幕末

大久保利通って何をした人?わかりやすく解説!イギリスとの戦争を引き分けに持ち込んだ!

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歴史の教科書ではひげが特徴的な大久保利通。

明治維新で活躍し、維新の三傑の一人といわれています。

しかし、ドラマなどでは西郷隆盛の陰にかくれてしまい、イマイチ何をした人なのかわからない方がほとんどだと思います。

明治政府では重要な役割を果たした人なのに西郷ばかりが有名なのよね

実は江戸幕府を終わらせて、新しく出来た明治政府では政府の中心となって、日本を新しい時代に導いた人なのです!

これだけでは何をしたのか全然わからないという方のために、今回、大久保利通は何をした人なのか生い立ちからわかりやすく説明したいと思います。

幼馴染は西郷隆盛

大久保利通は1830年、薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士、大久保利世と妻である福との間に長男として生まれました。

当時の薩摩では「郷中(ごじゅう)教育」といって地域ごとに分けられた郷中ごとに、年長者が年少者たちに武術や学問を教える仕組みがありました。大久保利通は体が弱くあまり武術は得意ではなかったのですが、よく読書をし、学問は郷中の中でもトップクラス!

そして大久保利通はこの郷中で3歳年上の西郷隆盛と出会い一緒に武術や学問に励んでいたそうです。

大久保利通と西郷隆盛は幼馴染だったのですね。子供の頃はどんな話をしていたのでしょう!ケンカをすることもあったのでしょうか・・・

西郷さんの方が腕力はありそうだわ

謹慎処分を受けた大久保利通

 

1846年、大久保利通は「記録所書役助」という役職につきます。

しかし1850年薩摩藩では「お由羅騒動」という大きな事件が起こります。

当時の藩主であった島津斉興の正室の子である島津斉彬と、側室の子である島津久光、どちらを後継者とするかで、二つの派閥が対立!そして、斉彬派が側室であるお由羅の方と久光の暗殺を企てたとして、数人に切腹などの処分が下されました。

この事件で連帯責任を問われた大久保利通の父、大久保利世は島流しの処分となり、大久保利通は謹慎処分となり役職も解かれてしまいます。

そして大久保家では父と息子が処分を受けたため、給料がなくなり大変貧しい生活をするようになりました。

この時に幼馴染であった西郷隆盛は積極的に大久保利通を支援したといわれています。そして大久保利通はこの謹慎処分の間、学問に励んでいました。

当時の謹慎処分というのは全く家の敷地の外に出ることが出来なかったそうですので、それを考えると気が狂いそうになりますね!その間に、いじけることなく学問に励んでいたとは・・・とても立派です!

どんどん出世していく大久保利通

島津斉彬が藩主になると1853年に大久保利通の処分も解かれ、3年ぶりに復職します。

1858年、島津斉彬の死後、西郷隆盛が島流しにあうと、大久保利通は西郷の代わりとなり、薩摩藩の若手武士達のリーダーとなり皆をまとめました。

島津斉彬の死後実権を握っていたのは島津久光。

その久光の好きな囲碁を通じて大久保利通は久光に接近していきます。

そして1860年には「勘定方小頭格」となり約半年後には「御小納戸役」とどんどん出世し、薩摩藩の政治に関わるようになりました。

防げなかった寺田屋事件

当時の薩摩には過激な尊王派の藩士たちもいました。

そしてその藩士たちは大久保利通がまとめていたグループの一部。島津久光は、過激派の藩士たちが暴走しないように大久保利通と話し合っていました。そして大久保利通は、彼らに何度も説得を試みていました。

しかし、ある日悲しい事件が起こってしまいます!

過激派の藩士たちが京の町に火をつけ挙兵するという計画を知った島津久光は、過激派の藩士たちの元へもう一度大久保利通を向かわせます。

大久保利通は彼らを説得しようとしましたが拒否されてしまいました。

こんなに説得したのに!

今度は、大久保利通がまとめていたグループのメンバーがもう一度説得に向かいました。しかし過激派の藩士たちはそれも拒否したために、斬りあいが起こってしまいます。

斬る側も斬られる側も、元は同じ大久保利通がリーダーとなりまとめていたグループのメンバー。

この事件は寺田屋という旅館でおきたために寺田屋事件(1862年)と呼ばれています。

お互い日本の未来を語り合った仲間同士、戦わなければならないなんて悲しいことですね。きっと大久保利通もこの事件を止めることができなくてくやしかったことでしょう。

薩英戦争

1862年、生麦事件といって島津久光の行列の前を横切ったイギリス人が斬られてしまう事件が起こります。

イギリスは薩摩藩に賠償を求めましたが、薩摩藩はそれを拒否!

そのため1863年、イギリスと薩摩藩で戦争が起こってしまいます。これを薩英戦争と呼びます。

この時大久保利通は作戦指揮にあたっていました。

余談ですが、イギリスの艦隊を見ようと屋根に上った大久保利通は滑って転んでしまいます。それを見た周りの人に「大久保さんはイギリスの艦隊を見て腰を抜かした」と噂されとても困ったという逸話が残っているそうです。

いつも落ち着いているイメージの大久保利通でも転ぶことがあるのですね!

イギリスという一つの国と、日本の一部である薩摩藩が戦争をするわけですから、薩摩藩がすぐに負けてしまいそうな気がしますよね。

しかし、この戦争は引き分けに終わり、その後イギリスと薩摩藩は友好関係を結びます。

失敗に終わった四侯会議

1863年御側役となり、島津久光の側近となります。

当時、鎖国をしていた日本にペリーの黒船が現れたことで人々は大混乱。幕府を倒そうと考える「討幕派」や天皇が政治をするべきと考える「攘夷派」、外国の勢力を追い払おうと考える「攘夷派」など、様々な考えが入り乱れていました。

島津久光は幕府と天皇が協力して政治を行う公武合体が必要だと考えていました。そして大久保利通は島津久光の元、公家の岩倉具視らと協力して公武合体を進めていきました。

そして1866年には、土佐藩の坂本龍馬の協力もあり、対立していた長州藩と薩長同盟を結びます。

1867年には四侯会議といって、勢力のあった藩の代表との話し合いの場を開催させることに成功!

この四侯会議で大久保利通たち、薩摩藩は公武合体への改革を進めようと考えていました。しかし、第15代将軍徳川慶喜の反対にあい、失敗してしまいます。

このことがあってから、薩摩藩は公武合体の考えから武力による討幕を目指すことになりました。

討幕と王政復古のクーデター

1867年10月14日、とうとう討幕の密勅(みっちょく)を出してもらうことに成功し、西郷隆盛や小松帯刀と共に署名しました。

いよいよ討幕だ!となりましたが、同じ10月14日に徳川慶喜は大政奉還といって、朝廷へ政権を返してしまいました。

しかし、朝廷では幕府よりの公家たちが主導権を握っており、大政奉還後も徳川慶喜が政治を行うことに変わりはなかったのです。

そこで大久保利通は西郷隆盛や公家の岩倉具視らと協力し、王政復古のクーデターを起こし、新政府を発足させることに成功しました。

せっかく討幕の口実を得ることが出来たのに、あっさり大政奉還されたら「今までの頑張りはいったい何だったんだ!」ってなりそうですよね・・・

大久保利通の明治政府での働き

1869年明治政府の参議に就任した大久保利通は、版籍奉還や廃藩置県などの改革を行います。

1871年には大蔵卿といって、現在の財務大臣に就任します。その後岩倉使節団の一員として、アメリカやヨーロッパなどの外国に視察に行き、政治や軍事など色々な分野のことを学びました。

1873年には内務省を設置し、初代内務卿(明治時代の事実上の首相)となり外国に対抗できるよう経済や軍事力を発展させ、日本の近代化を進めました。

しかし、日本の近代化がまずは大事だと考える大久保利通は、朝鮮を開国させようとする派閥と対立し、対立していた西郷隆盛たちが辞職してしまいます。

外国を視察してきた大久保利通だからこそ、日本の近代化の重要性を感じていたのでしょう。

今の日本があるのは大久保利通たちのおかげかもしれませんね。

西南戦争と大久保利通の死

1877年、西南戦争が起こります。明治政府に不満があった薩摩の士族たちが反乱を起こし、西郷隆盛と対立することになったのです!大久保利通は京都で政府軍を指揮、西郷隆盛は薩軍総指揮官として薩摩軍を指揮することに・・・。

この時、大久保利通は西郷隆盛に直接会って説得したいと希望したそうですが、政府に反対され、会うことは出来なかったそうです。

子供の時から支えあってきた大久保利通と西郷隆盛。お互い戦う運命になるなんて思ってもいなかったでしょう。

西郷隆盛の死を知った時、大久保利通は号泣したといわれています。

そして1878年5月14日、大久保利通は明治政府に不満をもっていた士族に暗殺されてしまいます。この時大久保利通は西郷隆盛からの手紙を肌身離さず持っていたそうです。

常に日本の将来を考えていた大久保利通と西郷隆盛。最後は敵味方になってしまいましたが、大久保利通は西郷隆盛が亡くなったあとも、西郷のことを思っていたのでしょうね。

大久保利通って何をした人?わかりやすく解説!まとめ

いかがでしたでしょうか。大久保利通は何をした人なのか、生い立ちや西郷隆盛との関係も含めて説明してみました。

江戸幕府を倒し、明治政府では日本の近代化を進めた大久保利通ですが、最後は暗殺されてしまいます。鹿児島では西郷隆盛の敵とされていたため、死後も鹿児島に帰ることは出来なかったそうです。

2人の活躍はちゃんと歴史に刻まれておるぞ!

いつも西郷隆盛と比べられてしまう大久保利通ですが、縁の下の力持ちである大久保利通がいなければ西郷隆盛も活躍出来なかったでしょう。

少し古いドラマですが1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」は、大久保利通と西郷隆盛の友情と対立を描いています。2人の関係性や大久保利通のことが気になる方は鑑賞してみてはいかがでしょう。

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