としました。
薩摩藩は、表向きは死亡とし世間の目をごまかし、実際は流罪にすることで西郷隆盛を守ったのでした。
他にも水戸藩を中心に武士から公家、町人に至るまで処罰・処刑の手は及びました。
安政の大獄の結果はどうなった?
100名以上の人々が処罰・処刑された安政の大獄で、反幕府勢力は勢いを削がれていきます。その状況を打開するため、水戸藩士らによって、井伊直弼の暗殺計画が持ち上がります。
安政7年(1860年)3月3日、いつもの通り登城するため城に向かっていた井伊直弼一行は、江戸城桜田門の前で襲撃され命を落としました。登城の様子を見ようと集まっていたたくさんの町人の眼前で、大老が襲撃されるのは前代未聞の大事件でした。
結局、安政の大獄で反幕府勢力を弾圧しても、時代の流れは止められず、薩摩藩や長州藩ら反幕府派により追い詰められ、江戸幕府は終焉を迎えるのです。
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