日本歴史

足利尊氏と後醍醐天皇の関係とはどんなものだったのか!尊氏は裏切りもので性格悪い?

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南北朝、それは朝廷が2つに分かれ、数多の裏切りが交錯した異様な時代でした。

そんな時代には足利尊氏と後醍醐天皇という2人の男が存在したのです。

彼らは敵対しこの異形な時代のキッカケを作ってしまいます。

異様で異様で異様な時代・・・・

しばしば話題に上がるこの2人の関係性。

ですが結構ややこしい時代ですので意外とチンプンカンプンな方も多いのでは?

彼らはなぜ争ってしまったのか?今回はその経緯をお話しながら2人の関係をみていこうと思います。

鎌倉幕府滅亡・当初は敵の立場だった2人

実は足利高氏(尊氏)と後醍醐天皇、この2人は最初敵同士だったのです。

足利高氏はもともと鎌倉幕府に仕えていた武士でした。同時期、朝廷では後醍醐天皇が即位していました。

倒幕の野心を持つ熱き天皇、それが後醍醐天皇です!

正中の変、元弘の変と2度の倒幕を計画するも事前にバレてしまい、後醍醐天皇は島流しとなってしまいます。

島流しにあった後醍醐天皇は、、一念発起?

2度もバレるとは…

馬鹿丸出しね

後醍醐天皇「ムムム…何のこれしき( `―´)ノ!」

後醍醐天皇は大量のイカに身を隠しつつ(!?)自力で島から脱出、全国の武士にこう呼びかけました。

後醍醐天皇「私とともに倒幕に加担する者は名乗り出でよ!」

それに呼応するように倒幕運動は盛んになります。

そしてその誘いに高氏も影響され、篠村八幡宮にて倒幕の意を決することになります。

鎌倉幕府「あの高氏が裏切るなんて…ひいきしてあげてたのに…(´;ω;`)ウッ」

幕府から厚い信頼を受けていた高氏でしたが、彼は1333年、六波羅探題(朝廷や西国の武士たちを監視する役職のこと)を攻め滅ぼしました。

その数日後に新田義貞が鎌倉を攻略したのを契機に、鎌倉幕府はついに滅んでしまったのです。

建武の新政・意外にも尊氏を寵愛していた?

 

倒幕後、後醍醐天皇念願の建武の新政がスタート。

もとは敵でしたが倒幕に大きく貢献してくれた高氏を後醍醐天皇は重用していくことになります。。

後醍醐天皇は自身の名前から「尊」の一文字を取って高氏に与えました。

これ以後高氏は「足利尊氏」と名乗るようになります。

よいなあ、名前をいただけるとは!

また数々の重要な役職に任命させたことからその寵愛ぶりがうかがえますね。

さてこの建武の新政ですが、結果的に大失敗してしまいます。尊氏は重用こそされたものの、征夷大将軍にはなれなかったのです。

(ちなみにこの時征夷大将軍になったのは護良親王です。この人は後述する中先代の乱で殺されてしまうのですが…。)

尊氏と後醍醐天皇の考えのズレ

尊氏は新たな武家政権を作り、後醍醐天皇と二人三脚でよろしくやってくプランでした。

ですが後醍醐天皇は幕府を置かない、天皇中心の政治を理想としていたので、ここで両者の微妙なすれ違いが起きてしまいます。

また後醍醐天皇のこの思想から、他の武士を蔑ろにしてしまう事態も起きてしまうのです。

全国の武士「俺たち武士の扱いが酷すぎる!ご褒美も無いし新しい幕府も立ち上げてくれない(-“-)ムムム」

我慢の限界に達した武士たちは尊氏を頼りにしていきます。

平清盛も武士を邪険にして嫌われたわよね。結局武士を大事にした源頼朝が勝利したけどその構図かしら

中先代の乱での尊氏の勝手な行為

:

 

そんな中、北条氏の残党が鎌倉で中先代の乱を起こします。尊氏の弟、足利直義は当時鎌倉で反乱軍との戦いに苦戦していました。

尊氏は直義を助けるために、自分を征夷大将軍に任命してほしいと後醍醐天皇に頼みます。

ですが尊氏の申し出はアッサリと断られてしまいました。

結局尊氏は後醍醐天皇に無断で鎌倉へ赴き反乱軍を鎮圧します。

その後尊氏は、直義の意見を聞き入れしばらく鎌倉に留まることにました。

ある日、尊氏は直義にあるアドバイスをされます。

直義「せっかくだから建武の新政で冷遇された武士たちに褒美をあげちゃえば(・∀・)?」

うわあ・・勝手にそんなことしたら後醍醐天皇憤慨するぞお

足利尊氏の行為が裏目に??

直義的には建武の親政なんてクソくらえ。それより自分たちで新たな幕府を立ち上げようと考えており、今のうちに武士の信頼を集めておこうと目論んでいたようです。

尊氏「さっすが直義!勝手に褒美をあげるだけなら後醍醐天皇も分かってくれるよね(^^)」

尊氏は次々と部下に褒美を与えました。

ですが結果的にこの行為は後醍醐天皇の怒りに触れることになってしまいます。

さんざん優遇してあげたのにも関わらず、自分の許可なしに部下に勝手に褒美をあげている尊氏。

後醍醐天皇「尊氏が勝手な行動したら天皇の立場が揺らぐでしょー!」

恩をあだで返されたような思いに後醍醐天皇は怒り心頭。

これまでの寵愛ぶりはどこへやら、尊氏を「朝敵(=天皇や朝廷の敵)」とみなし、新田義貞に尊氏追討令を下してしまいました。

寵愛されながらも、後醍醐天皇を裏切ってしまった尊氏。当然2人の関係は悪くなってしまいます。

建武の乱!動揺するも天皇に弓を引くこととなる尊氏

後醍醐天皇直々に朝敵認定されてしまった尊氏はオロオロ。

「ヤバイ後醍醐天皇を怒らせちゃった。怖いからもう出家するー( ノД`)シクシク」

けつの穴の小さい小さい男じゃ!

と、なんとお寺に籠もってしまいます。兄がこんな調子ですので仕方なく直義が戦に出る羽目に。

ですが直義は尊氏に比へ、戦いにおいては手腕がありません。度々の直義軍敗戦の報に

「直義が死んでしまったら私は生きていても仕方ない(`・ω・´)キリッ」

とついに尊氏も出陣することとなります。最初あんなに情けなかったのにこの切り替えの早さ

しかしそんな尊氏も次々と後醍醐天皇軍に敗戦。ついには九州まで落ち延びてしまいます。もはやこれまでかと思われましたが、その後尊氏は破竹の勢いで数々の好戦績を残します。

途中光厳上皇の院宣を受け取り、朝敵の汚名も晴れました。

尊氏「やった!これでもう私は天皇家の敵じゃない!」

こうなりゃもう怖いものなしです。

尊氏は多くの仲間を引き連れ湊川にて楠木正成・新田義貞軍を打ち破ります。

そしてついに尊氏は入京を果たすのです。(都である京都にはいることができました)

尊氏の勢いに流石に叶わないと思ったのか、後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、ついに降伏。

持っていた三種の神器(天皇の皇位の証みたいなもの)を尊氏側の天皇(北朝)に渡しました。

朝廷が一つとなり、混乱も絶え、新たな武家政権が築かれめでたしめでたし…。

とはなりませんでした。

南北朝の幕開け・後醍醐天皇の揺るぎない意地

後醍醐天皇「やーい本物の三種の神器はこっち(南朝)だよー。だから南朝が正統ね(^o^)」

なんと先ほどの北朝側に渡った三種の神器はニセモノ。

なんちゅう詐欺師!!

尊氏の擁立した天皇などあくまで認めず、後醍醐天皇は吉野にて新たな政治機関を設けたのです。負けず嫌い往生際が悪いですね汗

そんなこんなで北朝と南朝とに分裂してしまうカオスな状況、かくして「南北朝時代」はここから始まってしまったのでした。

後醍醐天皇・志半ばで崩御

その後尊氏は南朝勢力から北朝を守るため、京に幕府を開きます。

奇しくも後醍醐天皇はその翌年、志半ばで崩御してしまうのです。

死の直前、後醍醐天皇はこんなことを口にしていました。

「私は今吉野にいるが、魂はいつも京都にある。私が死んでも北朝に降伏はするな。」

命が尽きるまで尊氏ひいては北朝を敵視し続けた後醍醐天皇。念願の建武の新政ができたと思ったら尊氏に邪魔され、結果それが頓挫(とんざ)してしまった。

まあ尊氏を憎む気持ちも分かりますがね…。

「尊氏」に後醍醐天皇の優しさが見え隠れ・・・

そんな彼ですが、一つ意外なエピソードが存在します。

それは生涯「尊氏」と表記し続けていたこと。敵対後他の家臣が忌み嫌い「高氏」と表記していた中一貫して「尊」という字を使い続けていました。

これは尊氏に対する後醍醐天皇なりの配慮だったのではないか?とも言われています。

頑固なイメージですが、後醍醐天皇なりの男の意地でしょうか。

男のこういう部分がかっこいいのよねえ〜好きだわ〜

生涯後醍醐天皇を敬愛していた尊氏

さて、このように北朝と南朝とに分かれ、敵対関係となってしまった2人ですが、敵対後も尊氏の後醍醐天皇に対する想いは変わりませんでした。

尊氏は天皇を祖先にもつ家系、元々天皇家を敬っており、そしてそれは後醍醐天皇に対しても例外ではありません。

生涯「尊氏」と名乗り続け、敵対後も周囲の人たちによく後醍醐天皇の話をしていたそうです。

尽きぬ後醍醐天皇との思い出話を聞かされ、さぞかし北朝側の天皇や直義以下の臣下たちは反応に困ったでしょう。

尊氏「後醍醐天皇ってこんなに凄い人なんだよー(^^)」

周囲の人「ハハハ…(^^;」

こんな微妙な空気が流れてそうです…(笑)

後醍醐天皇が崩御した際は深く悲しみ、彼の菩提を弔うため天竜寺を建てました。造立資金も何とか工面し、当時としては立派な寺院でした。

また尊氏の後醍醐天皇に対する敬愛がよく表れている願文も残っています。

ここでは割愛しますが、本当に後醍醐天皇を尊敬していたんだなと感心します。

尊氏は周りにはやし立てられたとは言え、結果的に後醍醐天皇を裏切ったことに負い目を感じていたのでしょう。

尊氏はその後も周囲に振り回され波乱の人生を歩むのです。

足利尊氏と後醍醐天皇の関係とはどんなものだったのか!尊氏は裏切りもので性格悪い!まとめ

尊氏と後醍醐天皇、彼らは何とも不思議な関係性でした。

最初は敵、次は味方、最終的に修復不可能なまでに敵対してしまった両者。

しかし彼らなりにお互いを認め合い、尊敬し、その思いは最期まで変わることが無かったのです。

裏切りが当たり前の戦乱の世において、この不思議な関係性は奇妙であり、同時に暖かい人情のようなものを感じます。

うーん、いつの世も人間関係は複雑で面白い。

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