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皇帝ネロの人生とは?わかりやすく解説!母までも殺し最後は悲しく散ったネロ

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かつてローマ帝国に君臨した皇帝ネロ

ネロは、中国の「夏桀殷紂(かけついんちゅう:夏の桀王、殷の紂王)」に劣らない程有名な暴君です。

もしかすると単純な知名度としては、桀王や紂王より上かもしれません。

しかし、ネロの人となりや暴君と呼ばれる理由は、あまり知られていませんよね。

ネロは何故、暴君と呼ばれるようになったのでしょうか。

また、その生涯でどんなことを行ったのでしょうか。

ネロのことを調べるにつれ、彼の背後にいる人物が目につくようになります。

この記事では、ネロを取り巻く人々に焦点を置いて、「皇帝・暴君ネロ」について見ていくことにしましょう。

目次

暴君ネロとはどんな人物?

16歳でローマ帝国の第5代皇帝になった暴君ネロ。

世界史の授業などで一度は聞いたことがありますよね。ネロは一般的に「暴君」として知られています。

キリスト教徒の迫害やローマ大火の犯人説、母を殺したという逸話はあまりにも有名です。

しかし、ネロには芸術家としての一面もありました。

ここでは、暴君としてのネロは勿論、芸術家としてのネロもご紹介していきます。

暴君でもあり芸術家皇帝でもあった

暴君ネロは詩や歌、そして建築といった芸術を愛していました。

芸術家を庇護し、また、自分自身を天才芸術家だと考えていた節があります。

その才能は……?

残念ながら、あまり恵まれていなかったようです。

例えば、ネロの代表的な建築物「ドムス・アウレア」は、豪華絢爛な宮殿です。

ネロは硬度の高いローマンコンクリートを用いながらも(つまり加工が難しい)、芸術性を高めようとしました。

しかし、そのデザインの評価はあまり芳しくなかったようです。

宮殿に住んだ人が「美しくない」と言っているくらいですから。

得意としていたネロの歌声の評価とは?

詩や歌に関しては、ネロは観客の前で大々的に披露することを望んでいました。

そしてとうとう、ネロが開催したパーティー・ユウェナリア祭で、ギリシャ風の格好をして竪琴を持った彼が舞台に登場したのです。

ネロの側近たちは正装をして、観客からよく見える位置に座り、彼に対し熱烈な拍手を送っていました。

また、ネロはアウグストゥス団という個人的な応援団も従えており、大声で声援を送らせていたのです。

身分の高い側近達がネロの歌を称賛し、大声で誉め称える若者達。こうなってしまうと、民衆はネロの歌に大喝采を送るしかありません。

こうしたことの全てはネロの計算で、しかしそれは、彼の才能の無さを表すものでもありました。

ネロは死ぬまで、自分を天才的な芸術家だと信じこみ、死を悟ったそのときから、有名な言葉を繰り返し呟いていたといいます。

「この世から、私という素晴らしい芸術家が消えさってしまう!

ネロの最初の暴君っぷりがすごい

アグリッピナとネロが模られた彫像

ネロは、世界史に残る暴君として有名ですよね。

では、彼は暴君としてどのようなことを行ったのでしょうか。

有名なものを挙げるとすれば、実母・アグリッピナを殺害し、キリスト教徒を迫害したこと。

そして、多くの有力な政治家に罪を着せ、粛清していったことでしょう。

ネロとその母・アグリッピナについては、後ほど詳細に語っていくことにして、残り2つを見ていきましょう(本当はもっと沢山あります)。

まずは、キリスト教迫害について。

ネロ在位当時(西暦54年~68年)、キリスト教はまだ新しい宗教でした。

知名度が高い訳でも無く、信者が飛び抜けて多い訳でも無い。どちらかと言えば、うさん臭い新興宗教。

ネロはローマ帝国で初めて、当時そう思われていたキリスト教徒を迫害したのです。

ネロは、キリスト教徒を捕まえては死刑に処したとされています。

裁判は簡単なもので、その処刑方法は苛烈なものでした。

初代ローマ教皇・ペトロも、ネロの迫害によって殉教した一人とされています。

そして、多くの人々を粛清する為に、まず、ネロはアウグストゥスの血を継ぐ者(初代ローマ皇帝で神聖化されている人物。ネロもその血を継ぐ人間の一人)を根絶やしにしました。

自分以外に、皇帝となる有力候補を残したく無かったのです。

次に、ネロは自分に歯向かう人物を許しませんでした。

これ自身は、暴君にありがちですよね。

ネロは、自分の悪口を言ったなどという理由で、身分の高い人々を粛清していきました。

死刑に処されることもあれば、自殺させられることもありました。

ネロに命じられて自殺した人の中には、ネロに長い間仕え、尽くし続けた人物も含まれていたのです。

ネロは本当に暴君だったのか

暴君としてのエピソードに事欠かないネロ。どこかに良い面は無かったのでしょうか。

調べてみると、彼の治世には二面性があったことがわかります。

暴君だけではなく、派手で享楽的であるにも関わらず、民衆に愛された人物でもあったのです。

紀元64年の大火を描いたユベール・ロベール「ローマの火災」

歴史に残る大火事、ローマ大火

この火事にまつわるネロの悪評は少なくありません(放火犯説や高みの見物説)。

しかし、ネロは、火事で被害を受けた人々の救済措置や、その後の復興などは素晴らしいもので、家を無くした人々の居場所を作り、食料を分配し、水道を整備しました。

そのうえ、木造の家から石造りの家を基本とし、ネロはローマを再建していきました。

これによって、ローマの街は大きく変わることになります。

また、ネロは盛大な祭りを度々催しました。

当時の祭りとは、娯楽の少ない庶民にとって大きな楽しみの一つです。

祭りの内容は、剣闘士試合やスポーツや歌の大会などでした。

人々はこういった催し物を楽しみにしており、施政者が民衆の心を掴むのにピッタリでした。

ネロが祭りを催したのは、自己顕示欲を満たす目的もあったのですが……

自分のためであったとしても、人々の楽しみに繋がったのは事実です。

ネロは暴君でありながら、民衆からの人気もあった珍しい君主と言えるのかもしれませんね。

暴君ネロを知るには、周囲の人物から

良かれ悪かれ、人間とは周囲の人々に影響されるものです。

皆さんも、誰かから影響を受けた経験がありますよね。そしてそれは、歴史的に有名な人物でも変わりありません。

ネロもまた、特徴的な人々に囲まれた人物でした。

多くの人々から影響を受け、暴君として、ときには善帝として振舞ったのです。

ここでは、ネロを知るために重要な人物をご紹介していきます。

溺愛したネロに殺された母・アグリッピナ

アグリッピナはローマ帝国第四代皇帝・クラウディウスの妃(後妻)であり、ネロの実母です。

兄には第三代皇帝のカリギュラがいます。

そして彼女自身が、初代皇帝・アウグストゥスの直系子孫でありました。

つまり、貴婦人中の貴婦人だったのですね。

しかし、彼女は「貴婦人」という枠に収まる人物ではありませんでした。

持ち前の美貌と頭脳を使い、自分の野心を形にしていったのです。

アグリッピナが抱く野心とは、ネロを帝位に据えて自分自身が実権を握ることでした。

そのために、彼女は様々な策謀を用います。

その代表的なものが

・ネロを夫・クラウディウス帝の養子にさせる
・ネロにセネカやブルッスという優秀な側近を迎える
・幼いクラウディウス帝の実子を孤立させ、ネロの立場を強くする

などです。

アグリッピナの策略は見事成功?

ネロは先帝の実の息子を押しのけて、16歳で皇帝となることができました。

そうして、アグリッピナの野望は実現したかに見えました。

ネロはやがて、政治に口を挟もうとする母親を疎ましく感じるようになりました。

するとどうでしょうか、アグリッピナは自ら帝位への道を阻んだネロの義弟(クラウディウス帝の実子)にすり寄って行ったのです。

もう一度、自分の思い通りになる皇帝という駒を作りたかったのですね。

この行為により、ネロとアグリッピナの仲は修正不能なものとなりました。

西暦59年、アグリッピナは皇帝暗殺を企てたとして、息子・ネロの命により殺害されました。

母の呪縛を振り払ったことで、ネロの暴君ぶりは加速していくことになります。

一説によると、アグリッピナは殺される際に下腹部を指さし、こう言い放ったとされています。

「ここを刺して殺すがいい。皇帝はここから産まれたのだから!

ネロが最も愛したポッパエア

ポッパエア・サビナ

ポッパエアとは、ネロに愛された女性の名前です。

ネロにとっては2番目の妻で、おそらく、最も愛した女性だったのでしょう。

ポッパエアは元々、ネロの友人・オトの妻でした。彼女は美しく、会話の技術に優れていました。

そんなポッパエアに、7歳年下のネロは恋してしまったのです。

ネロはポッパエアを、オトから奪い取る事に成功します。

そこには友情など関係ありません。

オトはネロに妻を奪われ、遠くの土地へと左遷されてしまったのです(ローマからポルトガル辺りへ)。

ネロは正妻を排除(冤罪を被せ流刑にした上、自殺させる)した後に、ポッパエアと結婚しました。そうして娘に恵まれたネロは喜び、「アウグスタ」の称号をポッパエアと生まれたての娘に授けます。

アウグスタとは、当時の女性が望める中で最も高貴なものでした。

このときが、ポッパエアにとっ最も幸せな時だったかもしれません。

ポッパエアはアウグスタの称号を得てからおよそ3年で、命を落としてしまうからです。

ポッパエアが2人目の子をお腹に宿していたとき(最初の子供は生後数か月で亡くなってしまいます)、些細なことからネロと口論になりました。

そのとき、ついネロはポッパエアに暴力をふるい、死に至らしめてしまったのです。

ネロはポッパエアの死を悲しみ、彼女の遺体を保存するよう命じました。

さらに、その後身の回りに侍らせた愛人はポッパエアに似た容姿をしていたとされています。

ポッパエアがネロに愛されていた。これは疑いようのない事実なのでしょう。

しかし、ポッパエアの歴史的な評価は大きく二分に分かれています。

ポッパエアがネロのキリスト教迫害を扇動していたという説と、信心深い女性だったという説の両方があるからです。

どちらが本当なのか。それは今では知りようがありません。

それでも、ネロはキリスト教を迫害し、多くの人々に残酷な仕打ちをしたことは本当です。

そう考えると、ポッパエアも独特の性格をしていてもおかしくないと思うのです。

恩を仇で返したネロ!セネカ殺害

セネカとは、ネロの側近を務めた男性です。

政治家であり、多くの著作を書いた哲学者でもありました。

幼い頃からネロの教育係を務め、父親的役割も担っていたようです。

ネロが皇帝となってからの5年間は、善政の時代でした。

この期間を「ネロの5年間」と呼びますが、その立役者となったのがセネカだとされています。

若き16歳の皇帝が職務を果たせるよう、献身的にサポートしたのです。

セネカは、アグリッピナによって取り立てられた人物でした。

しかも、流刑の身からローマへと呼び戻してもらい、皇帝(そのときは皇帝候補)の教育係を任されました。

この経緯を知れば、ネロよりもアグリッピナに恩義を感じそうなものですよね。

しかしセネカは、あくまでもネロの側近という役目を忘れませんでした。

過干渉気味なアグリッピナをネロから遠ざけ、二人の対立が激化した際にも、ネロの傍に立ち続けました。

説によると、ネロのアグリッピナ殺害についても関与していたようです。

ネロ自身、セネカのことを父親のように思っていた節があります。

セネカが引退の希望をネロに伝えたときも、なかなか受け入れなかったからです。

そんなセネカも、最期はネロによって自殺を命じられました。

『セネカの最期』(ルカ・ジョルダーノ画、1773年)

ネロ暗殺計画が明るみに出た際、セネカの名前も共犯者として挙げられたからです。

しかし、その真偽は最後まで判明しませんでした。

こうして、ネロは母親、妻(正妻・後妻)、弟(義弟)を殺した上に、父親代わりの先生の命まで奪うこととなったのです。

ローマ帝国・暴君ネロとは?わかりやすく解説!まとめ

16歳でローマ帝国の皇帝となったネロは、史上まれにみる暴君として名を残してしまいました。

その最期は、自分を導いた先生や正妻と同じく「自殺」で幕を閉じました。

追い詰められ、敵の手におちるよりは……、というわけです。

母親を殺し、弟を殺し、妻を殺し、先生でもあった側近を殺し。

そんなネロは今わの際に、どんなことを考えたのでしょうか。

本当に伝説のように、「芸術家である自分が死ぬ」ことだけを悔やんだのでしょうか。

なんとも、暴君の最期とは悲しいものですね。

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