日本歴史

源頼朝の功績についてわかりやすく簡単に解説します!

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初めて武家政権を作った人をご存知ですか?

それは初代鎌倉幕府将軍、源頼朝です。

小学校の社会の教科書に載っているのでみなさんも1度はみたことあるのではないでしょうか?

社会なんて嫌いだったというかたもこの凛とした男前の写真は知っていると思います。

今日は、源頼朝がどんな人物なのか、どんなことをしてきたのかわかりやすくみていきたいと思います。

源頼朝とはどんな人物?生い立ちなど

出典元:Wikipedia

源頼朝は1147年に源氏の棟梁である源義朝の子として熱田(現在の名古屋市)に生まれます。

1156年に起きた保元の乱で平清盛とともに勝利した源義朝は少しずつ自身の勢力拡大を目指します。

源義朝は次第に自分よりさらに権勢を拡大し勢いに乗る平清盛とライバル関係になりやがて対立するようになります。

そして保元の乱から約3年後の1159年、平治の乱が勃発します。

この乱で源義朝と源頼朝は平家の軍と戦いますが敗北します。

敗北した源義朝は戦場から逃れる途上で味方の裏切りで無念の最後を遂げてしまいます。

信じていた味方からの裏切りで命を落とした源義朝。

さそ無念だったでしょうね。

父、源義朝の無念の最後は子である頼朝に猜疑心を芽生えさせます。

源頼朝はのちに異母兄弟の源義経を討ち、親戚の源範頼を追放することになります。

頼りになるのは己のみという気持ちは子供のころ経験した裏切りにより父を亡くすという強烈な経験がすくなからず影響しているのかもしれません。

平治の乱で敗北した源頼朝や異母兄弟の源義経は平家に捕らえられてしまいます。

引用元:Wikipedia

源義朝の子として極刑も考えられた源頼朝でしたが清盛の継母である池禅尼の助命嘆願もあり頼朝は伊豆への流刑となります。

また異母兄弟の源義経は、母である常盤御前がなんと清盛の寵愛を受ける身となり一命をとりとめ最終的には京都の鞍馬山に預けられる事に決まりました。

平清盛の措置は寛大でしたが最終的にはこの平治の乱での戦後処理がのち約20年後の源頼朝の平家打倒の挙兵につながる事になってしまいます。

平家の独裁政権が始まる

出典元:Wikipedia

平治の乱で勝利した平清盛は太政大臣という最高権力者の地位にまで到達します

また平清盛は日宋貿易にも力をいれ一族は全国に領地を所有するようになります。

平家の一族である者は財力や高い官位を授かり大いに繁栄したそうです。

しかし長年の間にわたり土地を盗賊などから守ってきたのは平家ではなく地元の武士たちです。

地元で汗する武士たちは時には農作業なども行いながら自分たちが支配できる土地を開墾しながら長年の間に渡り守り抜いてきたのです。

それを尻目に平家は天皇家と姻戚関係を築くなど巧みな工作を行いかつて藤原氏が行ってきた独裁政治と同じ手法の、平家一門だけの都合のいい政治を行っていきました。

全国の土地の所有権は次から次に平家が独占し、地元の武士たちの領地はどんどん失われていきます。

『平家にあらずんば人にあらず』と平時忠という平家一門の人が有名な言葉を残していますが、まさに平家の全盛期は一族につながる人しか栄達できない時代だったといえます。

武士たちの不満の高まり

身勝手ですべてを独占する平家のやり方に対する不満は諸国の武士のみならず一部の有力な貴族にも広がっていきます。

ついに1180年に以仁王の挙兵の要請に応じる形で源頼朝は挙兵します。

源頼朝は初戦の石橋山の戦いにこそ兵士の数が不足したため敗北します。

石橋山の戦いに敗れた源頼朝は洞窟の中に逃げ込み危機的状態になりますが平家側の武士である梶原景時は洞窟に隠れていた源頼朝を見つけたにも関わらず、平家側に報告をしません。

源頼朝はこれによって命拾いすることになったのです。

平家は敗因は財産も名誉もすべて自分たちが独占してしまった結果といえます。

いざという時に命の危険をも顧みず働いてくれる武士たちに配慮を忘れてしまい、全国の武士たちへの配慮を怠ったため肝心の戦の場面で平家を支えてくれる武士が次第にいなくなってしまいます。

通常ならば石橋山の戦いの敗北で源頼朝は歴史から消えていたかもしれません。

でも歴史から消えたのは平家でした。

武士の時代が来ているにも関わらず、平家のみが繁栄する時代であると勘違いしたため平家は歴史の表舞台からやがて消えていくことになります。

さて石橋山の戦いで九死に一生を得た源頼朝。

その後の富士川に戦いでも平家はまともの戦闘もせず敗走します。

そして富士川の戦いの翌年の1181年に平家の全盛期を築いた平清盛がこの世を去ります。

平家は平清盛の死後、さらに権勢は失われていきます。

源氏軍の京都侵入を防げず、平家はやがて都を落ち延びます。

一ノ谷の戦いそして屋島の戦いでも平家は源氏との戦いに敗れて敗走します。

そして最後は源義経らと壇ノ浦の戦いに敗れて滅びる事になります。

壇ノ浦の戦いが起きたのは1185年です。

平治の乱で平清盛が勝利してから約25年後には平家の天下は消滅してしまいます。

源頼朝は平家との戦いには石橋山の戦いこそ参加しますがその後の戦いは参加せず、鎌倉に本拠を構えて京都から距離を置いて源氏の棟梁として源氏の勢力拡大を行っていきます。

1185年に源頼朝は全国に守護と地頭を設置し、源頼朝に味方した武士たちを守護や地頭に任命します。

守護は地域の治安の維持を図る役目で、地頭は土地から上がる税を徴収する役目です。

土地こそがすべての基礎であった当時の武士たちとしては守護や地頭に任命される事は
とても喜ばしいことでした。

新しい時代は平家のように一族のみの栄達を考える政権ではない武士全体の利益に配慮する政治だったためため源頼朝の人気は高まっていきます。

源頼朝は武士の世界では英雄的な存在にもなり1192年に征夷大将軍となります。

鎌倉に武士が京都の公家に支配を受けず自分たちのルールで社会のシステムを作っていく時代が始まりました。

源頼朝の功績

源頼朝は平家が高い官位や土地の独占し多くの武士や貴族を敵に回した事実を考慮し
平家とは違う形で全国の武士を味方につける武士政権の樹立を目指していきます。

そもそも平家は京都で朝廷で官位を独占します。

全国の土地を一門で支配し自分たちだけの繁栄を享受しようとし、他の貴族や武士を無視した政治を行います。

これに対して武家政権の樹立を目指す源頼朝は平家の土地支配で自分たちの土地が危うくなる中で、武士が一番関心がある土地の所有を認めます。

いざ鎌倉いざ将軍家という火急存亡の危機にある時は土地の所有を認めるからぜひ味方をしてほしいという土地介在の主従の関係です。

全国の武士たちは、ぜひ認めてほしい土地の支配権を武士に任せる政策を行う源頼朝に続々を支持を表明します。

武士はこれから貴族からもそして平家からも支配されない土地を介在した武士の権利を朝廷に認めさせる武家政権である幕府を開きました。

武家による武士の権利を認める政治を積極的に源頼朝は進めていきます。

そして1192年に京都の公家政権も正式に認めた鎌倉幕府が成立します。
(※鎌倉幕府成立の時期は全国に守護と地頭を設置した1185年説も現在有力ですが、ここでは源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年を取らせて頂きます。)

征夷大将軍が政治を武士の棟梁として政治を行う形式は室町そして武家政治の完成形である徳川幕府へと引き継がれていきます。

その点では源頼朝の果たした役割は幕末の大政奉還まで継続する武家社会の始まりを作った英雄といえそうです。

源頼朝がいなければ日本における武士の社会的な役割はかなり違う形になっていたと感じます。

台頭する武士の権利拡大につとめ武家社会の基礎を作った頼朝は1199年に享年53(満51歳)の人生に幕を閉じます。

 

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