日本歴史

学問の神様・菅原道真は怨霊だった!呪われた人生に迫る!

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年間204万人という九州最大の参拝客数を誇る太宰府天満宮は、「学問の神様」として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)を祀っています。

毎年受験シーズンになると、ご利益を授かろうとする受験生が後を絶ちません。

平安時代、明晰な頭脳で異例の出世をした菅原道真ですが、同時に日本三大怨霊の一人にも数えられています。

「神様」「怨霊」、一人で相反する異名をもつ菅原道真とはどんな人物なのか?

この記事では、怨霊となった現世への恨みとは何だったのかに迫ります。

神童と呼ばれた男・菅原道真!エリートからの転落!

引用元:Wikipedia

 

菅原道真は平安時代の貴族の家庭に生まれました。ですが、貴族としての格は低い方だったそうです。

幼いころから“神童”とも呼ばれるほど学業の才能があった道真。特に文才があったといわれ、5歳のころから和歌や詩を自分で作っていたというのです。

父親も歴史などを研究する学者でしたが、その父親の代わりに朝廷から文章作成の仕事が来るほどでした。

菅原道真・わずか19歳で朝廷の職員に!

18歳で文章生といわれる試験に合格します。これは学問を通じた公務員試験のようなもので、これにより菅原道真は朝廷で働くこととなります。

実のところ、道真はこの頃からすでに同僚から妬まれていたのです。

低い貴族の出身でありながら神童とまでいわれた秀才のことを、エリート貴族は「自分の出世を阻むやっかいもの」とでも思ったのでしょう。

その結果、菅原道真は当時左遷コースといわれた讃岐の国(今の香川県)に飛ばされてしまいます。

ところが、ときの権力者宇多天皇(うたてんのう)に気に入られていた菅原道真は、突然京都に呼び戻されたのです。

菅原道真・天皇の最側近へ

後任への引継ぎの時間さえ与えないほど、急いで京都帰りを命じられたといいますから、宇多天皇がどれほど菅原道真を気に入っていたかがわかりますね。

京都へ戻った菅原道真は、蔵人頭(くらんどがしら)という天皇の最側近となります。 さらに、役人の最高職・右大臣にまで出世するのです。

実はこの頃、菅原道真はなにか身の危険を感じていたようで、一度は右大臣に就任することを断ります。しかし宇多天皇はそれを許さず、強引に自分の側近としたのです。

濡れ衣を着せられまたも左遷

引用元:Wikipedia

 

菅原道真は宇多天皇のブレインとしてメキメキと仕事をしていましたが、宇多天皇から次の醍醐天皇に変わると状況が変わってしまいます。

「醍醐天皇を辞めさせようしている者がいる」

なんと醍醐天皇政権へのクーデター計画が噂され、その中心人物が、菅原道真だというのです。

もちろん、この噂は真っ赤な嘘。政治の主導をとろうとした左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)が、醍醐天皇へこのように告げ口をしたことで菅原道真はまたもや左遷となってしまいました。

政治の競争に巻き込まれ、華やかな京都を離れて遠く九州へと行くことになったのです。

職場では宴会隊長!家庭では子煩悩なイクメンに起きた悲劇!

引用元:Wikipedia

 

菅原道真の人柄に少し触れておきましょう。

エリート官僚の世界で持てる才能を発揮し活躍していた菅原道真ですが、その人柄には親近感を覚える話があります。

和歌が好きだった菅原道真は、歌に官能的な表現を用いることもあったのだそうです。

簡単にいうと、“エロ詩吟”も歌えたということです。

酒の入った宴会の席では、即興で女性のエロい姿を詩に載せて歌っていたというのですから、その場はかなり盛り上がったのではないでしょうか。

なかなかの芸達者として宴会ではひっぱりだこだったことでしょう。

家庭では子を愛する良きパパ

一方で、家庭に戻れば子供好きの父親でもありました。菅原道真の歌の中には、子供のことを歌ったものも多くあるそうです。

一番可愛がっていた子供が死んだときには、神も仏も恨み、全世界を滅ぼしたいといったほど。

これほど家庭を大事にしていた菅原道真ですから、クーデターの中心人物として九州へ左遷されたショックは大きかったことでしょう。

なによりショックだったのは、4人の子供たちもそれぞれ遠島に島流しの刑にされたことです。

菅原道真自身の罪も濡れ衣でしたが、そのために可愛い子供たちまでが罪人となったことは、精神を病む原因としては十分だったでしょうね。

失意の中で、京都から遠く離れた九州で菅原道真は死んでいきました。

次々と関係者を地獄へ落す怨霊・菅原道真の呪い

この世に恨みを抱いて死んでいった菅原道真は、怨霊となって京都へ舞い戻ってきます。

クーデターで失脚させられると思っていた醍醐天皇の皇子が亡くなり、醍醐天皇の孫、そして、クーデターを密告した左大臣・藤原時平の長男が立て続けに亡くなりました。

菅原道真失脚の関係者の親族の連続死は、京都中の噂となっていったのです。

そして菅原道真が死んでから27年目、清涼殿に雷が直撃

醍醐天皇を囲んでの打合せで清涼殿に集まっていた人たちが、落ちた雷によって死亡大けがをする事件となります。

引用元:Wikipedia

 

死亡者の一人、藤原清貫(ふじわらきよつら)は雷によって衣服が焼かれ即死したといいます。彼は太宰府での菅原道真を監視していました。

さらに周りで巻き添えになったものたちは、顔を焼かれて瀕死の重傷を負ったり、腹や膝を焼かれるなど7名の犠牲を出したのです。

関係者親族の死と落雷による大惨事は、京都を襲った干ばつと一緒に菅原道真の怨霊のためといわれました。

雷神になった菅原道真

引用元:Wikipedia

「道真公は雷神となった」

そういわれた菅原道真の怒りを鎮めるため、最後の地・大宰府に神社を建て雷の神様として敬うことになりました。

また、島流しにされていた子供たちも京都へ呼び戻すことになり、それ以降は平穏が続くことになりました。

関係者への恨みを晴らし、犠牲となった家族への謝罪があったことで、菅原道真も穏やかな心を取り戻したのかもしれませんね。

学問の神様・菅原道真は怨霊だった!呪われた人生に迫る! まとめ

全国の受験生から学問の神様として、崇め敬われる存在となった菅原道真

もしかしたら、年間200万を超える参拝者の祈りの心によって、菅原道真の怨念が封じられているとも考えられますね。

天空を切り裂く稲光は、祈りの心が乱れた時に現れる菅原道真の怨霊なのかもしれません。

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